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*[[1970年代]]に富洲原中学校出身か富洲原に[[地縁]]・[[血縁]]がある[[団塊の世代]]~[[しらけ世代]]の[[三重県立四日市工業高等学校]]出身のグループの[[スヌーピー]]が歌った[[フォークソング]]。[[地名]]の四日市市富洲原([[富洲原町]])とみすはらーと何度も言い私は今日まで生きてきた富洲原の町でと富洲原を紹介する歌詞の「富洲原には住めない」のCDを出した。<ref>http://waga.yokkaichi.org/song.html</ref> |
*[[1970年代]]に富洲原中学校出身か富洲原に[[地縁]]・[[血縁]]がある[[団塊の世代]]~[[しらけ世代]]の[[三重県立四日市工業高等学校]]出身のグループの[[スヌーピー]]が歌った[[フォークソング]]。[[地名]]の四日市市富洲原([[富洲原町]])とみすはらーと何度も言い私は今日まで生きてきた富洲原の町でと富洲原を紹介する歌詞の「富洲原には住めない」のCDを出した。<ref>http://waga.yokkaichi.org/song.html</ref> |
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2013年3月19日 (火) 10:27時点における版
四日市市立富洲原中学校 | |
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過去の名称 | 四日市市立北部中学校 |
国公私立 | 公立学校 |
設立年月日 | 1949年(昭和24年)3月31日 |
6月15日 | |
閉校年月日 | 1947年(昭和22年)6月15日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒510-8001 |
三重県四日市市天ヶ須賀五丁目3-10 | |
外部リンク | 公式サイト |
プロジェクト:学校/中学校テンプレート |
四日市市立富洲原中学校︵よっかいちしりつ とみすはらちゅうがっこう︶は、三重県四日市市天ヵ須賀5丁目︵富洲原地区天ヶ須賀島崎町︶にある公立中学校。四日市市立富洲原小学校の校区の児童が進学するケースが大部分である。校名の富洲原は四日市市北部地域の旧三重郡富洲原町を前身とする地区名の﹁富洲原﹂に由来する。
沿革
●1947年︵昭和22年︶3月31日 - 四日市市立富洲原小学校の卒業生が進学する富洲原地区を校区とする四日市市立富洲原中学校の設置が認可される。 ●1947年︵昭和22年︶6月15日 - 四日市市立富洲原中学校が開校する。四日市市立富洲原小学校付近の住吉町に位置した。 ●1948年︵昭和23年︶5月20日 - 富田地区の四日市市立富田中学校と合併して、北部地域を意味する四日市市立北部中学校と改称して、四日市市立富田小学校に校舎を建設して開校する。[1] ●1948年︵昭和23年︶5月23日 - 四日市市の學校再配置により富田地区の四日市市立富田中学校と合併して、四日市市立北部中学校と改称して富田小学校の校舎で開校している。新制富田中学校は、四日市市立富洲原中学校と合併して四日市市立北部中学校を開設すると共に、富田浜駅西側の校舎の富田小学校の浜分校を中心に富田小学校の第6校舎を移築して、1949年︵昭和24年︶5月に新たに東茂福町に四日市市立富田中学校が建設された。[2] ●1949年︵昭和24年︶1月20日 - 元富洲原中学校生徒を四日市市立北部中学校より分離し、北部中学校富洲原分校として、天ヵ須賀住吉町善太の新校舎及び富洲原小学校校舎に分かれて授業を開始する。 ●1949年︵昭和24年︶3月31日 - 四日市市立北部中学校から富洲原地区を正式に分離して、四日市市立富洲原中学校を復活する。 ●1949年︵昭和24年︶5月8日 - 天ヵ須賀住吉町の平田紡績工場近隣の善太地区の校舎が完成する。落成式が実施される。 ●1957年︵昭和32年︶9月8日 - 新校舎が完成して、天ヶ須賀地区の島崎町に移転する。 ●1959年︵昭和34年︶9月26日 - 伊勢湾台風で被災して床上2mの浸水に合い、学校施設や教育設備が壊滅的な被害を受けた。 ●1971年︵昭和46年︶3月5日 - 放火で更衣室と体育用具室が焼失する。 ●1989年︵平成元年︶ - 四日市市立富洲原中学校のオープンスペースを持つ新校舎が完成する。四日市市の三滝中学校に続くモデル校舎として建設された。[3] ●2001年︵平成13年︶4月1日 - D組として障害児の特別支援学級が設置される。 ●2003年︵平成15年︶4月1日 - 四日市市立富洲原小学校との﹁小中学びの一体化﹂の共同研究が開始される。 ●2004年︵平成16年︶1月16日 - 大阪教育大学附属池田小事件の教訓から監視カメラと防犯灯の増設工事が完成する。校舎
平成元年度に完成した新校舎の構造は箱型校舎を匂配屋根として、1階から3階までの多目的ホールがあり、各階にピアノが設置されている。デザインと意匠については、塔の形を錨で表現して、南北に窓を設置して、天ヶ須賀地区・富田一色地区・松原地区の3地域を表現して、東と西面に港町富洲原としての伝統と近代科学の枠を集めた工業都市四日市を表す2つの窓を設置している。階段東西には四日市市の四と表現する四つの小窓があり、地震や火災に対する避難や防災対策のために、教室練の校舎の南側にバルコニーが創設された。富洲原中学校校舎の東側の生徒入口の正面と2本の柱に美術科担当の教員のデザインで国語の教科書の作品のクッピーと水草の陶板が貼られている。学校組織
専門委員会
●合唱委員会︵合唱が盛んであるから︶ ●福祉厚生委員会 ●保健体育委員会 ●文化委員会 ●図書委員会 ●放送委員会 ●整美委員会 ●生活委員会生徒会
●生徒会会長 ●生徒会副会長 ●書記 ●会計 ●学級委員会 ●代表委員会学級役員
●学級委員長︵男子・女子。以前は室長・副室長︶ ●書記 ●会計クラブ
運動部 ●野球部︵男子︶ ●ソフトボール部︵女子︶ ●バスケットボール部︵男女︶ ●硬式テニス部︵男女︶ ●バレーボール部︵女子︶ ●剣道部︵男女︶ ●水泳部︵男女︶ ●卓球部︵男女︶ 文化系クラブ ●環境部︵男女︶ ●美術部︵男女︶ ●音楽部︵合唱活動部で男女の部活動だが女子生徒が大半︶学校行事
(一)体育祭 (二)文化祭︵合唱コンクール︶ (三)修学旅行︵東京都方面又は広島県方面︶ (四)自然教室︵四日市市水沢地区自然の家︶ (五)スキー教室︵岐阜県乗鞍岳︶体育祭
●体育祭のチーム分けは、以下の組で構成された団によるチーム区分であった。 (一)1年A組・2年A組・3年A組で構成のA団︵赤色︶ (二)1年B組・2年B組・3年B組で構成のB団︵青色︶ (三)1年C組・2年C組・3年C組で構成のC団︵黄色︶ (四)1年D組・2年D組・3年D組で構成のD団︵緑色︶ (五)1年E組・2年E組・3年E組で構成のE団︵紫色︶合唱
合唱委員会 ●合唱を支援する合唱委員会と合唱をする音楽部が設置されている。 校歌 ●須賀浦海水浴場の松青くの歌詞がある。幾千人の歌詞があるようにかつての昭和時代の戦後期は全校生徒が約1000人︵1学年約350人︶が在籍していた。[4] 生徒会歌 ●虹と雪のバラードの替え歌の青春のバラード。いじめ問題や生徒の悩みを解決するため教師と生徒会が替え歌として作詞した。今僕らが求めるものと富洲原中学校が大切にしたい事柄を最初に歌い、燃え続けろ~青春の時~と大声で伸ばす友情や青春や団結を重視する生徒会歌の﹁青春のバラード﹂がある。 卒業記念CD ●卒業記念CDが卒業生に配布される。合唱コンクールは3年生の最も優秀だったクラスに金賞が授与されて、三泗合唱コンクールに出場する。卒業記念CDには3年生が歌った合唱の青葉の歌・山のいぶき・若い翼は・旅立ちの日に・海の不思議・大地讃頌・十字架の島・ひとつの朝・時の旅人などが保存されている。 1970年代の曲﹁富洲原には住めない﹂ ●1970年代に富洲原中学校出身か富洲原に地縁・血縁がある団塊の世代~しらけ世代の三重県立四日市工業高等学校出身のグループのスヌーピーが歌ったフォークソング。地名の四日市市富洲原︵富洲原町︶とみすはらーと何度も言い私は今日まで生きてきた富洲原の町でと富洲原を紹介する歌詞の﹁富洲原には住めない﹂のCDを出した。[5]通学区域︵四日市市立富洲原小学校区と同じ区域︶
通学地区 (一)富田一色地区 (二)天ヶ須賀地区 (三)松原地区 四日市市内の次の町 ●富田一色地区 (一)富田一色町 (二)富双2丁目 ●天ヶ須賀地区 (一)天ヶ須賀1丁目 - 天ヶ須賀2丁目-天ヶ須賀3丁目-天ヶ須賀4丁目-天ヶ須賀5丁目 (二)住吉町 (三)天ヶ須賀新町 ●松原地区 (一)松原町 (二)平町 (三)富州原町︵富洲原小学校と甚五兵衛町自治会は富田一色地区所属︶ 四日市市立朝明中学校との共同学区
(一)西富田2丁目 - 西富田3丁目
(二)蒔田1丁目 - 蒔田2丁目-蒔田3丁目-蒔田4丁目
(三)松寺1丁目 - 松寺2丁目-松寺3丁目
学校周辺
●四日市市富洲原地区市民センター︵富田一色甚五兵衛町自治会と天ヶ須賀富洲園団地の中間に位置する︶ ●塩役運河跡地の水と緑のせせらぎ広場︵富田一色地区︶ ●須賀浦海水浴場埋め立て地の天ヵ須賀工業団地︵天ヵ須賀新町︶ ●富田一色飛鳥神社︵富田一色地区広小路町︶ ●天ヶ須賀住吉神社︵天ヶ須賀地区北町︶ ●聖武天皇社︵松原地区松原町︶ ●イオンモール四日市北︵松原地区富州原町︶アクセス
(一)近鉄名古屋線の川越富洲原駅から759m。 (二)JR関西本線富田駅から1.5km。 (三)近鉄名古屋線と三岐鉄道三岐線の近鉄富田駅から1.9km[6]。著名な卒業生
●北村知隆︵プロサッカー選手︶ ●小川友幸︵オートバイ選手︶ ●大倉三佳︵女子プロ野球選手︶脚注
(一)^
●1933年︵昭和8年度︶生まれから1935年︵昭和10年度︶生まれの富洲原出身者は四日市市立北部中学校に通学していた。
●吉田千九郎四日市市長による戦後の教育制度改革の四日市市内の学校の統合など統廃合政策による。
(二)^ ﹃ふるさと富田﹄︵四日市市富田地区の文化財保存会が執筆した郷土史の本である︶101ページ
(三)^ 昭和63年度から平成元年度に工事されて1989年︵平成元年︶9月5日に式典が実施された︿地区広報とみすはら19号︵平成元年度号︶より﹀。潤いのある地域性を表現したデザインの鉄筋コンクリートの3階建て。普通教室が各学年にA組〜E組の教室がある合計15個教室と会議室と教育相談室と生徒会室と昇降口が建設された。1990年代に武道館・技術室・更衣室・プール︵女子の生理対策の休憩施設併設︶・校舎付近の排水溝施設・パソコン用教室が完成する。
(四)^ http://www.cty-net.ne.jp/~h-river/kouka.htm
(五)^ http://waga.yokkaichi.org/song.html
(六)^ 四日市市立富洲原中学校の近隣情報 - 学校教育情報サイトGaCCOm
参考文献
- 四日市市史(教育委員会の記述)
- 地区広報「とみすはら」
- 学校教育情報サイトGaCCOm
- 『ふるさと富田』(四日市市富田地区の文化財保存会が執筆した郷土史の本)
- 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌(昭和51年出版)
- 富田をさぐる(中日新聞生川新聞店発行)