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現在公開されている洞窟の範囲は、幅が約5メートル、奥行が約6メートル、高さは約7メートルで、西・北・南の壁面に、800以上の、人や動物、舟を描いたとみられる刻画が彫られている]<ref name="読売20211029"/>。図は当初200個程度と数えられていたが、その後、800個近くが確認された<ref name="道新20190505"/>。人物や動物、船などを象徴したものと推定されるものが多く、他に列点もあり、呪術的な性貭を有するものと考えられている。[[アムール文化]]との関連性が言われているが詳細は不明である。 |
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現在公開されている洞窟の範囲は、幅が約5メートル、奥行が約6メートル、高さは約7メートルで、西・北・南の壁面に、800以上の、人や動物、舟を描いたとみられる刻画が彫られている]<ref name="読売20211029"/>。図は当初200個程度と数えられていたが、その後、800個近くが確認された<ref name="道新20190505"/>。人物や動物、船などを象徴したものと推定されるものが多く、他に列点もあり、呪術的な性質を有するものと考えられている。[[アムール文化]]との関連性が言われているが詳細は不明である。 |
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洞窟には厚さ約7メートルの[[遺物包含層]]があり、薄手の土器(続縄文式土器)、[[石器]]、[[骨角器]]等が出土している。また、[[貝殻]]や[[占い]]用と推測される獣骨(卜骨)<ref name="道新20190505"/>も見つかっており、それによれば現在、遺跡周辺に生息しているものとの違いはみられなかった。 |
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洞窟には厚さ約7メートルの[[遺物包含層]]があり、薄手の土器(続縄文式土器)、[[石器]]、[[骨角器]]等が出土している。また、[[貝殻]]や[[占い]]用と推測される獣骨(卜骨)<ref name="道新20190505"/>も見つかっており、それによれば現在、遺跡周辺に生息しているものとの違いはみられなかった。 |
2022年2月5日 (土) 00:58時点における版
フゴッペ洞窟︵フゴッペどうくつ︶とは、北海道余市町栄町の通称﹁丸山﹂中腹にある[1]続縄文時代[2]の遺跡。フゴッペ︵畚部︶は栄町の旧村名。日本に700以上ある洞窟遺跡のうち、近隣の手宮洞窟︵小樽市︶と2カ所のみで現存確認されている岩面刻画で知られる[1]。
フゴッペ洞窟
立地
日本海の海岸から南方約250メートル[1]に立地し、通称﹁丸山﹂と呼ばれる砂岩質よりなる小丘陵の東方に面した岩陰遺跡である[3]。余市水産博物館が管理している[1]。
発見と調査
1950年︵昭和25年︶、札幌市から小樽市蘭島へ海水浴に来た大塚誠之助︵当時は札幌市立中島中学校3年生︶が、西に1.5キロメートル離れた丸山に足を延ばして洞窟を発見した。北海道札幌南高等学校︵南高︶郷土研究部に属していた兄の大塚以和雄から、丸山に﹁畚部古代文字﹂の遺跡があると聞いていたためである[1]。
弟から連絡を受けた兄も現地を確認した。農家が斜面から畑用の土を採ったところ、洞窟が現れたと伝わる。大塚兄弟は郷土研究部顧問の島田善三に知らせ、南高が発掘に乗り出し、同年暮れまでに土器などを見つけた。フゴッペ洞窟を有名にした岩面刻画は、後で入った別のチームが発見した。先行かつ正式な手続きを踏んだ南高に対して、鳶があぶらあげをさらうようなもの︵﹃北海タイムス﹄︶といった批判が起き、論争となった。正式な発掘調査は、島田から相談された北海道大学教授の名取武光助を団長とする調査団が1951年︵昭和26年︶および1953年︵昭和28年︶に実施した。大塚兄弟[1]のほか考古学、人類学、地質学の専門家が参加した。
遺跡概要
フゴッペ洞窟の保護展示施設
洞窟の開口部を完全に覆うように建設されている。
現在公開されている洞窟の範囲は、幅が約5メートル、奥行が約6メートル、高さは約7メートルで、西・北・南の壁面に、800以上の、人や動物、舟を描いたとみられる刻画が彫られている][2]。図は当初200個程度と数えられていたが、その後、800個近くが確認された[1]。人物や動物、船などを象徴したものと推定されるものが多く、他に列点もあり、呪術的な性質を有するものと考えられている。アムール文化との関連性が言われているが詳細は不明である。
洞窟には厚さ約7メートルの遺物包含層があり、薄手の土器︵続縄文式土器︶、石器、骨角器等が出土している。また、貝殻や占い用と推測される獣骨︵卜骨︶[1]も見つかっており、それによれば現在、遺跡周辺に生息しているものとの違いはみられなかった。
1953年︵昭和28年︶11月14日、国の史跡に指定された[4]。
1972年︵昭和47年︶から現在に至るまで、刻画は、カプセル方式の施設により保護・展示され、一般に公開されている。
「フゴッペ遺跡」