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| combatant2 = [[曹操]]軍(一次、二次)<br>[[魏 (三国)|魏]]軍(三次、四次、五次) |
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| commander1 = 孫権(一次、二次、三次、四次)<br>[[諸葛恪]](五次) |
| commander1 = 孫権(一次、二次、三次、四次)<br>[[諸葛恪]](五次) |
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| commander2 = [[蔣済]](一次)<br>[[薛悌]]、[[張遼]](二次)<br>[[満寵]](三次、四次)<br>[[カン丘倹|毌丘倹]](五次) |
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[[208年]]の[[赤壁の戦い]]で孫権・劉備の連合軍は烏林で曹操軍を打ち破り、曹操は[[荊州区|江陵]]と荊州の守備を部将達に任せると[[許昌]]へ撤退した。[[周瑜]]ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時[[柴桑区|柴桑]]に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を指揮して江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
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[[208年]]の[[赤壁の戦い]]で孫権・劉備の連合軍は烏林で曹操軍を打ち破り、曹操は[[荊州区|江陵]]と荊州の守備を部将達に任せると[[許昌]]へ撤退した。[[周瑜]]ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時[[柴桑区|柴桑]]に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を指揮して江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。
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曹操は張喜と[[ |
曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した。
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[[209年]]、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。 |
[[209年]]、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時期曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。 |
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張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが﹁将軍は我らを見棄てられるのですか﹂などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。
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張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが﹁将軍は我らを見棄てられるのですか﹂などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。
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その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、[[呂蒙]]・[[ |
その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、[[呂蒙]]・[[蔣欽]]・[[凌統]]・[[甘寧]]が残っているのみであった。張遼はその様子を窺い知ると、楽進らと急襲をかけた。
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孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈︵3m︶余り撤去されていた。孫権の側仕えの[[谷利]]が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した。
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孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈︵3m︶余り撤去されていた。孫権の側仕えの[[谷利]]が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した。
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== 合肥新城の築城 == |
== 合肥新城の築城 == |
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230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は[[寿春]]の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。[[曹休]]の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。 |
230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は[[寿春]]の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。[[曹休]]の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済はこれを﹁味方の士気を削ぐ﹂と反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の[[趙咨]]は満寵の意見を支持し、[[曹叡]]︵明帝︶の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。
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== 第三次戦役(233年) == |
== 第三次戦役(233年) == |
2020年9月15日 (火) 15:25時点における版
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合肥の戦い | |
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戦争:合肥の戦い | |
年月日:208年冬~253年冬 | |
場所:合肥(現在の安徽省合肥市) | |
結果:一次(208年):曹操軍の勝利 二次(215年):曹操軍の勝利 三次(233年):魏軍の勝利 四次(234年):魏軍の勝利 五次(253年):魏軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
孫権軍(一次)(二次) 呉軍(三次、四次、五次) |
曹操軍(一次、二次) 魏軍(三次、四次、五次) |
指導者・指揮官 | |
孫権(一次、二次、三次、四次) 諸葛恪(五次) |
蔣済(一次) 薛悌、張遼(二次) 満寵(三次、四次) 毌丘倹(五次) |
戦力 | |
不明 | 不明 |
損害 | |
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合肥の戦い︵がっぴもしくはごうひのたたかい︶は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝の合肥を巡って魏と呉の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。
孫権が劉備に荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まった。215年に起こった戦いが有名で、10万人の孫権軍が7千人の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。