「モーリス・ルブラン」の版間の差分
+lk: ブレーズ・パスカル |
m編集の要約なし |
||
(5人の利用者による、間の6版が非表示) | |||
6行目: | 6行目: | ||
| caption = <!--画像説明--> |
| caption = <!--画像説明--> |
||
| birth_name = |
| birth_name = |
||
| birth_date = |
| birth_date = {{生年月日と年齢|1864|11|11|no}} |
||
| birth_place = {{FRA1852}}・[[ルーアン]] |
| birth_place = {{FRA1852}}・[[ルーアン]] |
||
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1864|11|11|1941|11|6}} |
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1864|11|11|1941|11|6}} |
||
20行目: | 20行目: | ||
| debut_works = |
| debut_works = |
||
}} |
}} |
||
'''モーリス・マリー・エミール・ルブラン'''({{lang-fr|Maurice Marie Émile Leblanc}} |
'''モーリス・マリー・エミール・ルブラン'''({{lang-fr|Maurice Marie Émile Leblanc}}、[[1864年]][[12月11日]]<ref>出生証明書に次のように記載されている。「1864年12月12日午後3時、モーリス・マリー・エミール・ルブランの出生証明。性別男。昨日午前4時に出生。」なお、[[11月11日]]とする資料もある。</ref> - [[1941年]][[11月6日]])は、[[フランス]]の[[小説家]]。[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]や[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]らに[[影響]]され小説家を志望する。他に影響を受けた作家には、[[オノレ・ド・バルザック]]、[[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]]、[[アルフレッド・アソラン]]、[[エミール・ガボリオ]]、そして[[エドガー・アラン・ポー]]を挙げている<ref>ルブラン「アルセーヌ・リュパンとは何者か?」(『ル・プティ・ヴァール』紙 1933年11月11日)坂田雪子訳(『[[リュパン、最後の恋]]』東京創元社 2013年)</ref>。 |
||
怪盗紳士「'''[[アルセーヌ・ルパン]]'''」の生みの親である。ルブランの「ルパン」は、しばしば[[イギリス]]の作家[[アーサー・コナン・ドイル]]の生んだ「[[シャーロック・ホームズ]]」と対比される。ライバル作家は[[オペラ座の怪人]]や、事件記者探偵ルールタビーユシリーズの原作者の[[ガストン・ルルー]]だった。 |
怪盗紳士「'''[[アルセーヌ・ルパン]]'''」などの優れた作品の生みの親である。ルブランの「ルパン」は、しばしば[[イギリス]]の作家[[アーサー・コナン・ドイル]]の生んだ「[[シャーロック・ホームズ]]」と対比される。ライバル作家は[[オペラ座の怪人]]や、事件記者探偵ルールタビーユシリーズの原作者の[[ガストン・ルルー]]だった。 |
||
== 生涯・人物 == |
== 生涯・人物 == |
||
=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
||
[[フランス]]・[[ノルマンディー]]の地方都市[[ルーアン]]市内[[フォントネル]]通り2番地で第二子(長子は年子で長女のジョアンヌ)として生まれる。父エミール・ルブランは海運と[[石炭]][[卸売]]とを主業とする[[ブルジョア階級]]の[[実業家]]だった。[[分娩]]に立ち会ったのは、ルブラン家のかかりつけの[[医師]]で、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]の兄、アシル・フローベールだった(後にパリの文壇でモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. フローベール家とは遠い親戚でもある。これは母方の大伯母ゼリー・トルカZélie Torcatが、フローベール兄弟の父、アシル=クレオファス・フローベールと従兄弟関係にある、アマン=アドルフ・カンブルメAmand-Adolphe Cambremerと結婚しているから。</ref>)。 |
[[フランス]]・[[ノルマンディー]]の地方都市[[ルーアン]]市内[[フォントネル]]通り2番地で第二子(長子は年子で長女のジョアンヌ)として生まれる。父エミール・ルブランは海運と[[石炭]][[卸売]]とを主業とする[[ブルジョア階級]]の[[実業家]]だった。[[分娩]]に立ち会ったのは、ルブラン家のかかりつけの[[医師]]で、[[ギュスターヴ・フローベール|フローベール]]の兄、アシル・フローベールだった(後にパリの[[文壇]]でモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる<ref>Derouard, Jacques. ''Maurice Leblanc –Arsène Lupin malgré lui–''. Séguier, 1993. フローベール家とは遠い親戚でもある。これは母方の大伯母ゼリー・トルカZélie Torcatが、フローベール兄弟の父、アシル=クレオファス・フローベールと従兄弟関係にある、アマン=アドルフ・カンブルメAmand-Adolphe Cambremerと結婚しているから。</ref>)。 |
||
[[1870年]]12月、[[普仏戦争]]のため[[スコットランド]]に疎開するものの翌[[1871年]]7月までに(当時まだ[[プロイセン王国|プロシア]]の占領下にあった)[[ルーアン]]へと呼び戻されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 [[ジャック・ドゥルワール]]著 [[小林佐江子]]・[[相磯佳正]]訳 [[2019年]]9月24日初版発行 [[国書刊行会]] P14-15</ref>。[[1873年]]10月より[[ジャンヌ・ダルク]]大通りのガストン・パトリ寄宿学校で[[初等教育]]を受けた後、同校に通学生として籍を置いたまま[[1875年]]から地元の「グラン・リセ」こと{{仮リンク|コルネイユ高等学校|fr|Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille}}に入学。しばしば表彰を受けるほどの優等生でありながらリセの厳格な空気を嫌っていたことを後に自叙伝小説「[[L'Enthousiasme]](熱意、[[1901年]])」の中で回顧している。 |
[[1870年]]12月、[[普仏戦争]]のため[[スコットランド]]に疎開するものの翌[[1871年]]7月までに(当時まだ[[プロイセン王国|プロシア]]の占領下にあった)[[ルーアン]]へと呼び戻されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 [[ジャック・ドゥルワール]]著 [[小林佐江子]]・[[相磯佳正]]訳 [[2019年]]9月24日初版発行 [[国書刊行会]] P14-15</ref>。[[1873年]]10月より[[ジャンヌ・ダルク]]大通りのガストン・パトリ寄宿学校で[[初等教育]]を受けた後、同校に通学生として籍を置いたまま[[1875年]]から地元の「グラン・リセ」こと{{仮リンク|コルネイユ高等学校|fr|Lyc%C3%A9e_Pierre-Corneille}}に入学。しばしば表彰を受けるほどの優等生でありながらリセの厳格な空気を嫌っていたことを後に自叙伝小説「[[L'Enthousiasme]](熱意、[[1901年]])」の中で[[回顧]]している。 |
||
[[1879年]]の夏には当時[[ローラーチェーン|チェーン]]式が発明されたばかりの[[自転車]]を入手し、[[壮年期]]以降も[[サイクリング]]に傾倒するようになる。この当時のルブランは「神経質なほど[[感受性]]が強く、会話の際には時折[[チック]]の症状を示していた」と、実妹[[ジョルジェット・ルブラン]]の「回想録([[1931年]])」中では記述されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P39</ref>。 |
[[1879年]]の夏には当時[[ローラーチェーン|チェーン]]式が発明されたばかりの[[自転車]]を入手し、[[壮年期]]以降も[[サイクリング]]に傾倒するようになる。この当時のルブランは「神経質なほど[[感受性]]が強く、会話の際には時折[[チック]]の症状を示していた」と、実妹[[ジョルジェット・ルブラン]]の「回想録([[1931年]])」中では記述されている<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P39</ref>。 |
||
39行目: | 39行目: | ||
[[1883年]]には自らフランスに戻り、[[11月5日]]に[[ルーアン]]市庁舎で「条件付き兵役(1500フランを納入することで、本来5年の期間を一年に短縮できた)」に志願している。同年11月12日、[[ヴェルサイユ]]旧王立厩舎内の第11連隊(砲兵)に配属、翌[[1884年]][[11月12日]]には[[予備役]]編入(条件付き兵役のため、正式な予備役編入は[[1888年]][[11月8日]]付となる)までの待命予備期間(事実上の復員)となり、ルーアンに帰郷した。後年、このイギリス居住と兵役の期間について、ルブランは「L'Enthousiasme」で「『この二年間、私は[[不幸]]だった』と率直に言うことができるだろう」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P49</ref> と述懐している。 |
[[1883年]]には自らフランスに戻り、[[11月5日]]に[[ルーアン]]市庁舎で「条件付き兵役(1500フランを納入することで、本来5年の期間を一年に短縮できた)」に志願している。同年11月12日、[[ヴェルサイユ]]旧王立厩舎内の第11連隊(砲兵)に配属、翌[[1884年]][[11月12日]]には[[予備役]]編入(条件付き兵役のため、正式な予備役編入は[[1888年]][[11月8日]]付となる)までの待命予備期間(事実上の復員)となり、ルーアンに帰郷した。後年、このイギリス居住と兵役の期間について、ルブランは「L'Enthousiasme」で「『この二年間、私は[[不幸]]だった』と率直に言うことができるだろう」<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P49</ref> と述懐している。 |
||
帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れた。劇場や居酒屋に足繁く通い、[[ビリヤード]]や葉巻きたばこ|葉巻の喫煙、[[飲酒]]や[[買春]]が毎日の生活の一部となった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50-51</ref>。旅行にも興味を示し、 |
帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れた。劇場や居酒屋に足繁く通い、[[ビリヤード]]や葉巻きたばこ|葉巻の喫煙、[[飲酒]]や[[買春]]が毎日の生活の一部となった<ref>「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50-51</ref>。旅行にも興味を示し、ラクロワ島を訪れたり、サイクリングで「フランス全土を踏破」<ref name="ReferenceA">「いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝」 P50</ref> したりしたのもこの頃である。これらについてルブランは「決められた仕事に無理矢理就かせられたり、何らかの制限を設けられたりするという考えが、私には突然、耐えられなくなった」と「L'Enthousiasme」にて回想している<ref name="ReferenceA" />。一方で、後の代表作「[[奇巌城]]」はこの頃訪れた[[エトルタ]]の情景が源流となっている。 |
||
だが、[[1885年]][[1月27日 (旧暦)|1月27日]]、敬愛する母ブランシュが41歳で死去し、その遺産相続にともなう親権解除のため、彼は就職せねばならなくなった。父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛︵そもう︶工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた<ref>﹁いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P56</ref>。
|
だが、[[1885年]][[1月27日 (旧暦)|1月27日]]、敬愛する母ブランシュが41歳で死去し、その遺産相続にともなう親権解除のため、彼は就職せねばならなくなった。父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛︵そもう︶工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた<ref>﹁いやいやながら ルパンを生み出した作家 モーリス・ルブラン伝﹂ P56</ref>。
|
2024年5月22日 (水) 08:19時点における最新版
モーリス・ルブラン Maurice Leblanc | |
---|---|
誕生 |
1864年11月11日 フランス帝国・ルーアン |
死没 |
1941年11月6日(76歳没) フランス国・ペルピニャン |
国籍 | フランス |
代表作 | アルセーヌ・ルパンシリーズ |
ウィキポータル 文学 |