「吉植庄亮」の版間の差分
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[[1936年]]の[[第19回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[立憲政友会]]から出馬し、当選して[[衆議院議員]]となる。戦後[[公職追放]]を受け、[[農地改革]]により所有する農園を失った。[[1949年]]には農村を現地視察した[[カール・シャウプ]]を案内し、[[シャウプ勧告]]に実情が反映されたという<ref>読売新聞、1998年12月22日付朝刊、P.17</ref>。その後、印旛沼・[[手賀沼]]の土地改良区設立運動に携わった<ref name="mieda_1022"/>。[[1951年]]に追放解除を受け、[[1958年]][[12月7日]]に[[食道癌]]のため[[NTT東日本関東病院|関東逓信病院]]で逝去<ref>読売新聞、1958年12月8日付朝刊、P.9</ref>。[[正五位]][[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]が追贈された。[[1973年]]には、郷土を代表する歌人として[[千葉県文化会館]]に[[歌碑]]が建立された<ref>朝日新聞、1999年10月10日付朝刊、千葉地方面</ref>。
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2018年10月6日 (土) 13:53時点における版
吉植 庄亮 | |
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生年月日 | 1884年4月3日 |
出生地 | 千葉県印旛郡(現・印西市) |
没年月日 | 1958年12月7日(74歳没) |
死没地 | 東京都品川区 |
出身校 | 東京帝国大学経済学科卒業 |
所属政党 | 立憲政友会 |
親族 | 父:吉植庄一郎 |
選挙区 | 千葉県第2区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1936年2月20日 - 1945年12月18日 |
経歴
1884年、千葉県印旛郡︵現・印西市︶で生まれる。1893年に父の庄一郎が開墾のために北竜村に移住したため別居し、祖父の庄之輔の元で育てられた[1]。第一高等学校を経て東京帝国大学経済学科を1916年に卒業後、父の経営する中央新聞に入社して新聞記者となる。また1906年に金子薫園に師事して歌人となり、1922年に雑誌﹃橄欖﹄を創刊。1923年、北原白秋、前田夕暮、古泉千樫、石原純、木下利玄らとともに歌誌﹃日光﹄を創刊。北原白秋とは特に交流が深く、鉄道省主催の樺太観光団に同行している。庄之輔が逝去した後は祖母とともに印旛郡で数年間を過ごし[1]、1925年から10年間で印旛沼周辺に60町歩︵595,041m2︶の土地を開墾し[2]、1941年の﹃開墾﹄などでこれを歌に詠んでいる。当時としては画期的な大型トラクター導入による農業の機械化や有畜農業を進めた[1]。 1936年の衆議院選挙に立憲政友会から出馬し、当選して衆議院議員となる。戦後公職追放を受け、農地改革により所有する農園を失った。1949年には農村を現地視察したカール・シャウプを案内し、シャウプ勧告に実情が反映されたという[3]。その後、印旛沼・手賀沼の土地改良区設立運動に携わった[1]。1951年に追放解除を受け、1958年12月7日に食道癌のため関東逓信病院で逝去[4]。正五位勲三等瑞宝章が追贈された。1973年には、郷土を代表する歌人として千葉県文化会館に歌碑が建立された[5]。著書
- 寂光 短歌研究会 1921 (橄欖叢書)
- くさはら 橄欖社 1928 (橄欖叢書)
- 煙霞集 紅玉堂書店 1928 (新歌集叢書)
- 大陸巡遊吟 改造社 1939
- 開墾 歌集 甲鳥書林 1941 のち短歌新聞社文庫[6]
- 馬の散歩 羽田書店 1941.2
- お米談義 実業之日本社 1942
- 大稜威 八雲書林 1942
- 米の貌 随筆 羽田書店 1942
- 海嶽 歌集 八雲書林 1942 (新作短歌)
- 風景 歌集 天理時報社 1943
- 雨耕抄 農村随筆 時代社 1944
- 光の如し 金星堂 1944
- 稲に祈る 愛宕書房 1944
- 百姓記 講談社 1946
- 霜ぶすま 歌集 白玉書房 1958 (橄欖叢書)
- 吉植庄亮全歌集 柏葉書院 1970
脚注
参考文献
- 新潮日本人名辞典