「内山完造」の版間の差分
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[[1927年]]10月5日に[[魯迅]]が、魏盛里の内山書店に立ち寄った<ref name="ozaki37">尾崎︵1989年︶37ページ</ref>。魯迅が上海について2日後のことである<ref name="ozaki37"/>。そのときは、内山は不在で顔を合わせていない<ref name="ozaki37"/>。顔を合わせたのは数日後である<ref name="ozaki37"/>。そのときのことを内山はこう書いている<ref name="ozaki37"/>。﹁それから間もない頃いつも2、3人の友人を同伴した藍色の長衫︵普通の支那服︶を着た小柄であるがトテも特徴のある歩き方をする鼻下に黒い濃い鬚を生やした水晶の様に澄んだ眼をしたドッシリとして小柄に拘らず大きな感じのする人が私共の眼に映る様になった。いつであったか或日のこと、件の先生が一人で来られて色々本を撰り出した後で、長椅子に腰を下ろして家内のすすめたお茶を飲みながら煙草に火をつけて鮮やかな日本語で撰り出された幾冊かの本を指して、﹃老板︵ラオバン︶此の本をダラッチ路景雲里○○号に届けて下さい﹄といわれた﹂<ref name="ozaki38">尾崎︵1989年︶38ページ</ref>。その後も、内山の紹介で魯迅は、上海を訪れた[[金子光晴]]、[[武者小路実篤]]、[[横光利一]]、[[林芙美子]]、[[野口米次郎]]、[[長与善郎]]らの作家・詩人、[[長谷川如是閑]]、[[室伏高信]]、[[山本実彦]]らのジャーナリスト、[[塩谷温]]、[[増田渉]]らの中国文学者、[[禅]]の大家である[[鈴木大拙]]らに面会することになる<ref name="fujii140">藤井︵2011年︶140 |
[[1927年]]10月5日に[[魯迅]]が、魏盛里の内山書店に立ち寄った<ref name="ozaki37">尾崎(1989年)37ページ</ref>。魯迅が上海について2日後のことである<ref name="ozaki37"/>。そのときは、内山は不在で顔を合わせていない<ref name="ozaki37"/>。顔を合わせたのは数日後である<ref name="ozaki37"/>。そのときのことを内山はこう書いている<ref name="ozaki37"/>。「それから間もない頃いつも2、3人の友人を同伴した藍色の長衫(普通の支那服)を着た小柄であるがトテも特徴のある歩き方をする鼻下に黒い濃い鬚を生やした水晶の様に澄んだ眼をしたドッシリとして小柄に拘らず大きな感じのする人が私共の眼に映る様になった。いつであったか或日のこと、件の先生が一人で来られて色々本を撰り出した後で、長椅子に腰を下ろして家内のすすめたお茶を飲みながら煙草に火をつけて鮮やかな日本語で撰り出された幾冊かの本を指して、『老板(ラオバン)此の本をダラッチ路景雲里○○号に届けて下さい』といわれた」<ref name="ozaki38">尾崎(1989年)38ページ</ref>。その後も、内山の紹介で魯迅は、上海を訪れた[[金子光晴]]、[[武者小路実篤]]、[[横光利一]]、[[林芙美子]]、[[野口米次郎]]、[[長与善郎]]らの作家・詩人、[[長谷川如是閑]]、[[室伏高信]]、[[山本実彦]]らのジャーナリスト、[[塩谷温]]、[[増田渉]]らの中国文学者、[[禅]]の大家である[[鈴木大拙]]らに面会することになる<ref name="fujii140">藤井(2011年)140ページ</ref>。 |
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[[1936年]]10月19日に魯迅が持病の[[喘息]]で急逝したとき、その絶筆は、内山への日本語のメモであり、その内容は日本人主治医への連絡を内山に依頼するものであった<ref name="fujii208">藤井︵2011年︶208ページ</ref>。18日に許夫人から手紙を受け取った内山は、すぐに須藤医師を手配、魯迅宅に駆けつけた。机に顔を伏した状態で煙草を片手に苦しむ魯迅を助け、休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅に帰る。しかし、翌朝5時に再度の知らせで駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交の深かった魯迅の死を夫人とともに悲しんだという。
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[[1950年]](昭和25年)[[日中友好協会]]理事長となった。1959年(昭和34年)病気療養のため中国にわたり、[[北京]]で[[脳溢血]]のため死去した。 |
[[1950年]](昭和25年)[[日中友好協会]]理事長となった。1959年(昭和34年)病気療養のため中国にわたり、[[北京]]で[[脳溢血]]のため死去した。 |
2016年6月23日 (木) 01:36時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/12/Kanzo_Uchiyama_01.jpg/200px-Kanzo_Uchiyama_01.jpg)
上海における内山書店の開設
高等小学校を4年で中退し、京都と大阪の商家で10数年間店員を勤めたのち、1913年3月上海に渡った[1][3]。入信したキリスト教会の牧師の紹介で、大学目薬・参天堂︵現在の参天製薬︶の出張販売員となるためである[1][3]。各地を営業するうちに、粗衣粗食に耐える勤勉な苦力︵クーリー︶や信用を重んじる商人など中国の庶民に深い共感を覚えた[4]。また中国人が、個人的な信用を重んじ、﹁官﹂の威光をむやみに信じないことや、現実を重視し実利的であることなども、彼の心に深く刻まれた[5]。クリスチャンであった彼は、3年後に京都教会の牧野虎次牧師の勧めにより、家の事情で祇園の芸者となっていた井上美喜子と結婚した[4]。女性自立のための経済的独立を持論とする彼は、妻の内職用に上海・北四川路の自宅に、板の間にビール箱を置いただけの簡素な売り場を設けて、キリスト教関係書の販売を始めた[3][4]。最初は扱う書籍の数もも少なかったが、書籍数が100冊をこえるころ客の要望に応えて、宗教書のみならず一般書の取り次ぎも行うようになった[3]。1929年に﹁内山書店﹂を施高塔︵スコット︶路に移転した[5]。路面電車の終点にも近く、商売には絶好のロケーションである[5]。1930年には、彼自身も参天堂を辞めて﹁内山書店﹂の書店経営に専心した[4][5]。1930年代半ば日本企業の上海進出、﹁円本ブーム﹂などの出版好況、そして日本人・中国人・朝鮮人の区別なく掛け売りを行う愛書家への奉仕に徹した営業方針などの理由により﹁内山書店﹂は急成長を遂げ、数年後には上海随一の日本書書店に成長した[3][4]。日中文化人らとの交流
1920年には上海YMCA主催の夏期講座を計画し、第1回の講師に森本厚吉、成瀬無極、賀川豊彦を招いたのがきっかけで、それ以来数年間にわたり、吉野作造をはじめとする文化人が上海を訪れるようになった[3]。内山はその夏期講座の損失を負担するとともに、世話役として奔走した[3]。1924年には、魏盛里の自宅の真向いにある空家を買い求め、独立した書店を営むようになり、そのころから内山書店は日中文化人や文芸愛好家らのたまり場となるようになった[3]。やがて、それが誰もが自由に集って、自由に語り合える場となり、﹁文芸漫談会﹂と呼ばれるようになった[3]。その中には、田漢、郁達夫、郭沫若などの日本留学経験者である中国知識人も含まれていた[3][5]。1926年には谷崎潤一郎が2度目の上海訪問中、内山書店を訪れ、その著作で紹介したこともあり、日本からやってくる文化人は内山書店を窓口にして中国の知識人と交流を持つのが習わしとなった[4][6]。1927年夏には、谷崎の紹介で上海を訪れた佐藤春夫に対しても、内山は谷崎の場合と同様に佐藤が中国の文学者と会うための骨折りをしている[7]。魯迅との親交
1927年10月5日に魯迅が、魏盛里の内山書店に立ち寄った[8]。魯迅が上海について2日後のことである[8]。そのときは、内山は不在で顔を合わせていない[8]。顔を合わせたのは数日後である[8]。そのときのことを内山はこう書いている[8]。﹁それから間もない頃いつも2、3人の友人を同伴した藍色の長衫︵普通の支那服︶を着た小柄であるがトテも特徴のある歩き方をする鼻下に黒い濃い鬚を生やした水晶の様に澄んだ眼をしたドッシリとして小柄に拘らず大きな感じのする人が私共の眼に映る様になった。いつであったか或日のこと、件の先生が一人で来られて色々本を撰り出した後で、長椅子に腰を下ろして家内のすすめたお茶を飲みながら煙草に火をつけて鮮やかな日本語で撰り出された幾冊かの本を指して、﹃老板︵ラオバン︶此の本をダラッチ路景雲里○○号に届けて下さい﹄といわれた﹂[9]。その後も、内山の紹介で魯迅は、上海を訪れた金子光晴、武者小路実篤、横光利一、林芙美子、野口米次郎、長与善郎らの作家・詩人、長谷川如是閑、室伏高信、山本実彦らのジャーナリスト、塩谷温、増田渉らの中国文学者、禅の大家である鈴木大拙らに面会することになる[10]。 1936年10月19日に魯迅が持病の喘息で急逝したとき、その絶筆は、内山への日本語のメモであり、その内容は日本人主治医への連絡を内山に依頼するものであった[11]。18日に許夫人から手紙を受け取った内山は、すぐに須藤医師を手配、魯迅宅に駆けつけた。机に顔を伏した状態で煙草を片手に苦しむ魯迅を助け、休日の手配した医師らの診察後に一旦自宅に帰る。しかし、翌朝5時に再度の知らせで駆けつけると既に脈がなかった。内山は、親交の深かった魯迅の死を夫人とともに悲しんだという。 1950年︵昭和25年︶日中友好協会理事長となった。1959年︵昭和34年︶病気療養のため中国にわたり、北京で脳溢血のため死去した。出典
参考文献
- 榎本泰子著『上海 多国籍都市の百年』(2009年)中公新書
- 藤井省三著『魯迅ー東アジアに生きる文学』(2011年)岩波新書
- 尾崎秀樹著『上海1930年』(1989年)岩波新書
関連項目
外部リンク
- 井原市観光協会
- 株式会社「内山書店」
- 著作集 - 近代デジタルライブラリー