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'''中里 介山'''(なかざと かいざん、男性、[[1885年]]([[明治]]18年)[[4月4日]] - [[1944年]]([[昭和]]19年)[[4月28日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名 |
'''中里 介山'''(なかざと かいざん、男性、[[1885年]]([[明治]]18年)[[4月4日]] - [[1944年]]([[昭和]]19年)[[4月28日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名:'''中里 弥之助'''。 |
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甥に、ロシア・ソビエト文学者の[[中里迪弥]](なかざとみちや)。 |
甥に、ロシア・ソビエト文学者の[[中里迪弥]](なかざとみちや)。 |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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[[File:Tomb of Nakazato Kaizan.jpg|thumb|中里介山の墓]] |
[[File:Tomb of Nakazato Kaizan.jpg|thumb|中里介山の墓]] |
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[[神奈川県]][[西多摩郡]]羽村(現在の東京都[[羽村市]])に[[精米]]業者の次男として生まれる。[[玉川上水]]の取水堰にほど近い[[多摩川]]畔の[[水車]]小屋で生まれたと伝えられる。生家は[[自由民権運動]]で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地であった。 |
[[神奈川県|東京都]][[西多摩郡]]羽村(現在の東京都[[羽村市]])に[[精米]]業者の次男として生まれる。[[玉川上水]]の取水堰にほど近い[[多摩川]]畔の[[水車]]小屋で生まれたと伝えられる。生家は[[自由民権運動]]で三多摩壮士と呼ばれた人びとの根拠地で、民権運動の気風が色濃く残る土地であった。 |
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長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。[[1898年]](明治31年)西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での[[電話交換手]]や母校の[[代用教員]]の職に就き、一家を支えた。この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。 |
長兄は早世しており、少年時代に農家であったが、父の代で離農したため土地を失い、不遇の時代を過ごした。[[1898年]](明治31年)西多摩尋常高等小学校を卒業後に上京し、日本橋浪花電話交換局での[[電話交換手]]や母校の[[代用教員]]の職に就き、一家を支えた。この時期に松村介石に傾倒し、号の「介山」も松村にあやかるものだという。 |
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[[田川大吉郎]]の推挙で[[1906年]](明治39年)に『[[都新聞]]』に入社、次々と小説を発表し、[[1909年]](明治42年)には都新聞にはじめての連載小説「氷の花」を発表。後に社会主義からは離別しているが、幸徳らが処刑された「[[大逆事件]]([[幸徳事件]])」は、介山の交友関係者のなかからも多数の逮捕者・刑死者を出し、介山の精神にも深い影を落とした。「大逆事件」の影響は、『都新聞』の連載小説「高野の義人」と「島原城」にみられ、さらに長編『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』に及んでいると指摘されている。 |
[[田川大吉郎]]の推挙で[[1906年]](明治39年)に『[[都新聞]]』に入社、次々と小説を発表し、[[1909年]](明治42年)には都新聞にはじめての連載小説「氷の花」を発表。後に社会主義からは離別しているが、幸徳らが処刑された「[[大逆事件]]([[幸徳事件]])」は、介山の交友関係者のなかからも多数の逮捕者・刑死者を出し、介山の精神にも深い影を落とした。「大逆事件」の影響は、『都新聞』の連載小説「高野の義人」と「島原城」にみられ、さらに長編『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』に及んでいると指摘されている。 |
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[[1913年]]([[大正]]2年)[[9月12日]]に「都新聞」で小説『[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]』の執筆を開始、[[1921年]](大正10年)10月まで連載する。『都新聞』での連載以後は書き下ろしとして[[1918年]](大正7年)に自費出版、1921年(大正10年)に木村毅から[[春秋社]]社主神田豊穂を紹介され同社から出版<ref>このため、『大菩薩峠』には多くの異版が存在する。</ref>、[[菊池寛]]や[[国柱会]]の[[田中智學]]の推薦で有名になる。 |
[[1913年]]︵[[大正]]2年︶[[9月12日]]に﹁都新聞﹂で小説﹃[[大菩薩峠 (小説)|大菩薩峠]]﹄の執筆を開始<ref>下川耿史﹃環境史年表 明治・大正編(1868-1926)﹄p.387 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>、[[1921年]]︵大正10年︶10月まで連載する。﹃都新聞﹄での連載以後は書き下ろしとして[[1918年]]︵大正7年︶に自費出版、1921年︵大正10年︶に木村毅から[[春秋社]]社主神田豊穂を紹介され同社から出版<ref>このため、﹃大菩薩峠﹄には多くの異版が存在する。</ref>、[[菊池寛]]や[[国柱会]]の[[田中智學]]の推薦で有名になる。
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『大菩薩峠』の連載を終えた後は私塾や図書館経営、出版業などをするものの、[[1927年]](昭和2年)11月1日に東京日日新聞社と春秋社ので共催、『大菩薩峠』続編掲載披露宴が[[東京會舘]]で開れた<ref>参加者は、[[武者小路実篤]]、堺利彦、田中智学ら。</ref>。これ以降、『大菩薩峠』の執筆を再開し、『[[大阪毎日新聞]]』、『[[東京日日新聞]]』、『隣人之友』、『国民新聞』、『[[讀賣新聞]]』と連載誌(紙)を替えつつ[[1941年]](昭和16年)まで書き継がれ、未完に終わったものの代表作となった。 |
『大菩薩峠』の連載を終えた後は私塾や図書館経営、出版業などをするものの、[[1927年]](昭和2年)11月1日に東京日日新聞社と春秋社ので共催、『大菩薩峠』続編掲載披露宴が[[東京會舘]]で開れた<ref>参加者は、[[武者小路実篤]]、堺利彦、田中智学ら。</ref>。これ以降、『大菩薩峠』の執筆を再開し、『[[大阪毎日新聞]]』、『[[東京日日新聞]]』、『隣人之友』、『国民新聞』、『[[讀賣新聞]]』と連載誌(紙)を替えつつ[[1941年]](昭和16年)まで書き継がれ、未完に終わったものの代表作となった。 |
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一方、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』で連載していた小説『夢殿』は、[[1927年]](昭和2年)9月号の内容が[[タブー]]に触れたため、尊厳冒涜を理由に雑誌自体が発売禁止処分を受け、当該箇所の削除が行われた<ref>発売禁止に現れた出版界の傾向(二)『東京朝日新聞』昭和2年12月29日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p276 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
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[[1929年]](昭和4年)、実業家・[[藤田勇 (新聞記者)|藤田勇]]の紹介で上京間もない[[合気道]]創始者・[[植芝盛平]]の道場(東京芝高輪町)に入門、見慣れぬ武技を熱心に観察したという<ref>出典:[[植芝吉祥丸]]著・[[植芝守央]]監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年、ISBN 4882931680、192頁、306-307頁。[[砂泊兼基]] 『武の真人―合気道開祖植芝盛平伝』 たま出版、1981年、ISBN 4884810708、156頁。</ref>。[[1933年]](昭和8年)には古文書から武術に関する逸話などを網羅した『[[日本武術神妙記]]』を著す。[[第19回衆議院議員総選挙|1936年の総選挙]]では無所属で東京7区(当時)から出馬するも、最下位で落選する[http://go2senkyo.com/precinct/2011092531578.html]。 |
[[1929年]](昭和4年)、実業家・[[藤田勇 (新聞記者)|藤田勇]]の紹介で上京間もない[[合気道]]創始者・[[植芝盛平]]の道場(東京芝高輪町)に入門、見慣れぬ武技を熱心に観察したという<ref>出典:[[植芝吉祥丸]]著・[[植芝守央]]監修 『合気道開祖 植芝盛平伝』 出版芸術社、1999年、ISBN 4882931680、192頁、306-307頁。[[砂泊兼基]] 『武の真人―合気道開祖植芝盛平伝』 たま出版、1981年、ISBN 4884810708、156頁。</ref>。[[1933年]](昭和8年)には古文書から武術に関する逸話などを網羅した『[[日本武術神妙記]]』を著す。[[第19回衆議院議員総選挙|1936年の総選挙]]では無所属で東京7区(当時)から出馬するも、最下位で落選する[http://go2senkyo.com/precinct/2011092531578.html]。 |
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{{DEFAULTSORT:なかさと かいさん}} |
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[[Category:20世紀日本の小説家]] |
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[[Category:都新聞社の人物]] |
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[[Category:日本の初等教育の教員]] |
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[[Category:無教会]] |
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[[Category:腸チフスで死亡した人物]] |
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[[Category:神奈川県出身の人物]] |
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[[Category:東京都出身の人物]] |
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2024年3月2日 (土) 22:20時点における最新版
中里 介山 (なかざと かいざん) | |
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誕生 |
1885年4月4日![]() (現・東京都羽村市) |
死没 |
1944年4月28日(59歳没)![]() (現・東京都あきる野市) |
墓地 | 禅林寺(東京都羽村市) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
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最終学歴 | 西多摩尋常高等小学校 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『大菩薩峠』(1941年) |
デビュー作 | 『氷の花』(1906年) |
配偶者 | 終生独身 |
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略歴[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0f/Tomb_of_Nakazato_Kaizan.jpg/220px-Tomb_of_Nakazato_Kaizan.jpg)