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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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⚫ | [[ファイル:Leinsdorf Czech Philharmonic 1988.jpg|サムネイル|[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]]を指揮するエーリヒ・ラインスドルフ、ドヴォルザークホール、[[プラハ]]、[[チェコ共和国|チェコ]]、[[1988年]][[7月23日]]]] |
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ラインスドルフは[[ウィーン]]の[[ユダヤ人]]家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった<ref name=meien/>。[[ザルツブルク]]の[[モーツァルテウム]]で指揮法を学び、その後は[[ウィーン大学]]、[[ウィーン国立音楽大学]]でチェロとピアノを学んだ<ref name=mura/>。 |
ラインスドルフは[[ウィーン]]の[[ユダヤ人]]家庭に生まれ、5歳から地元の学校で音楽を学び始めた。父はアマチュアのピアニストだった<ref name=meien/>。[[ザルツブルク]]の[[モーツァルテウム]]で指揮法を学び、その後は[[ウィーン大学]]、[[ウィーン国立音楽大学]]でチェロとピアノを学んだ<ref name=mura/>。 |
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=== 渡米以降 === |
=== 渡米以降 === |
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1937年11月 |
1937年のザルツブルグ音楽祭で、ラインスドルフはアメリカ人の新聞社オーナーで投資家のチャールズ・エドワード・マーシュと出会った。ユダヤ系音楽家のアメリカへの脱出に力を貸していたマーシュの計らいにより、同年11月にラインスドルフはアメリカに向かい、メトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]が[[ナチス・ドイツ]]に[[アンシュルス|併合]]されるのは、彼が祖国を発ってわずか数か月後のことであった。さらにマーシュの知人で当時テキサス州選出の新人[[アメリカ合衆国下院|下院]]議員であった、後の大統領[[リンドン・ジョンソン]]の支援を受けて、ラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権を得て帰化することができた<ref name="slonimsky"/>。 |
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[[1938年]]からメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。[[1939年]]に[[アルトゥル・ボダンツキー]]が突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった<ref name=raru/><ref name="slonimsky"/><ref name="rosenberg"/>。 |
[[1938年]]からメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけ[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。[[1939年]]に[[アルトゥル・ボダンツキー]]が突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった<ref name=raru/><ref name="slonimsky"/><ref name="rosenberg"/>。 |
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[[1943年]]には3年契約で[[クリーヴランド管弦楽団]]の音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。[[第二次世界大戦]]のため[[アメリカ軍]]に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからである。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督が[[ロリン・マゼール]]から[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]へと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった<ref name="rosenberg">{{cite book | last=Rosenberg | first=Donald | title=The Cleveland Orchestra Story | location=Cleveland, Ohio | publisher=Gray & Co. | year=2000 | isbn=1-886228-24-8}}</ref>。 |
[[1943年]]には3年契約で[[クリーヴランド管弦楽団]]の音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。[[第二次世界大戦]]のため[[アメリカ軍]]に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからである。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督が[[ロリン・マゼール]]から[[クリストフ・フォン・ドホナーニ]]へと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは「政権交代の橋渡し」役だった<ref name="rosenberg">{{cite book | last=Rosenberg | first=Donald | title=The Cleveland Orchestra Story | location=Cleveland, Ohio | publisher=Gray & Co. | year=2000 | isbn=1-886228-24-8}}</ref>。 |
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[[ファイル:1973 Leinsdorf.jpg|サムネイル|[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団]]を指揮するエーリヒ・ラインスドルフ、[[1973年]][[冬]]]] |
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[[1947年]]から[[1955年]]の間、[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]の音楽監督<ref name=raru/>を務めた。しかしそこで出会ったものは[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]市民の偏狭な音楽理解であり、それは彼を絶望させることになる。ラインスドルフの「ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ! (Rochester is the best disguised dead end in the world!)」という言葉は広く知られるようになった。短い期間ではあるが[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]の音楽監督を務めたのち、再びメトロポリタン歌劇団と提携を結んでいる<ref name="slonimsky"/>。[[1962年]]には[[ボストン交響楽団]]の音楽監督に就任した。ボストンではもっぱら[[RCAレコード]]と組んでレコーティングすることが多かったが、演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった<ref name="eder "/>。 |
[[1947年]]から[[1955年]]の間、[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]の音楽監督<ref name=raru/>を務めた。しかしそこで出会ったものは[[ロチェスター (ニューヨーク州)|ロチェスター]]市民の偏狭な音楽理解であり、それは彼を絶望させることになる。ラインスドルフの「ロチェスターは世界一小奇麗な行き止まりだ! (Rochester is the best disguised dead end in the world!)」という言葉は広く知られるようになった。短い期間ではあるが[[ニューヨーク・シティ・オペラ]]の音楽監督を務めたのち、再びメトロポリタン歌劇団と提携を結んでいる<ref name="slonimsky"/>。[[1962年]]には[[ボストン交響楽団]]の音楽監督に就任した。ボストンではもっぱら[[RCAレコード]]と組んでレコーティングすることが多かったが、演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった<ref name="eder "/>。 |
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一度ならず、ラインスドルフの指揮は歴史的事件の影響を受けている。[[1963年]][[11月22日]]、ボストン交響楽団の公演中にラインスドルフは演奏を中断して、ダラスでの |
一度ならず、ラインスドルフの指揮は歴史的事件の影響を受けている。[[1963年]][[11月22日]]、ボストン交響楽団の公演中にラインスドルフは演奏を中断して、ダラスでの[[ケネディ大統領暗殺事件|ケネディ大統領暗殺]]というショッキングなニュースを聴衆に知らせるとともに、テロリストへの憤りと大統領への哀悼の意を述べ、ベートーヴェンの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番]]から葬送行進曲を披露した<ref name="bennett">{{cite book | last=Bennett | first=Susan | coauthors= | title=President Kennedy Has Been Shot: Experience the Moment-To-Moment Account of the Four Days That Changed America | location=Naperville, IL | publisher=Sourcebooks Mediafusion | year=2003 | isbn=1402201583}}</ref>。なお、ケネディ追悼ミサで[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の『[[レクイエム (モーツァルト)|レクイエム]]』を演奏し、現在もCD化され発売されている。 |
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[[1967年]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]を客演指揮することになっていたが、[[第三次中東戦争]]勃発のため急遽帰国している。[[タキシード]]を脱ぐのも忘れるほど慌てての帰国であった。演奏会自体は、戦争中であったが[[ズービン・メータ]]が代振りをして開催されている<ref name="cohen">{{cite web | url=http://www.jewishsf.com/content/2-0-/module/displaystory/story_id/8894/edition_id/168/format/html/displaystory.html | title=Adversity brings out the best in the Israel Philharmonic | publisher=Jewish news weekly of Northern California | author=Steve Cohen| date=1998-06-05 | accessdate=2007-05-25}}</ref>。 |
[[1967年]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]を客演指揮することになっていたが、[[第三次中東戦争]]勃発のため急遽帰国している。[[タキシード]]を脱ぐのも忘れるほど慌てての帰国であった。演奏会自体は、戦争中であったが[[ズービン・メータ]]が代振りをして開催されている<ref name="cohen">{{cite web | url=http://www.jewishsf.com/content/2-0-/module/displaystory/story_id/8894/edition_id/168/format/html/displaystory.html | title=Adversity brings out the best in the Israel Philharmonic | publisher=Jewish news weekly of Northern California | author=Steve Cohen| date=1998-06-05 | accessdate=2007-05-25}}</ref>。 |
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[[1974年]]にラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を客演指揮することになるが、経営悪化の関係で歌手のキャンセルなどが相次ぎ、それに対して当時音楽監督の[[ラファエル・クーベリック]]や首席指揮者の[[ジェームズ・レヴァイン]]が無力だったとして『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に苦言を呈している。これがクーベリックの音楽監督辞任に影響を与えたという説もある<ref name=tei/>{{rp|138}}。その後もラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で客演指揮を務めるが、彼の要求は厳しく、たびたびトラブルとなっている<ref name=tei/>{{rp|194}}。 |
[[1974年]]にラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』を客演指揮することになるが、経営悪化の関係で歌手のキャンセルなどが相次ぎ、それに対して当時音楽監督の[[ラファエル・クーベリック]]や首席指揮者の[[ジェームズ・レヴァイン]]が無力だったとして『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙に苦言を呈している。これがクーベリックの音楽監督辞任に影響を与えたという説もある<ref name=tei/>{{rp|138}}。その後もラインスドルフはメトロポリタン歌劇場で客演指揮を務めるが、彼の要求は厳しく、たびたびトラブルとなっている<ref name=tei/>{{rp|194}}。 |
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[[ファイル:Stolperstein für Erich Leinsdorf (Salzburg-Altstadt).jpg|サムネイル|記念プレート]] |
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[[1978年]]から[[1980年]]の間はベルリン放送交響楽団(現:[[ベルリン・ドイツ交響楽団]])の首席指揮者を務めている<ref name="eder"/>。 |
[[1978年]]から[[1980年]]の間はベルリン放送交響楽団(現:[[ベルリン・ドイツ交響楽団]])の首席指揮者を務めている<ref name="eder"/>。 |
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回想録(''Cadenza: A Musical Career'' )は[[1976年]]に上梓された。1981年にも ''The Composer's Advocate. A Radical Orthodoxy for Musicians'' を書いている<ref name=mura/>。 |
回想録(''Cadenza: A Musical Career'' )は[[1976年]]に上梓された。1981年にも ''The Composer's Advocate. A Radical Orthodoxy for Musicians'' を書いている<ref name=mura/>。 |
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[[1993年]]、癌のため、スイスの[[チューリッヒ]]にて81歳で亡くなった。 |
[[1993年]]、癌のため、スイスの[[チューリッヒ]]にて81歳で亡くなった。[[ニューヨーク州]][[:w:Hawthorne, New York|ホーソーン]]のマウント・プレザント墓地に埋葬された。 |
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== 参考文献 == |
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{{先代次代|<small>[[ロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団]]<br>音楽監督</small>|1947年 - 1955年|[[ホセ・イトゥルビ]]|[[セオドア・ブルームフィールド]]}} |
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[[Category:オーストリアの指揮者]] |
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[[Category:ユダヤ人の指揮者]] |
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[[Category:ウィーン国立音楽大学出身の人物]] |
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[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]] |
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2024年6月14日 (金) 11:09時点における最新版
エーリヒ・ラインスドルフ | |
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基本情報 | |
生誕 | 1912年2月4日 |
出身地 |
![]() |
死没 | 1993年9月1日(81歳没) |
学歴 | ウィーン大学、ウィーン国立音楽大学 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
経歴[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg/220px-Leinsdorf_Czech_Philharmonic_1988.jpg)
渡米以降[編集]
1937年のザルツブルグ音楽祭で、ラインスドルフはアメリカ人の新聞社オーナーで投資家のチャールズ・エドワード・マーシュと出会った。ユダヤ系音楽家のアメリカへの脱出に力を貸していたマーシュの計らいにより、同年11月にラインスドルフはアメリカに向かい、メトロポリタン歌劇場で副指揮者の地位を得た。オーストリアがナチス・ドイツに併合されるのは、彼が祖国を発ってわずか数か月後のことであった。さらにマーシュの知人で当時テキサス州選出の新人下院議員であった、後の大統領リンドン・ジョンソンの支援を受けて、ラインスドルフはアメリカに留まることが可能になり、また1942年にはアメリカ市民権を得て帰化することができた[1]。 1938年からメトロポリタン歌劇場で常任指揮者を務め、とりわけワーグナーの解釈で名声を博す。メトロポリタン時代はとりわけ彼の指揮するワーグナーに注目が集まった。1939年にアルトゥル・ボダンツキーが突然の死を迎えると、ラインスドルフはメトロポリタン歌劇場のドイツ物レパートリーの責任者となった[5][1][6]。 1943年には3年契約でクリーヴランド管弦楽団の音楽監督の地位を得たが、実際にはほとんど在職期間がなかった。第二次世界大戦のためアメリカ軍に徴兵されてしまい、契約も更新されなかったからである。1982年から1984年にかけてクリーヴランド管弦楽団の音楽監督がロリン・マゼールからクリストフ・フォン・ドホナーニへと移行していた時期に、ラインスドルフは何度か同楽団でコンサートを指揮したことがある。彼の言葉を借りればラインスドルフは﹁政権交代の橋渡し﹂役だった[6]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/24/1973_Leinsdorf.jpg/220px-1973_Leinsdorf.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c8/Stolperstein_f%C3%BCr_Erich_Leinsdorf_%28Salzburg-Altstadt%29.jpg/220px-Stolperstein_f%C3%BCr_Erich_Leinsdorf_%28Salzburg-Altstadt%29.jpg)
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- エーリヒ・ラインスドルフ - Find a Grave(英語)
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