今村明恒
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今村 明恒 | |
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生誕 |
1870年6月14日 (明治3年5月16日) ![]() |
死没 | 1948年1月1日 |
研究分野 | 地震学 |
研究機関 | 東京帝国大学 |
出身校 | 東京帝国大学 |
プロジェクト:人物伝 |
今村 明恒︵いまむら あきつね、1870年6月14日︵明治3年5月16日︶ - 1948年1月1日︶は日本の地震学者。
生涯
1870年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれた。 鹿児島高等中学造士館予科を経て第一高等中学校︵現在の東京大学教養学部︶を卒業後、1891年に東京帝国大学理科大学︵現在の東京大学︶物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した[1]。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。 明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事﹁市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法﹂を、雑誌﹃太陽﹄に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、﹁ホラ吹きの今村﹂と中傷された[2][3]。しかし1923年に関東地震︵関東大震災︶が発生し、明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として﹁地震の神様﹂と讃えられるようになった。 1911年に今村式強震計[4]を開発した。 1923年に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。1925年に北但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた明恒は、これを監視するために1928年に南海地動研究所︵現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所︶を私費で設立した。明恒の予想通り1944年に東南海地震、1946年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。 1929年、1892年に解散していた日本地震学会を再設立し、その会長となった。専門誌﹃地震﹄の編集にも携わった。1931年に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて﹃稲むらの火﹄の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年に﹃﹃稲むらの火﹄の教え方について﹄を著して、その教え方についても詳しく指導している。 1944年12月7日に東南海地震が発生した際には、陸軍測地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行なっていた。この測量は今村の強い働きかけによるものであった[5]。この測量の時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。 浄瑠璃語りを趣味として宴会で披露していたという。また上京時に方言で苦労した自らの体験から、1915年に地方出身者のための東京弁の指導書である﹃東京辯﹄を著している[6]。 なお次男の今村久も地震学者である。著書
単著
- 『地震学』(大日本図書 1905年)
- 『『稲むらの火』の教え方について』(1940年)
- 『鯰のざれごと』(三省堂 1941年)
- 『地震の国』(文藝春秋 1949年)
- 『大地震の前兆に関する資料』(古今書院 1977年)
- 『地震講話』(岩波書店)
共著
主要論文
- 東京に於ける地震波三角観測の結果に就て Tokyo Sugaku-Butsurigakukwai Kiji-Gaiyo Vol.2 (1903-1906) No.13 P151-153
- 東京ニ於ケル地震波三角觀測ノ結果ニ就テ Tokyo Sugaku-Butsurigakkwai Hokoku Vol.2 (1903) No.14 P151-153
- ヂアナ艦の津浪遭難記 地震 第1輯 Vol.11 (1939) No.12 P588-598
- 地震と火災 地震 第1輯 Vol.6 (1934) No.12 P675-676
- 土佐に於ける寶永安政兩度津浪の高さ 震 第1輯 Vol.10 (1938) No.9 P394-404