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「内山完造」の版間の差分

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[[1936年]]10月19日に魯迅が持病の[[喘息]]で急逝したとき、その絶筆は、内山への日本語のメモであり、その内容は日本人主治医への連絡を内山に依頼するものであった<ref name="fujii208">藤井(2011年)208ページ</ref>。18日に許夫人から手紙を受け取った内山は、すぐに須藤医師を手配、魯迅宅に駆けつけた。机に顔を伏した状態で煙草を片手に苦しむ魯迅を助け、休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅に帰る。しかし、翌朝5時に再度の知らせで駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交の深かった魯迅の死を夫人とともに悲しんだという。

[[1936年]]10月19日に魯迅が持病の[[喘息]]で急逝したとき、その絶筆は、内山への日本語のメモであり、その内容は日本人主治医への連絡を内山に依頼するものであった<ref name="fujii208">藤井(2011年)208ページ</ref>。18日に許夫人から手紙を受け取った内山は、すぐに須藤医師を手配、魯迅宅に駆けつけた。机に顔を伏した状態で煙草を片手に苦しむ魯迅を助け、休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅に帰る。しかし、翌朝5時に再度の知らせで駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交の深かった魯迅の死を夫人とともに悲しんだという。



内山の著書「生ける支那の姿」(1936年出版)に魯迅による序があり、魯迅は内山を「老朋友」と著している。

[[1950年]](昭和25年)[[日中友好協会]]理事長となった。1959年(昭和34年)病気療養のため中国にわたり、[[北京]]で[[脳溢血]]のため死去した。


[[1950年]](昭和25年)[[日中友好協会]]理事長となった。

1959年(昭和34年)病気療養のため中国にわたり、[[北京]]で[[脳溢血]]のため死去した。



== 出典 ==

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2016年6月23日 (木) 01:56時点における版

内山完造

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姿1936

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出典

  1. ^ a b c d 榎本(2009年)163ページ
  2. ^ 藤井(2011年)137ページ
  3. ^ a b c d e f g h i j 尾崎(1989年)28ページ
  4. ^ a b c d e f 藤井(2011年)138ページ
  5. ^ a b c d e 榎本(2009年)165ページ
  6. ^ 尾崎(1989年)30ページ
  7. ^ 尾崎(1989年)34ページ
  8. ^ a b c d e 尾崎(1989年)37ページ
  9. ^ 尾崎(1989年)38ページ
  10. ^ 藤井(2011年)140ページ
  11. ^ 藤井(2011年)208ページ

参考文献

  • 榎本泰子著『上海 多国籍都市の百年』(2009年)中公新書
  • 藤井省三著『魯迅ー東アジアに生きる文学』(2011年)岩波新書
  • 尾崎秀樹著『上海1930年』(1989年)岩波新書

関連項目

外部リンク