司馬孚
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司馬孚 | |
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魏 → 西晋 太傅(魏) 太宰・安平王(西晋) | |
出生 |
光和3年(180年) 河内郡温県 |
死去 | 泰始8年2月18日(272年4月3日) |
字 | 叔達 |
諡号 | 献 |
主君 | 曹操 → 曹丕 → 曹叡 → 曹芳 → 曹髦 → 曹奐 → 司馬炎 |
司馬 孚︵しば ふ︶は、後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家で、西晋の皇族。字は叔達。諡は献。司馬防の三男。司馬朗・司馬懿の弟。
略歴[編集]
兄達と同様曹操に仕えた。﹃晋書﹄によれば、温厚寛達で誠実な性格であり、人を恨んだことがない、とまで評されている。経書に精通し、文才にも秀でており、最初に与えられた官職は、曹操の子で文才をうたわれた曹植の文学掾であった。奔放な気質の持ち主であった曹植を度々諌め、曹植は最初、その諫言に反発していたが、後にはその非を謝し、司馬孚を厚遇した。 曹操の葬儀の際は、曹丕の哭礼があまりに激しいことを諫め﹁あなたは天下の規範となるべきお方、小人の礼は取られますな﹂と忠告し、他の廷臣たちには﹁今、魏王を失って海内は混沌の極みであるのに、あなた方に泣いている暇などありません﹂と叱咤した。 魏には度支尚書という軍事財政専任の国務長官が置かれた。諸葛亮の侵攻に苦しめられていた明帝は、司馬懿の弟であった司馬孚をこれに抜擢した。司馬孚は兵員・物資を的確に補充して、兄の戦いを後方から支援した。明帝は﹁わしは二人の司馬懿を得たぞ﹂と喜んだという[1]。 正始10年︵249年︶、司馬懿は曹爽に対してクーデターを起こしたが、司馬懿に協力する中護軍司馬師と尚書令司馬孚は、速やかに洛陽の宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。クーデターは成功し、曹爽は誅殺された。司馬孚は嘉平3年︵251年︶2月に司空となり、7月に太尉となった。「高平陵の変」も参照
嘉平5年︵253年︶3月、呉の諸葛恪は大軍を率いて魏に侵攻したが、毌丘倹・文欽は合肥新城の張特とともにこれを防いだ。同年7月、司馬孚は20万の兵を率いて東征して合肥新城の包囲を解き、諸葛恪を撤退させた。
魏に重用された司馬孚は、魏への忠信が厚く、常に皇室を重んじる姿勢を貫いていた。甘露の変において高貴郷公曹髦が暗殺された際、司馬孚はその遺体に取りすがって号泣し、更に司馬昭が太后︵郭氏︶の命であるとして、曹髦を庶人の格式で葬ろうとすることを聞くと、これに敢然と反対し、皇太后に上奏して王侯の格式で葬る許可を取り付け、そのように行った。彼は慎ましやかな性格で、兄が権勢を握っても、常に一歩下がった控えめな態度で忠勤に励み、陰謀には一切関わろうとしなかった。また、甥の司馬師や司馬昭らは、叔父が皇室を擁護する立場を取っていても、手出しすることはなかった。
泰始元年︵265年︶、司馬炎が西晋の武帝として即位し、前皇帝の元帝が金墉城に移送された時、司馬孚は元帝の手を取り﹁臣は死ぬ日まで魏の臣下で有り続けます﹂と涙ながらに謝した。司馬炎は大叔父である司馬孚を尊び、安平王に封じて4万戸の食邑を与え、さらに太宰・持節・都督中外諸軍事に任じるなど優遇したが、司馬孚は鬱々として楽しまなかった。
泰始8年2月壬辰︵272年4月3日︶、死去。齢93の長命であった。彼の葬儀は、後漢の東平王劉蒼の例にならい国葬として執り行なわれ、非常に盛大なものであったという。武帝の弟である斉王司馬攸の葬儀も、司馬孚の例に倣って行われたことが﹃晋書﹄斉献王伝に見える。また、北魏の楊衒之﹃洛陽伽藍記﹄に、清河王元懌の葬儀が司馬孚の例に倣って行われたと記されている。
なお、﹃資治通鑑﹄を編纂した北宋の司馬光は、司馬孚の末裔を称している。
宗室[編集]
子[編集]
脚注[編集]
- ^ 『晋書』司馬孚伝
伝記資料[編集]
- 『晋書』巻37 列伝第7 安平献王伝
関連項目[編集]
- 司馬順 - 司馬炎の禅譲を、表だって批判した皇族
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