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'''同志クラブ'''(どうしくらぶ)は、[[1947年]][[11月28日]]-[[1948年]][[3月12日]]に[[衆議院]]に存在した[[院内会派]]。本項目では、その後継会派で1948年3月12日-同年[[3月15日]]に存在した'''民主クラブ'''(みんしゅくらぶ)についても併せて解説する。 |
'''同志クラブ'''(どうしくらぶ)は、[[1947年]][[11月28日]]-[[1948年]][[3月12日]]に[[衆議院]]に存在した[[院内会派]]。本項目では、その後継会派で1948年3月12日-同年[[3月15日]]に存在した'''民主クラブ'''(みんしゅくらぶ)についても併せて解説する。 |
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==概要== |
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1947年の[[日本国憲法]]公布後に成立した[[日本社会党]]︵以下社会党︶を中心とする[[片山内閣]]に参加していた[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]の内部には[[連立内閣]]に対する不満があった。これに対して[[野党]][[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]︵以下自由党︶が民主党に合同を申し込み、﹁保守新党﹂の結党を呼びかけたのである。
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1947年の[[日本国憲法]]公布後に成立した[[日本社会党]]︵以下社会党︶を中心とする[[片山内閣]]に参加していた[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]の内部には[[連立内閣]]に対する不満があった。これに対して[[野党]][[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]︵以下自由党︶が民主党に合同を申し込み、﹁保守新党﹂の結党を呼びかけたのである。
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これに対して民主党の総裁[[芦田均]]は、かつて自由党総裁の[[吉田茂]]との不和から自由党を離党して民主党に参加した経緯があり、﹁芦田新党﹂であれば参加するが、そうでなければ応じられないと主張した。一方、[[社会主義]][[政党]]である社会党を中心とした連立政権への参加とこれを決定した芦田への不満を抱いていた民主党議員は民主党の前身である[[日本進歩党]]の元総裁で民主党結成時に最高顧問に祭り上げられた[[幣原喜重郎]]元[[内閣総理大臣|首相]]を押し立ててこれに対抗して連立を離脱して日本自由党と合同すべきであると主張した。
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これに対して民主党の総裁[[芦田均]]は、かつて自由党総裁の[[吉田茂]]との不和から自由党を離党して民主党に参加した経緯があり、﹁芦田新党﹂であれば参加するが、そうでなければ応じられないと主張した。一方、[[社会主義]][[政党]]である社会党を中心とした連立政権への参加とこれを決定した芦田への不満を抱いていた民主党議員は民主党の前身である[[日本進歩党]]の元総裁で民主党結成時に最高顧問に祭り上げられた[[幣原喜重郎]]元[[内閣総理大臣|首相]]を押し立ててこれに対抗して連立を離脱して日本自由党と合同すべきであると主張した。
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1947年11月、社会党が強力に推進していた[[臨時石炭鉱業管理法]]が提出されると、幣原派は[[炭鉱]][[国営化]]は日本の社会主義化につながるとして激しく反対した。だが、[[11月11日]]の民主党代議士総会において芦田派の賛成多数によって賛成が決定された。[[11月20日]]には自由党とともに審議妨害を図ったとして幣原派の[[降旗徳弥]]が民主党を[[除名]]処分となった。これに激昂した幣原派は[[11月25日]]の[[本会議]]採決で反対票を投じた。これに対して民主党は[[工藤鉄男]]・[[佐々木秀世]]・[[原健三郎]]ら7名を除名、幣原喜重郎・[[根本龍太郎]]・[[田中角栄]]ら15名に離党勧告を出した。これに対して幣原ら13名は直ちに離党し、[[11月28日]]には上記20名と降旗、後から離党した4名を合わせた25名で'''同志クラブ'''を結成した。
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1947年11月、社会党が強力に推進していた[[臨時石炭鉱業管理法]]が提出されると、幣原派は[[炭鉱]][[国営化]]は日本の社会主義化につながるとして激しく反対した。だが、[[11月11日]]の民主党代議士総会において芦田派の賛成多数によって賛成が決定された。[[11月20日]]には自由党とともに審議妨害を図ったとして幣原派の[[降旗徳弥]]が民主党を[[除名]]処分となった。これに激昂した幣原派は5日後の[[11月25日]]の[[本会議]]採決で反対票を投じ、与党内野党に転じた。これに対して民主党は[[工藤鉄男]]・[[佐々木秀世]]・[[原健三郎]]ら7名を除名、幣原喜重郎・[[根本龍太郎]]・[[田中角栄]]ら15名に離党勧告を出した。これに対して幣原ら13名は直ちに離党し、[[11月28日]]には上記20名と降旗、後から離党した4名を合わせた25名で'''同志クラブ'''を結成した。
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その後、1948年2月には[[田中万逸]]ら3名も合流したが、その後、同志クラブと自由党の合同が決定され、3月12日には同志クラブを解散して民主党離党後に[[無所属]]に転じた議員を含めて36名で'''民主クラブ'''を結成、3日後の3月15日には民主クラブは日本自由党に合流して[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]が発足︵法的には自由党・民主クラブ解散に伴う新党結成︶した。
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その後、1948年2月には[[田中万逸]]ら3名も合流したが、その後、同志クラブと自由党の合同が決定され、3月12日には同志クラブを解散して民主党離党後に[[無所属]]に転じた議員を含めて36名で'''民主クラブ'''を結成、3日後の3月15日には民主クラブは日本自由党に合流して[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]が発足︵法的には自由党・民主クラブ解散に伴う新党結成︶した。
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2013年2月17日 (日) 08:56時点における版
同志クラブ︵どうしくらぶ︶は、1947年11月28日-1948年3月12日に衆議院に存在した院内会派。本項目では、その後継会派で1948年3月12日-同年3月15日に存在した民主クラブ︵みんしゅくらぶ︶についても併せて解説する。