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''''''{{lang-fr|Maurice Marie Émile Leblanc}}, [[1864]][[1211]]<ref>1864121234[[1111]]</ref> - [[1941]][[116]][[]][[]][[|]][[|]][[]][[]][[]][[]]<ref>? 19331111[[]] 2013</ref>

''''''{{lang-fr|Maurice Marie Émile Leblanc}}[[1864]][[1211]]<ref>1864121234[[1111]]</ref> - [[1941]][[116]][[]][[]][[|]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref>? 19331111[[]] 2013</ref>


怪盗紳士「'''[[アルセーヌ・ルパン]]'''」の生みの親として知られる。ルブランの「ルパン」は、しばしば[[イギリス]]の作家[[アーサー・コナン・ドイル]]の生んだ「[[シャーロック・ホームズ]]」と対比される。


'''[[]]'''[[]][[]][[]][[]][[]]


== 生涯・人物 ==

== 生涯・人物 ==

===生い立ち===

=== 生い立ち ===


[[]][[]][[]]2[[]][[]][[]][[]][[|]]<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui''. Séguier, 1993. Zélie TorcatAmand-Adolphe Cambremer</ref>

[[]][[]][[]][[]]2[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[|]][[]]<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui''. Séguier, 1993. Zélie TorcatAmand-Adolphe Cambremer</ref>


[[1870年]]12月、[[普仏戦争]]のため[[スコットランド]]に疎開するものの翌[[1871年]]7月までに(当時まだ[[プロシア]]の占領下にあった)ルーアンへと呼び戻されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 [[ジャック・ドゥルワール]]著 [[小林佐江子]]・[[相磯佳正]]訳 [[2019年]]9月24日初版発行 [[国書刊行会]] P14-15</ref>。[[1873年]]10月よりジャンヌ・ダルク大通りのガストン・パトリ寄宿学校で初等教育を受けた後、同校に通学生として籍を置いたまま[[1875年]]から地元の「グラン・リセ」こと{{仮リンク|コルネイユ高等学校|fr|Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille}}に入学。しばしば表彰を受けるほどの優等生でありながらリセの厳格な空気を嫌っていたことを後に自叙伝小説「L'Enthousiasme([[1901年]])」の中で回顧している。


[[1870]]12[[]][[]][[1871]]7[[|]][[]]<ref>   [[]] [[]][[]] [[2019]]924 [[]] P14-15</ref>[[1873]]10[[]]宿[[]][[1875]]{{||fr|Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille}}[[L'Enthousiasme]][[1901]][[]]


[[1879年]]の夏には当時チェーン式が発明されたばかりの[[自転車]]を入手し、[[壮年期]]以降も[[サイクリング]]に傾倒するようになる。この当時のルブランは「神経質なほど感受性が強く、会話の際には時折[[チック]]の症状を示していた」と、実妹[[ジョルジェット・ルブラン]]の「回想録([[1931年]])」中では記述されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P39</ref>。


[[1879]][[|]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[1931]]<ref>   P39</ref>


[[1881年]]7月27~28日に文系[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]の第一部試験を受け「可」の成績で合格、最終学年である「[[哲学]]級」に進学する。最終学年では特に人間心理の分析を嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大な影響を及ぼすこととなる。

[[1881年]]7月27~28日に文系[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]の第一部試験を受け「可」の成績で合格、最終学年である「[[哲学]]級」に進学する。最終学年では特に人間心理の分析を嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大な影響を及ぼすこととなる。

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[[1882]]8[[ ()|]][[]][[]][[]][[]][[]]

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===兵役からの反動===

=== 兵役からの反動 ===


[[1883]]115150051112[[]]11[[1884]]1112[[]][[1888]]118L'Enthousiasme<ref>   P49</ref> 

[[1883]][[115]][[]]150051112[[]]11[[1884]][[1112]][[]][[1888]][[118]]L'Enthousiasme[[]]<ref>   P49</ref> 



[[]][[|]][[]][[]][[]]<ref>   P50-51</ref>[[]][[]]<ref name="ReferenceA">   P50</ref> L'Enthousiasme<ref name="ReferenceA"/>[[]][[]]

[[]]|[[]][[]]<ref>   P50-51</ref><ref name="ReferenceA">   P50</ref> L'Enthousiasme<ref name="ReferenceA" />[[]][[]]



[[1885]]12741<ref>   P56</ref><!--  -->

[[1885]][[127 ()|127]]41<ref>   P56</ref>


===パリへ、そして職業作家へ===

=== 職業作家へ ===


<ref>   P58</ref>[[]][[1888]][[]]6[[1891]]188812292[[1889]][[1890]]7<ref>   P61</ref>

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1889110[[]][[]]{{||en|Maurice_Donnay}}[[]]

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1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌(ルヴェ・イリュストレ)」において短編「救助」にて商業デビューを果たす。同作は4月3日にルネ・モロが編集長を務める「挿絵入り盗人(ヴォルール・イリュストレ)」誌にも掲載される運びとなる。9月22日から11月20日までヴェルサイユの第11連隊に原隊復帰、[[伍長]]階級として再訓練を受ける。<br>

1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌(ルヴェ・イリュストレ)」において短編「救助」にて商業デビューを果たす。同作は4月3日にルネ・モロが編集長を務める「挿絵入り盗人(ヴォルール・イリュストレ)」誌にも掲載される運びとなる。9月22日から11月20日までヴェルサイユの第11連隊に原隊復帰、[[伍長]]階級として再訓練を受ける。

11月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社から短編集「Des couples」を自費出版。「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」との献辞が記されていた。しかしながら売上は惨憺たるもので、後にルブランは「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」とぼやいている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P71</ref>。




1123[[]][[]]{{||fr|Gustave_Toudouze}}[[]]Des couplesDes couples<ref>  P72-74</ref>

11月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社から短編集「Des couples」を自費出版。「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」との献辞が記されていた。しかし売上は惨憺たるもので、後にルブランは「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」とぼやいている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P71</ref>。

11月23日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近にあるソルフェリーノ庭園で行われることを知ったルブランは、パリへの帰路の列車で、[[ギ・ド・モーパッサン]]、[[エドモン・ド・ゴンクール]]、[[エミール・ゾラ]]、{{仮リンク|ギュスターヴ・トゥードゥーズ|fr|Gustave_Toudouze}}が乗車する[[コンパートメント]]に潜り込み、「Des couples」の書評を乞おうと試みるものの、彼らは除幕式で疲弊しており、到底書評を願える空気ではなかった。この件はルネ・モロが「シャンピモン」の筆名にて「挿絵入り盗人」誌が記事にし、同時に「Des couples」への好意的な書評を掲載している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P72-74</ref>。



1891年の夏には[[ヴォコット]]に滞在、[[エトルタ]]近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れたという話を友人にしているが、モーパッサンが最後にここを訪れたのは1890年の夏であるため、虚言の可能性が著しく高い<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P78</ref>。

1891年の夏には[[ヴォコット]]に滞在、[[エトルタ]]近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れたという話を友人にしているが、モーパッサンが最後にここを訪れたのは1890年の夏であるため、虚言の可能性が著しく高い<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P78</ref>。



=== 中堅作家へのキャリアの積み重ね===

=== 中堅作家へのキャリアの積み重ね ===

ルブランはヴォコットには[[1894年]]まで毎夏滞在することとなる。[[1892年]]にはモーリス・ドネーに依頼され、この地で喜劇脚本「[[女の平和]]」を共同執筆するが、ドネーが共同執筆者である彼の名前を出さずに脚本を発表したことにより、ルブランは強く落胆する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P80-81</ref>。けれども、同時期にエトルタで知り合った{{仮リンク|マルセル・プレヴォー|en|Marcel_Pr%C3%A9vost}}は「ジル・ブラス」紙のヴィクトール・デフォセ会長を紹介、これによりルブランは「[[ジル・ブラス]]」にコラムニスト兼投稿小説家として採用される。10月3日には早速ルブランの短編「嘘だ!(副題:苦しむ人々)」が掲載され、これによりルブランの名が世に知れ渡るようになった。同日、第二訓練期間としてルブランは第11連隊に原隊復帰、10月30日まで再訓練を受ける。12月3日、かねてより入会を求めていた作家協会の準会員となる。これは「女の平和」におけるルブランの著作権を守るためにも必要なことであった。12月22日、{{仮リンク|グラン・テアトル|en|Grand_Th%C3%A9%C3%A2tre_de_Bordeaux}}で「女の平和」の公演の幕が開かれる。[[1893年]]4月9日、「ジル・ブラス」で長編小説「Une femme」の連載が開始、5月23日にオランドルフ社より単行本が出版される。オランドルフ社からは[[1894年]]4月10日にも「Ceux qui souffrent」が出版されることとなる。1894年6月11日には「自転車」のタイトルで「ジル・ブラス」に時評が掲載される。[[1895年]]4月4日、セーヌ県裁判所において既に疎遠となっていた妻マリーからの離婚請求が認められ、4月27日に離婚が成立する。これに関し、ルブランは「ジル・ブラス」の時評で「あなたは、平凡なのです」と前妻マリーを評した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P109</ref>。11月初旬にはオランドルフ社から「L’Œuvre de mort」が出版される。これは「クーリエ・フランス」や「新聞と本の雑誌」等の書評において絶賛を受けた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P112-113</ref>。ルブランは「ジル・ブラス」以外の著名誌への掲載を望みはじめ、[[ポール・エルビュ]]に「両世界評論」誌への口利きを頼むが、結局この試みは失敗に終わった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P113-114</ref>。<br>


[[1894]][[1892]][[]]<ref>   P80-81</ref>{{||en|Marcel_Pr%C3%A9vost}}[[]][[]]稿1031110301231222{{||en|Grand_Th%C3%A9%C3%A2tre_de_Bordeaux}}[[1893]]49Une femme523[[1894]]410Ceux qui souffrent1894611[[1895]]44427<ref>   P109</ref>11LŒuvre de mort<ref>  P112-113</ref>[[]]<ref>   P113-114</ref>

[[1896年]]3月、スポーツジャーナリストの{{仮リンク|ピエール・ラフィット|fr|Pierre_Lafitte}}が設立した自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会。これが後に[[アルセーヌ・ルパン|ルパン]]シリーズを生み出すきっかけとなる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P114</ref>。5月12日には「ジル・ブラス」に「征服された自然」を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示している。また同月、オランドルフ社から中短編集「Les Heures de mystère」が出版される。[[1897年]]初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中であったマルグリット・ウォルムセールと出会い、交際を始める<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P121</ref>。4月末、オランドルフ社より「アルメルとクロード」が出版される。12月、「ジル・ブラス」に自転車を主題にした小説「Voici des ailes!」が掲載される。「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」の著者であるジャック・ドゥルワールはこの作品について、「ニーチェの響きが見出せる」「自転車は人に超人の生を与えるのだ」と評している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P127</ref>。12月20日、当時発行部数65万部を誇っていた日刊紙「{{仮リンク|ジュルナル・デ・デバ|fr|Journal_des_d%C3%A9bats}}」に短編を寄稿。前後してコラムニストとして契約する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P128</ref>。[[1898年]]2月、オランドルフ社より「Voici des ailes!」が出版される。この際、オランドルフ社編集長の依頼により匿名で新刊案内を作成。加えて、「スナップショット」と題するプロフィールも執筆したが、この中で「フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らから貴重な助言を受けていた」と騙っている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P130-131</ref>。



[[1896年]]3月、スポーツジャーナリストの{{仮リンク|ピエール・ラフィット|fr|Pierre_Lafitte}}が設立した自転車サークル「アーティスティック・サイクル・クラブ」に入会。これが後に[[アルセーヌ・ルパン|ルパン]]シリーズを生み出すきっかけとなる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P114</ref>。5月12日には「ジル・ブラス」に「征服された自然」を寄稿、あらためて自転車への礼賛を示している。また同月、オランドルフ社から中短編集「Les Heures de mystère」が出版される。[[1897年]]初頭頃、夫エドワール・ウルマンと別居中ったマルグリット・ウォルムセールと出会い、交際を始める<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P121</ref>。4月末、オランドルフ社より「アルメルとクロード」が出版される。12月、「ジル・ブラス」に自転車を主題にした小説「Voici des ailes!」が掲載される。「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」の著者であるジャック・ドゥルワールはこの作品について、「ニーチェの響きが見出せる」「自転車は人に超人の生を与えるのだ」と評している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P127</ref>。12月20日、当時発行部数65万部を誇っていた日刊紙「{{仮リンク|ジュルナル・デ・デバ|fr|Journal_des_d%C3%A9bats}}」に短編を寄稿。前後してコラムニストとして契約する<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P128</ref>。[[1898年]]2月、オランドルフ社より「Voici des ailes!」が出版される。この際、オランドルフ社編集長の依頼により匿名で新刊案内を作成。加えて、「スナップショット」と題するプロフィールも執筆したが、この中で「フロベールとモーパッサンの同郷人。彼らから貴重な助言を受けていた」と騙っている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P130-131</ref>。

===五年ものスランプ===


調[[1899]]調<ref>  P121, P138</ref>Les Lèvres jointes6<ref>  P141-142</ref>[[|]]18991028[[1900]]105<ref>  P142P147</ref> [[]]==[[1900]]510[[]][[ ()]][[]]1029[[1901]]2LEnthousiasme<ref>  P143</ref> 1000<ref>  P148-149</ref><br>

Les Éditions Pierre Lafitte et CieFemina稿[[1901]]915[[1902]]6Les Yeux purs812[[]]97稿[[]]<ref>  P152-156</ref>[[1903]]{{||en|Le_Petit_Journal_(newspaper) }}Le Petit Journal Illustré稿830<!--    --><ref>  P161</ref>[[1904]]6Gueule-rouge 80-chevaux<ref>  P164</ref>1229[[1905]]12475<ref>  P165-166</ref>


=== 五年ものスランプ ===

===ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別===


調[[1899]]調<ref>  P121, P138</ref>Les Lèvres jointes6<ref>  P141-142</ref>[[|]]18991028[[1900]]105[[]][[|]]<ref>  P142P147</ref>[[]]==[[1900]]510[[]][[ ()]][[]]1029[[1901]]2LEnthousiasme<ref>  P143</ref>1000<ref>  P148-149</ref>

1023[[1904]]<ref>  P164-165</ref>[[]]{{||fr|Lectures_pour_tous_(magazine)}}{{|Je sais tout|fr|Je_sais_tout}}1905215[[]][[]][[]]Femina稿<ref>  P166</ref>


この頃、ピエール・ラフィットが興した「Les Éditions Pierre Lafitte et Cie」社から女性向けファッション誌「Femina」への寄稿依頼を受け、[[1901年]]9月15日に「困難な選択」を発表。[[1902年]]6月からは「Les Yeux purs」の連載を始める。同年8月12日、マルグリットが長男クロードを極秘出産。また同時期に、かの[[アンリ・デグランジュ]]の依頼を受け、「自動車・自転車」紙(のちに「自動車」紙に改名)に9月7日から短編の冒険・アクション小説を寄稿し始める。ルブランがそれまで書いてきた心理小説・[[純文学]]小説とは方向が異なるこれらの依頼を受けたのは単純に経済的な理由によるものであり(「ジル・ブラス」誌からの依頼は既に停止していた)、やはり彼としては渋々といった面が強かった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P152-156</ref>。[[1903年]]、「{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|en|Le_Petit_Journal_(newspaper) }}」紙の付録「Le Petit Journal Illustré」に寄稿を始め、8月30日には中篇「シャンボン通りサークルの犯罪」を発表。「その題材はアルセーヌ・ルパンの『犯罪的な』冒険を予感させる」とジャック・ドゥルワールはこの作品について述べている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P161</ref>。[[1904年]]6月、オランドルフ社から「自動車」紙発表作品を中心にした短編集「Gueule-rouge 80-chevaux」が出版。この作品は「それまでルブランが執筆してきた心理小説とルパンの冒険との接点として位置づけられる」と、ジャック・ドゥルワールは分析している<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P164</ref>。12月29日、マルグリットとエドワール・ウルマンの離婚がセーヌ県裁判所で成立。[[1905年]]1月24日、父エミールが逝去。享年75歳った<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P165-166</ref>。

ルブランは「自動車」紙や「Le Petit Journal Illustré」に掲載された作品群を習作とし、特に苦労することもなく無意識的に<!-- 当時ヒットしていた[[コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズ]]物のアンチヒーローとなる<ref>当時ルブランはドイルの作品を読んだことは無かった。</ref> -->、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」の[[アルセーヌ・ルパン]]を創造した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P172</ref>。[[1905年]]7月15日に「Je sais tout」第6号で発表した読み切り「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり「Je sais tout」の売り上げも好成績だったため、ラフィットと [https://data.bnf.fr/10440712/marcel_l_heureux/ マルセル・ルールー](「ジル・ブラス」誌で執筆していた彼もラフィットの会社に転職していた)[[ギュルス (フランス)|ギュルス]] に滞在し、「自動車」紙の原稿にかかりきりであったルブランの元を8月に訪れてルパンの続編を書くように説得した。ルブランは「強盗は投獄されているんですよ」と反論したものの、ラフィットは「脱獄させろ」と応酬し、「続けろよ。フランスの[[コナン・ドイル]]になれるんだ。栄光を手にするんだ」とそそのかした。それでも「他のジャンルの文学に専念したい」と渋るルブランに対し、ラフィットは「そうかい?他のジャンルで頑張ったところでどうにもならないさ。心理小説は終わったんだ。今や『幻想と怪奇の文学』の時代だ(これは翌月の「Je sais tout」に掲載される{{仮リンク|ガストン・デシャン|en|Gaston_Deschamps}}」の論文のタイトルでもあった)」と返した。「大衆」小説作家に「身を落とす(ルブラン自身の言葉である)」事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ毎日訪れ、「文学的な小説を書くだけでいい」と繰り返し頼み込み続けた。結果、経済的な理由もありルブランは続編を書くことにし、以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込むこととなった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P175</ref>。<br>


ルパンの「最初の12の短篇」の原稿とともにルブランがパリに戻った後、11月15日発売の「Je sais tout」は次号でルパンシリーズの掲載を仄めかし、翌月号には「第一回ルパン懸賞」つきで「獄中のアルセーヌ・ルパン」を掲載した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P176</ref>。[[1906年]]1月31日、離婚に伴う法的猶予期間が終了したことにより、晴れてルブランはマルグリットと正式に結婚した。新居はクルヴォー通り8番地のアパルトマンのであった(この時代、家賃は高層階に行くほど安い傾向があった)<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P177-178</ref>。<br>

=== ルパンの誕生 ===

月、ルパン発表前夜に書いた戯曲「La Pitié」の上演がアントワーヌ劇場で行われたが、この作品は大失敗であり、上演は回で打ち切られた。5月6日、劇場オーナーのアンドレ・アントワーヌは日記にこう記している。「モーリス・ルブラン氏の見事な戯曲『La Pitié』の(観客つき)総稽古が、昨日、さんざんな結果に終わると、作者は『よろしい、お客に何が必要かはよく分かった。真面目な劇作は諦めよう。これからは金を稼ぐためにこしらえますよ』と私に言った」。また、のちにアントワーヌはいくつかの著書の中でこうも回想している。「本質的で人間的、深く掘り下げた作品によって(戯曲作家としての)デビューを飾った」が、「見事な演技」にかかわらず「かなり冷ややかに迎えられた」、「『La Pitié』を是非とも(再度)上演したいと思った。とても価値のある作品なのに、観客が正当に評価しているように見えない。」「この失敗の後、作者は演劇を諦めて小説に専念し、アルセーヌ・ルパンによって富と名声とを勝ち取ることになる」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P178-181</ref>。同月の「Je sais tout」には「アンベール婦人の金庫」が「第五回ルパン懸賞」とともに掲載されたが、その回での質問は「ルパンが対決する有名な探偵とは誰か?」であり、次号では「遅かりしシャーロック。ホームズ」が掲載された。結果、「Je sais tout」にはホームズを無断使用された[[コナン・ドイル]]からの抗議文が送られてきた。一方のルブランはと言えばちょうど「[[ルパン対ホームズ]]」「[[奇巌城]]」というホームズを敵役とする長編二本を執筆中であり、以後「ホームズ」の名前は[[アナグラム]]により変名されることになる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P181-182</ref>。12月25日、「自動車」紙に「クリスマス」が掲載される。ルパンの成功を汲み、著者名の下には「翻訳権所有」の但し書きがルブランの作品としては初めて記述された。なお、翌[[1907年]]2月7日に掲載された「駆け落ち専門」が「自動車」紙への最後の寄稿となる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P183-184</ref>。<br>


1023[[1904]]<ref>  P164-165</ref>[[]]{{||fr|Lectures_pour_tous_(magazine)}}{{|Je sais tout|fr|Je_sais_tout}}1905215[[]][[]][[]]Femina稿<ref>  P166</ref>

3[[]]527<ref>  P186-187P190</ref>5Je sais tout[[7]][[]]<ref>  P191-192</ref>610稿[[]]2200<ref name="ReferenceB">  P192-193</ref>61222003.506010<ref name="ReferenceB"/>

ルブランは「自動車」紙や「Le Petit Journal Illustré」に掲載された作品群を習作とし、特に苦労することもなく無意識的に<!-- 当時ヒットしていた[[コナン・ドイル]]の[[シャーロック・ホームズ]]物のアンチヒーローとなる<ref>当時ルブランはドイルの作品を読んだことは無かった。</ref> -->、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」の[[アルセーヌ・ルパン]]を創造した<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P172</ref>。[[1905年]]7月15日に「Je sais tout」第6号で発表した読み切り「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり「Je sais tout」の売り上げも好成績だったため、ラフィットと [https://data.bnf.fr/10440712/marcel_l_heureux/ マルセル・ルールー](「ジル・ブラス」誌で執筆していた彼もラフィットの会社に転職していた)[[ギュルス (フランス)|ギュルス]] に滞在し、「自動車」紙の原稿にかかりきりったルブランの元を8月に訪れてルパンの続編を書くように説得した。ルブランは「強盗は投獄されているんですよ」と反論したものの、ラフィットは「脱獄させろ」と応酬し、「続けろよ。フランスの[[コナン・ドイル]]になれるんだ。栄光を手にするんだ」とそそのかした。それでも「他のジャンルの文学に専念したい」と渋るルブランに対し、ラフィットは「そうかい?他のジャンルで頑張ったところでどうにもならないさ。心理小説は終わったんだ。今や『幻想と怪奇の文学』の時代だ(これは翌月の「Je sais tout」に掲載される{{仮リンク|ガストン・デシャン|en|Gaston_Deschamps}}」の論文のタイトルでもあった)」と返した。「大衆」小説作家に「身を落とす(ルブラン自身の言葉である)」事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ毎日訪れ、「文学的な小説を書くだけでいい」と繰り返し頼み込み続けた。結果、経済的な理由もありルブランは続編を書くことにし、以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込むこととなった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P175</ref>。



12稿1115Je sais tout[[]]<ref>  P176</ref>[[1906]]13186<ref>  P177-178</ref>


5La Pitié856La PitiéLa Pitié<ref>  P178-181</ref>Je sais toutJe sais tout[[|使]][[]][[]][[]][[]]<ref>  P181-182</ref>1225[[1907]]27稿<ref>  P183-184</ref>


3[[]]527<ref>  P186-187P190</ref>5Je sais tout[[7]][[]]<ref>  P191-192</ref>610稿[[]]2200<ref name="ReferenceB">  P192-193</ref>61222003.506010<ref name="ReferenceB" />


=== 大御所へ ===

=== 大御所へ ===

翌[[1908年]]1月13日、文芸家協会に「小説『アルセーヌ・ルパン』が[[ブカレスト]]の新聞『ルーマニア』に無断転載された」との廉で、当該新聞を訴えるために協力を求める。また同時期より各国翻訳への営業活動をはじめる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201-202</ref>。1月17日、文芸家協会における功績により、「公教育と美術」の分野で[[レジオン・ド・ヌール]]のシュバリエ章を受章<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P202</ref>。2月10日、「ルパン対ホームズ」が出版。連載版から大幅な改訂がなされ、結末までもが変えられていた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P204</ref>。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作していた戯曲「[[ルパンの冒険]]」の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品される<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201</ref>。この四幕物の舞台は10月28日の最終リハーサルから爆発的な人気を見せ、長期的に上演を重ねる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P208-211、P213</ref>。11月より「Je sais tout」に「奇巌城」が「新アルセーヌ・ルパン懸賞」とともに連載開始。これについて、ルブランは「もう駄目だった。僕はもうアルセーヌ・ルパンから離れられなかった」と述懐している。「エトルタの針岩の中を穿つ」というアイデアのきっかけは今日も不明なままである<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P199-200</ref>。<br>

翌[[1908年]]1月13日、文芸家協会に「小説『アルセーヌ・ルパン』が[[ブカレスト]]の新聞『ルーマニア』に無断転載された」との廉で、当該新聞を訴えるために協力を求める。また同時期より各国翻訳への営業活動をはじめる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201-202</ref>。1月17日、文芸家協会における功績により、「公教育と美術」の分野で[[レジオン・ド・ヌール]]のシュバリエ章を受章<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P202</ref>。2月10日、「ルパン対ホームズ」が出版。連載版から大幅な改訂がなされ、結末までもが変えられていた<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P204</ref>。この年の秋頃、演劇作家フランシス・クロワッセと共作していた戯曲「[[ルパンの冒険]]」の脚本が依頼者アベル・ドゥヴァルへ納品される<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P201</ref>。この四幕物の舞台は10月28日の最終リハーサルから爆発的な人気を見せ、長期的に上演を重ねる<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P208-211、P213</ref>。11月より「Je sais tout」に「奇巌城」が「新アルセーヌ・ルパン懸賞」とともに連載開始。これについて、ルブランは「もう駄目だった。僕はもうアルセーヌ・ルパンから離れられなかった」と述懐している。「エトルタの針岩の中を穿つ」というアイデアのきっかけは今日も不明なままである<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」P199-200</ref>。



[[1909]]328615<ref>  P215</ref>118[[]]<ref>  P219</ref>35[[813]][[]][[]]{{| ()|fr|Le Matin (France)|en|Le Matin (France)|label=}}681312,0008125<ref>  P222-223</ref>1028[[1910]]3<ref>  P216-217P227-228</ref>1118<br>

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1907[[]][[7]]

1907[[]][[7]]


ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[推理小説|探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランも『[[813 (小説)|813]]』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』(1919年、[[ファーストコンタクト]]・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。

ドイルは[[シャーロック・ホームズシリーズ|ホームズシリーズ]]の成功に対してむしろ困惑し、犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるもので、生活を妨害されているようでさえあると感じていたともいわれている。同様にルブランも、もともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、[[犯罪#犯罪とフィクション|犯罪小説]]・[[推理小説|探偵小説]]であるルパンシリーズで名声を博する事に忸怩たるものがあったといわれる。ドイルがホームズを[[ライヘンバッハの滝]]に落としたのと同様、ルブランも『[[813 (小説)|813]]』(1910年)でルパンを自殺させている。「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という言葉などにも、その苦悩の跡が見られる。その後は歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響のある短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)、空想的な作風の『棺桶島』(1919年)、[[サイエンス・フィクション|SF]]に分類される『三つの眼』(1919年、[[ファーストコンタクト]]・テーマ)、『ノー・マンズ・ランド』(1920年)などを発表。また1915年頃から映画公開と並行して発売される小説シネロマンという形態が生まれると、その執筆者に名を連ねた。



その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』にルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている<ref>ジャック・ドゥルアール「モーリス・ルブラン 最後の小説」坂田雪子訳(『リュパン、最後の恋』東京創元社 2013年)</ref>。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵(''L'image de la femme nue'' *これは絵じゃなく彫刻。裸婦像)』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。

その後1920年『アルセーヌ・ルパンの帰還』にルパンを復活させ、1927年には新しい探偵ジム・バーネットものを発表するが、このバーネットも実はルパンであることが後に明かされた。1930年代には文学界からも作家として高い評価を得るようになり、『ラ・レピュブリック』紙でフレデリック・ルフェーヴルから「今日の偉大な冒険作家のひとりである」「同時に純然たる小説家、正真正銘の作家である」と賞されている<ref>ジャック・ドゥルアール「モーリス・ルブラン 最後の小説」坂田雪子訳(『リュパン、最後の恋』東京創元社 2013年)</ref>。1930年代には恋愛小説『裸婦の絵(''L'image de la femme nue'' *これは絵じゃなく彫刻。裸婦像)』『青い芝生のスキャンダル』も執筆。小説の戯曲化にも意欲を注ぎ、1935年には『赤い数珠』を舞台化した『闇の中の男』が大成功を収めた。




1939

1939
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ルブランは1919年8月に文学への貢献(直接の理由は「国民的英雄・ルパン」の創造)によって[[レジオンドヌール勲章]]を授与され、1941年に[[ペルピニャン]]のサン=ジャン病院で亡くなった。死因の一つ(直接のものではない)は肺[[うっ血]]。妹[[ジョルジェット・ルブラン|ジョルジェット]]の死を息子のクロードから伝えられたが、その時にはもう意識が無くなっていた<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. p.312</ref>。

ルブランは1919年8月に文学への貢献(直接の理由は「国民的英雄・ルパン」の創造)によって[[レジオンドヌール勲章]]を授与され、1941年に[[ペルピニャン]]のサン=ジャン病院で亡くなった。死因の一つ(直接のものではない)は肺[[うっ血]]。妹[[ジョルジェット・ルブラン|ジョルジェット]]の死を息子のクロードから伝えられたが、その時にはもう意識が無くなっていた<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. p.312</ref>。



===没後===

=== 没後 ===

[[File:Museum Maurice Leblanc.jpg|thumb|モーリス・ルブラン博物館「ルパンの隠れ家」le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc]]

[[File:Museum Maurice Leblanc.jpg|thumb|モーリス・ルブラン博物館「ルパンの隠れ家」le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc]]

[[クロード・モネ]]の絵で有名な大西洋岸の町[[エトルタ]]には、彼の住居を基にしたモーリス・ルブラン記念館、通称「アルセーヌ・ルパンの隠れ家」がある。またモネの絵の題材にもなった有名なエトルタの岸壁は、その頂上に登ると崖の内部に潜れるようになっており、『[[奇巌城]]』に登場する暗号がそのまま金属プレートで掲示されている。また、ルブランの墓はパリのモンパルナス墓地にある。

[[クロード・モネ]]の絵で有名な大西洋岸の町[[エトルタ]]には、彼の住居を基にしたモーリス・ルブラン記念館、通称「アルセーヌ・ルパンの隠れ家」がある。またモネの絵の題材にもなった有名なエトルタの岸壁は、その頂上に登ると崖の内部に潜れるようになっており、『[[奇巌城]]』に登場する暗号がそのまま金属プレートで掲示されている。また、ルブランの墓はパリの[[モンパルナス墓地]]にある。



伝記ではないが、日本で[[隆巴]]が書き下ろした戯曲『ルパン』は劇中劇のルパンと往還する形でルブランの苦悩を描いた作品であり、初演は[[仲代達矢]]がルブラン、ルパンの二役を演じた。

伝記ではないが、日本で[[隆巴]]が書き下ろした戯曲『ルパン』は劇中劇のルパンと往還する形でルブランの苦悩を描いた作品であり、初演は[[仲代達矢]]がルブラン、ルパンの二役を演じた。

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2012年に、1936-37年に執筆した『[[ルパン最後の恋]]』の草稿が発見され、孫のフロランス・ベスフルグ・ルブランの序文を付して、ルパンの最後の冒険として出版された。

2012年に、1936-37年に執筆した『[[ルパン最後の恋]]』の草稿が発見され、孫のフロランス・ベスフルグ・ルブランの序文を付して、ルパンの最後の冒険として出版された。



===エピソード===

==エピソード==

{{Wikify|date=2020年7月}}<!--

{{Wikify|date=2020年7月}}<!--

https://ja.wikipedia.org/wiki/Help:%E7%AE%87%E6%9D%A1%E6%9B%B8%E3%81%8D

https://ja.wikipedia.org/wiki/Help:%E7%AE%87%E6%9D%A1%E6%9B%B8%E3%81%8D

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* 『[[ジル・ブラス]]』紙に連作短編 "Contes essentiels" を発表した際(不定期。1893年4月28日から1894年11月5日まで)には、「L'Abbé de Jumiège(ジュミエージュ大修道院長)」のペンネームを用いた(ただし、1894年4月2日号分からは本名で発表されている。ジュミエージュ大修道院はフランス革命の時にその本来の役目を終え、『奇岩城』や『カリオストロ伯爵夫人』でもその遺跡の姿が描写されている)。


* [[]] "Contes essentiels" [[1893]][[428]][[1894]][[115]]L'Abbé de Jumiège1894[[42]][[]]姿

* 亡くなる数週間前に、「ルパンが私の周りに出没して何かと邪魔をする」という趣旨の被害届を警察署に出し、そのため警察官が24時間体制で警備し、最期の日々の平穏を守った。

* 亡くなる数週間前に、「ルパンが私の周りに出没して何かと邪魔をする」という趣旨の被害届を警察署に出し、そのため[[警察官]]が24時間体制で警備し、最期の日々の平穏を守った。


* permis de circulation<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui''. Séguier, 1993. p.302 </ref>

* permis de circulation<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui''. Séguier, 1993. p.302 </ref>

* 1898年頃、助言を求めていた若い作家からの手紙に対し、次のように答えている。

* 1898年頃、助言を求めていた若い作家からの手紙に対し、次のように答えている。


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:「もう一つ助言を。もし可能なら、たくさん旅をしなさい」

:「もう一つ助言を。もし可能なら、たくさん旅をしなさい」

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*''L’Enthousiasme''『熱狂』長編(1901年)

*''L’Enthousiasme''『熱狂』長編(1901年)

*''Gueule-Rouge 80-chevaux''『赤い口 80馬力』(1904年)- 短編集

*''Gueule-Rouge 80-chevaux''『赤い口 80馬力』(1904年)- 短編集

*''La Frontière''『国境』長編(1908年)

*''La Frontière''『[[国境]]』長編(1908年)

*''La Robe d’écailles roses''『鱗柄のピンクのドレス』(1912年)- 短編集

*''La Robe d’écailles roses''『鱗柄のピンクのドレス』(1912年)- 短編集

*''L‘Éclat d’obus''『砲弾の破片(オルヌカン城の謎)』長編(1914年)

*''L‘Éclat d’obus''『[[砲弾の破片]](オルヌカン城の謎)』長編(1914年)

*''Le Cercle rouge''『赤い輪』(アメリカ映画『赤い輪』''The Red Circle'' を、モーリス・ルブランがノベライズした活劇大長編)(1914年)

*''Le Cercle rouge''『[[赤い輪]]』(アメリカ映画『赤い輪』''The Red Circle'' を、モーリス・ルブランがノベライズした活劇大長編)(1914年)

*''Les Trois Yeux'' 『三つの眼』<!-- 偕成社版邦題 -->『三つの目』<!-- 創元版邦題 -->(1919年。1920年刊)(英訳タイトル: ''The Three Eyes'')

*''Les Trois Yeux'' 『三つの眼』偕成社版邦題『三つの目』創元版邦題(1919年。1920年刊)(英訳タイトル: ''The Three Eyes'')

*''Le Formidable Événement'' 『驚天動地』『ノー・マンズ・ランド』(1920年、1921年刊)(英訳タイトル: ''The Tremendous Event'')

*''Le Formidable Événement'' 『驚天動地』『ノー・マンズ・ランド』(1920年、1921年刊)(英訳タイトル: ''The Tremendous Event'')

*''Le Cercle rouge'' 『赤い輪』(1922年)([[1915年]]アメリカの連続活劇''The Red Circle''を、舞台をフランスに移してノベライズしたもの)

*''Le Cercle rouge'' 『[[赤い輪]]』(1922年)([[1915年]]アメリカの連続活劇''The Red Circle''を、舞台をフランスに移してノベライズしたもの)

*''Dorothée, danseuse de corde'' 『[[女探偵ドロテ]]』『綱渡りのドロテ』(1923年)(英題:''Dorothy the Rope Dancer''、米題:''The Secret Tomb''、ポルトガル語タイトル:''A rival de Arsène Lupin'')

*''Dorothée, danseuse de corde'' 『[[女探偵ドロテ]]』『綱渡りのドロテ』(1923年)(英題:''Dorothy the Rope Dancer''、米題:''The Secret Tomb''、ポルトガル語タイトル:''A rival de Arsène Lupin'')

*''La Vie extravagante de Balthazar'' 『バルタザールの風変わりな毎日』『バルタザールのとっぴな生活』長編(1927年刊)

*''La Vie extravagante de Balthazar'' 『バルタザールの風変わりな毎日』『バルタザールのとっぴな生活』長編(1927年刊)

*''Peau d’Ane et don Quichotte'' 『ロバの皮とドン・キホーテ』長編(1925年刊)

*''Peau d’Ane et don Quichotte'' 『[[ロバの皮とドン・キホーテ]]』長編(1925年刊)

*''Le Prince de Jéricho'' 『[[ジェリコ公爵]]』(1929年、1930年刊)(英訳タイトル: ''Man of Mystery'')

*''Le Prince de Jéricho'' 『[[ジェリコ公爵]]』(1929年、1930年刊)(英訳タイトル: ''Man of Mystery'')

*''De minuit à sept heures'' 『真夜中から七時まで』(1931年、1932年刊)(英訳タイトル: ''From Midnight to Morning'')

*''De minuit à sept heures'' 『[[真夜中から七時まで]]』(1931年、1932年刊)(英訳タイトル: ''From Midnight to Morning'')

*''Le Chapelet rouge'' 『[[赤い数珠]]』(1932年、1934年刊)(新聞『ラ・ヴォロンテ』連載時(1932年)の題は''Les Clés mystérieuses''『謎の鍵』。後に『カリオストロの復讐』に登場するルスラン判事が謎を解く)(米題:''Man of Miracles'')

*''Le Chapelet rouge'' 『[[赤い数珠]]』(1932年、1934年刊)(新聞『ラ・ヴォロンテ』連載時(1932年)の題は''Les Clés mystérieuses''『謎の鍵』。後に『カリオストロの復讐』に登場するルスラン判事が謎を解く)(米題:''Man of Miracles'')

*''L’Images de la femme nue''『裸婦像』長編(1934年)

*''L’Images de la femme nue''『[[裸婦像]]』長編(1934年)

*''Le Scandale du gazon bleu''『青い芝生の醜聞』長編(1935年)

*''Le Scandale du gazon bleu''『[[青い芝生の醜聞]]』長編(1935年)



=== 戯曲 ===

=== 戯曲 ===

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== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

{{wikisourcelang|fr|Maurice Leblanc|モーリス・ルブランの著作}}

{{wikisourcelang|fr|Maurice Leblanc|モーリス・ルブランの著作}}

* [[ジョルジェット・ルブラン]] - モーリス・ルブランの妹。女優・歌手。

* [[ジョルジェット・ルブラン]] - モーリス・ルブランの妹。[[俳優#性別での分類|女優]][[歌手]]



== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

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{{DEFAULTSORT:るふらん もおりす}}

{{DEFAULTSORT:るふらん もおりす}}

[[Category:フランスの小説家]]

[[Category:19世紀フランスの小説家]]

[[Category:20世紀フランスの小説家]]

[[Category:フランスの推理作家]]

[[Category:フランスの推理作家]]

[[Category:フランスのSF作家]]

[[Category:フランスのSF作家]]


2024年5月22日 (水) 08:19時点における最新版

モーリス・ルブラン
Maurice Leblanc
誕生 (1864-11-11) 1864年11月11日
フランスの旗 フランス帝国ルーアン
死没 (1941-11-06) 1941年11月6日(76歳没)
フランスの旗 フランス国ペルピニャン
国籍 フランスの旗 フランス
代表作 アルセーヌ・ルパンシリーズ
ウィキポータル 文学
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: Maurice Marie Émile Leblanc18641211[1] - 1941116[2]


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18963[19]512稿Les Heures de mystère1897[20]412Voici des ailes!  [21]122065稿[22]18982Voici des ailes![23]

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調1899調[24]Les Lèvres jointes6[25]189910281900105[26]==1900510 ()102919012LEnthousiasme[27]1000[28]

Les Éditions Pierre Lafitte et CieFemina稿190191519026Les Yeux purs81297稿[29]1903Le Petit Journal Illustré稿830[30]19046Gueule-rouge 80-chevaux[31]1229190512475[32]

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Le Petit Journal Illustré[35]1905715Je sais tout6Je sais tout  稿8Je sais tout宿[36]

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191981941[56]

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le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc

西



20121936-37稿

エピソード[編集]


 "Contes essentiels" 18934281894115L'Abbé de Jumiège189442姿

24

permis de circulation[57]

1898

=





[58]

姿宿

[59]

Le Censeur politique et littéraire[60]

LEnthousiasme稿

[]

[]

[]


Des couples1890- 

Une femme1893

Ceux qui souffrent1894- 

LŒuvre de mort1895

Les Heures de mystère1896- 

Armelle et Claude1897

Voici des ailes!1898

Les Lèvres jointes1899

LEnthousiasme1901

Gueule-Rouge 80-chevaux801904- 

La Frontière1908

La Robe décailles roses1912- 

LÉclat dobus1914

Le Cercle rougeThe Red Circle 1914

Les Trois Yeux 19191920 The Three Eyes

Le Formidable Événement 19201921 The Tremendous Event

Le Cercle rouge 19221915The Red Circle

Dorothée, danseuse de corde 1923Dorothy the Rope DancerThe Secret TombA rival de Arsène Lupin

La Vie extravagante de Balthazar 1927

Peau dAne et don Quichotte 1925

Le Prince de Jéricho 19291930 Man of Mystery

De minuit à sept heures 19311932 From Midnight to Morning

Le Chapelet rouge 193219341932Les Clés mystérieusesMan of Miracles

LImages de la femme nue1934

Le Scandale du gazon bleu1935

[]


La Pitié 1906

[]



(一)^ 18641212341111

(二)^ ? 19331111 2013

(三)^ Derouard, Jacques. Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui. Séguier, 1993. Zélie TorcatAmand-Adolphe Cambremer

(四)^      2019924  P14-15

(五)^    P39

(六)^    P49

(七)^    P50-51

(八)^ ab   P50

(九)^    P56

(十)^    P58

(11)^    P61

(12)^    P71

(13)^   P72-74

(14)^    P78

(15)^    P80-81

(16)^    P109

(17)^   P112-113

(18)^    P113-114

(19)^    P114

(20)^    P121

(21)^    P127

(22)^    P128

(23)^    P130-131

(24)^   P121, P138

(25)^   P141-142

(26)^   P142P147

(27)^   P143

(28)^   P148-149

(29)^   P152-156

(30)^   P161

(31)^   P164

(32)^   P165-166

(33)^   P164-165

(34)^   P166

(35)^   P172

(36)^   P175

(37)^   P176

(38)^   P177-178

(39)^   P178-181

(40)^   P181-182

(41)^   P183-184

(42)^   P186-187P190

(43)^   P191-192

(44)^ ab  P192-193

(45)^   P201-202

(46)^   P202

(47)^   P204

(48)^   P201

(49)^   P208-211P213

(50)^   P199-200

(51)^   P215

(52)^   P219

(53)^   P222-223

(54)^   P216-217P227-228

(55)^   2013

(56)^ Derouard, Jacques. Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui. Séguier, 1993. p.312

(57)^ Derouard, Jacques. Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui. Séguier, 1993. p.302 

(58)^    P136-137

(59)^   P175-176

(60)^   P184-185P194

[]


  2014

   2019Derouard, Jacques. Maurice Leblanc Arsène Lupin malgré lui.Editions Séguier, 2001.)

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外部リンク[編集]