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サンクト・アントン・アム・アールベルク

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サンクト・アントン・アム・アールベルクバイエルン語・標準ドイツ語:St.Anton am Arlberg, アレマン語:St.Anton am Arlbearg(ザンクト・アントン・アム・アールベアーク))は、オーストリアチロル州ランデック郡にある村である。

なお、標準ドイツ語では通常は「ザンクト・アントン・アム・アールベルク」と表記し、舞台ドイツ語では「ザンクト・アントン・アム・アルルベルク」と表記されることもある。

アールベルク峠

概要

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宿1304m260010000110宿



19607019721930

1930

地勢

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西100km250km1230165 km²1805m1905m2811m

地名

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120051800

使am Arlberg

歴史

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中世時代・アールベルク峠の基点として 

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1275 1363西 145015

19世紀後半・アールベルクトンネルの完成 

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1787年になって当時の最新技術が施された国道「ヨゼフィーニシェ・シュトラーセ」が開通したこともあり、一時的に物流や人の交流が再び増加し、村に大きな富をもたらすようになるが、1860年頃にはインスブルックから東方向へ向かうルートで鉄道が運行されるようになったため、ハル・イン・チロルで採掘された岩塩を含め様々な物や人が再びサンクト・アントンを経由してではなく、バイエルン王国(現在はドイツバイエルン州)を経由してスイスやフランス、イギリスなどに運ばれるようになる。よってサンクト・アントンの村は再び重要な収入源を失い、経済的に厳しい状況に追い込まれる。元々流通によって栄えていた地域であったため、各所帯の農業規模は小さく、家庭をもつ父親は新たな収入を求め、ハプスブルク帝国の他地域やドイツ、フランス、イタリアなどに出稼ぎに行くようになる。 しかし1884年にアールベルク峠を通るアールベルクトンネルが完成し、ハプスブルク帝国鉄道の一部となるアールベルク鉄道(現在はオーストリア国鉄の一部)が開通すると、サンクト・アントンは再び経済的に復調する。さらに鉄道の運行によって流通のみならず、サンクト・アントンは歴史上初めて観光地としての人気を得るようになる。

アルペンスキーの聖地として 

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1895宿19143691901131907192219231920193019371154

第二次世界大戦の影響 

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19381945524086

リゾート地としての発展と2001年アルペンスキー世界選手権 

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1947197556宿19751995宿9019962001 202002000910 200910000宿110

観光産業・インフラ

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10000110宿197019701990宿

農業

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農業を営む人々はここ最近減少しているが、現在でも41世帯が副業として農家を経営している。また、多くのアルムが存在し、サンクト・アントン周辺の山々では多くの牛や羊、ハフリンガー(馬)が飼われている。

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

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  • スキー郷土博物館(サンクト・アントンやアルペンスキー発達の歴史を紹介する博物館。姉妹都市である長野県野沢温泉村を紹介するコーナーもあり。一階は郷土料理レストラン)
  • ヴァルーガ山頂展望台(ゴンドラを乗り継いで登れ、標高2811mにある展望台。オーストリア、ドイツ、スイス、イタリアの4カ国を一望できる)
  • アールベルク・スキー場(サンクト・アントン、サンクト・クリストフ、レッヒなどアールベルク峠の各スキー場がリフトやゴンドラでつながっており、共通のリフト券で滑ることができるオーストリア最大級のスキー場)
  • アールベルク・ウェルコム(最新の設備を誇るウェルネスセンター)
  • サンクト・アントン教区教会(1698年に建てられた村の中心部にある教会)
  • サンクト・クリストフ礼拝堂(1386年にハインリッヒ・フィンデルキンドによって建てられた礼拝堂)
  • サンクト・ヤコブ教会(1200年代に建てられた村で最も古い教会)

外部リンク

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