「劉封」の版間の差分
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|称号・役職 = 副軍将軍 |
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|出生 = 不詳 |
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|出身地 = [[荊州]][[長沙郡]][[羅県]]<ref name="Ryuhou">盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈によると、{{SquoteH}}『[[春秋左氏伝]]』桓公13年に「楚の屈瑕が羅を伐った」とある。杜注は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された」という。『[[漢書]]』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。応劭は「楚の文王が羅子を枝江からここに徙した」という。『[[続漢書]]』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『水経注』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『[[水経注]]』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは襄陽(郡)宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。秦が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の湖南(省)長沙府湘陰県の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。{{仮リンク|趙一清|zh|趙一清}}は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、[[寇恂]]の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。[[沈家本]]は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)永和5年の後のことである。{{SquoteF}}</ref> |
|出身地 = [[荊州]][[長沙郡]][[羅県]]<ref name="Ryuhou">盧弼﹃三国志集解﹄巻40冒頭の注釈によると、{{SquoteH}}﹃[[春秋左氏伝]]﹄桓公13年に﹁楚の屈瑕が羅を伐った﹂とある。[[杜預|杜注]]は﹁羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された﹂という。﹃[[漢書]]﹄地理志には長沙国︵の節︶に﹁羅︵県︶﹂︵の記述︶がある。[[応劭]]は﹁楚の文王が羅子を枝江からここに徙した﹂という。﹃[[続漢書]]﹄郡国志には南郡︵の節︶に﹁枝江は、侯国であり、もとの羅国である﹂とあるが、長沙郡︵の節︶にも﹁羅﹂︵の記述︶がある。﹃水経注﹄江水は﹁枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである﹂とする。﹃[[水経注]]﹄湘水は﹁汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。︵羅県は︶もとの羅子国である。︵羅子国は︶もとは襄陽︵郡︶宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。秦が長沙郡を立てると、︵羅︶県をつくり、水を羅水といった﹂とする。﹃大清一統志﹄は﹁羅県の故城は、現在の湖南︵省︶長沙府湘陰県の東北にある﹂とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。{{仮リンク|趙一清|zh|趙一清}}は﹁羅侯は地名である。︵﹃三国志﹄本︶伝は羅国を継承したことを言っているが、[[寇恂]]の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか﹂という。[[沈家本]]は﹁寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない﹂という。﹃続漢書﹄郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは︵郡国志の基準となっている︶永和5年の後のことである。{{SquoteF}}</ref>
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2019年4月21日 (日) 14:59時点における版
劉封 | |
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蜀漢 副軍将軍 | |
出生 |
不詳 荊州長沙郡羅県[1] |
死去 | 220年 |
拼音 | Liú Fēng |
別名 | 寇封 |
主君 | 劉備 |
養父: 劉備 |
生涯
三国志演義
三国志平話
脚註
- ^ a b 盧弼『三国志集解』巻40冒頭の注釈によると、
『春秋左氏伝』桓公13年に「楚の屈瑕が羅を伐った」とある。杜注は「羅は熊姓の国で、宜城県西山にあった。後に南郡枝江県に徙された」という。『漢書』地理志には長沙国(の節)に「羅(県)」(の記述)がある。応劭は「楚の文王が羅子を枝江からここに徙した」という。『続漢書』郡国志には南郡(の節)に「枝江は、侯国であり、もとの羅国である」とあるが、長沙郡(の節)にも「羅」(の記述)がある。『水経注』江水は「枝江は、もとの羅国であり、おそらく羅は移転したのであろう。羅の故居は宜城西山にあり、楚の文王がまたこれを長沙に移したものである。今の羅県がこれである」とする。『水経注』湘水は「汜水はまた西方の羅県の北をめぐっている。(羅県は)もとの羅子国である。(羅子国は)もとは襄陽(郡)宜城県の西にあったが、楚の文王がここに移した。秦が長沙郡を立てると、(羅)県をつくり、水を羅水といった」とする。『大清一統志』は「羅県の故城は、現在の湖南(省)長沙府湘陰県の東北にある」とする。盧弼の考えるに、宜城が羅の故国であり、ひとたび枝江に移り、ふたたび長沙に移ったものである。趙一清は「羅侯は地名である。(『三国志』本)伝は羅国を継承したことを言っているが、寇恂の後裔で羅に封じられたものがいたのだろうか」という。沈家本は「寇恂は雍奴侯に封じられ、その後裔で徙封されたものがいたか、考証できない」という。『続漢書』郡国志は長沙郡の属県を羅としており、侯国であるとは言っていない。つまり羅国の封じられるのは(郡国志の基準となっている)永和5年の後のことである。
参考資料
- 『三国志平話』中巻・下巻(二階堂善弘・中川諭(翻訳)、光栄、1999年) ISBN 978-4877196783(旧:ISBN 4877196781)