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また2006年4月には、同じく鹿児島県の桜島でおこなわれたテント演劇「アリババが四十人の盗賊」(劇団あたまごなし第一回公演)に脚本家・役者として参加、現在は戦時下であるとの認識が繰り返し強調され、戦時下においては演劇をはじめあらゆる芸術に存在意味はないとする[[メタ演劇]]的なテーマを持つその脚本は、現在外山のサイトで全文公開されている。 |
また2006年4月には、同じく鹿児島県の桜島でおこなわれたテント演劇「アリババが四十人の盗賊」(劇団あたまごなし第一回公演)に脚本家・役者として参加、現在は戦時下であるとの認識が繰り返し強調され、戦時下においては演劇をはじめあらゆる芸術に存在意味はないとする[[メタ演劇]]的なテーマを持つその脚本は、現在外山のサイトで全文公開されている。 |
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[[2007年東京都知事選挙]]に﹁ストリートミュージシャン﹂名義で供託金を知り合いより借りて立候補したが、当然ながら﹁落選前提﹂であり、﹁︵もし当選したら︶私もビビる﹂と語り、その戦術は鹿児島でのそれをほぼ踏襲し、﹁九州でともに活動する同志の獲得﹂を主要な目的としたもので |
[[2007年東京都知事選挙]]に﹁ストリートミュージシャン﹂名義で供託金を知り合いより借りて立候補したが、当然ながら﹁落選前提﹂であり、﹁︵もし当選したら︶私もビビる﹂と語り、その戦術は鹿児島でのそれをほぼ踏襲し、﹁九州でともに活動する同志の獲得﹂を主要な目的としたもので[[熊本市]]議選挙にも立候補予定であり、﹁投票日の翌日には九州に帰る﹂と外山は公言している。[[政見放送]]においては、政府転覆を訴え、最期には中指を突き立てるという暴挙に出た。その政見放送がネット上で話題となり、当人も驚いたと話している<ref>[[山崎一幸]] ﹃[http://internet.watch.impress.co.jp/static/yajiuma/2007/03/27/ ﹁私が当選したら私もビビる﹂外山恒一都知事候補の人気動画]﹄ [[インプレス]]、2007年3月27日。</ref>。
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== 外山の「ファシズム」 == |
== 外山の「ファシズム」 == |
2007年4月3日 (火) 11:00時点における版
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外山恒一︵とやま こういち、1970年7月26日 - ︶は日本の政治活動家、前衛芸術家、評論家。
人物
1980年代末に﹁反管理教育﹂の活動家として登場。 当初は戦後民主主義的な穏健左派活動家だったが、急速に立場を先鋭化、﹁子どもの権利条約﹂批准促進運動を﹁左から﹂激烈に批判するなど、既成の反管理教育運動と敵対して孤立。 その後さらに攻撃の対象を単に反管理教育運動のみならず左翼運動総体にまで拡大、1990年代を若き異端の極左活動家として過ごす。 また九州で最初のストリートミュージシャンであり、現在もそれを主な収入の糧とする他、猿岩石ブームのはるか以前から現在まで頻繁にヒッチハイクをおこなうなど、﹁ビートニク﹂なキャラクターとしても知られる。 独特の笑いのセンスを活かした前衛芸術作品︵主にパフォーマンスアート︶もたびたび発表。 文筆家として著作も数冊。 2000年頃、形式上は傷害罪と名誉毀損罪の当事者となり、2年間の獄中生活を経験。獄中で﹁ファシズムに転向﹂し、現在は﹁ファシスト﹂を自称する。活動が多岐にわたり、またその過程で思想的立場を何度か大きく変えているため、その全貌を簡略に紹介するのは極めて困難。毀誉褒貶が激しかったり、存在の重要性に比して知名度が著しく低いのも、そのあたりが原因と思われる。 初期から現在に至るまで、主として九州を拠点に、政治的あるいは芸術的な運動を続けている。 2007年東京都知事選挙に立候補した。 政見放送にて政府転覆を軸とした自説を語り﹁少数派にとっては選挙なんて関係ない﹂と豪語。ではなぜ立候補したのかという問いにはポスターで回答している。 余談だが、まずあり得ないだろうが、政府転覆計画を本格化すると内乱罪︵刑法77条︶に問われる可能性がある︵この罪が適用された例自体第二次世界大戦後1件も無い︶。詳細な活動歴
●1970年、鹿児島県隼人町に生まれる。 ●1975年、福岡県大野城市に移り住んで以来、ほとんどの時期を福岡ですごし、後の活動も主に福岡で展開される。 ●1983年、福岡市早良区の私立西南学院中学校に入学、本人の弁によれば﹁左翼偏向教育と云われても仕方がない同校の雰囲気に無意識の内に影響されるが、それが顕在化するのは卒業後で、在学中はまったくのノンポリ﹂。1980年代後半期
2度の転校と中退
1986年に福岡市西区の私立中村学園三陽高等学校に入学するものの、外山らの代が第一期生だったこともあってか、同校では厳しい生徒管理が行われ、これに反発して職員室へ単身抗議に乗り込むなどの行動が、外山のその後の様々の政治的活動の出発点となる。 中村学園三陽高等学校にはわずか一学期間しか在学せず、同じ1986年9月には鹿児島県姶良郡加治木町の鹿児島県立加治木高等学校へ、さらにその1年後の1987年9月には福岡市南区の福岡県立筑紫丘高等学校と転校を繰り返し、最終的には1988年5月、同筑紫丘高校を自主退学する︵尚、退学後の1988年9月に大学入学資格検定の合格者となった︶。 これらめまぐるしい転校、退学の経緯の背景には、当然、それぞれの高校での生徒管理体制に対する外山の活動がある。最初の高校でのそれをきっかけに、外山の﹁活動家魂﹂が目覚めてしまったためでもあろうが、実際、外山が10代後半を過ごした80年代後半は、1970年代いっぱいまで持続した高校生のそれも含む学生運動や、1980年前後の校内暴力がほぼ抑え込まれた結果、学校における当局側・生徒側の力関係が当局側に一方的に傾き、行き過ぎた校則や体罰などに象徴されるいわゆる﹁管理教育﹂が問題視されはじめ、これに対する抵抗の運動もさまざまに試みられていた時期でもある。反管理教育運動の本格的開始
筑紫丘高校を自主退学して1年も経たない、退学していなければまだ高校生であった1989年1月に、外山は自らの闘争経験を手記としてまとめた﹃ぼくの高校退学宣言﹄を徳間書店から上梓、その地元読者を組織して﹁反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ﹂を福岡市に立ち上げる[1]。 反管理教育運動は、内申書裁判の原告として知られ、現在は社民党議員でもある保坂展人や、現在はジャーナリストとして活動する藤井誠二らの先行世代によって1980年前後から展開され、1980年代半ば頃から一定の盛り上がりを見せ始めており、外山はその最も若い有力な担い手として登場し、その存在が一部に知られはじめたものである。 高校在学中には我流のハチャメチャなやり方で行動していた外山だが、保坂展人が主宰し、当時の反管理教育運動、のみならず辻元清美のピースボートなどとともに当時の若い世代の政治運動の﹁総本山﹂的な趣きを呈していた青生舎の存在を、ようやく高校退学直後に知るに至って、外山は青生舎・保坂展人の強い影響下に入る。全国高校生会議
また、﹃ぼくの高校退学宣言﹄上梓以前の1988年8月、高校生新聞編集者会議を知って参加したことも、外山のその後の活動の展開にとって重要な出来事となる。 高校の新聞部というと、体育部活の成績発表など、学校側の広報協力的なものが多数派を占めるが、お仕着せの﹁学校﹂新聞ではなく、﹁学生︵高校生︶﹂の新聞作りを目指す少数派の連絡組織として、首都圏高校生新聞編集者連絡会議が1978年に発足。顧問教師︵及びOB︶の指導・影響をほとんど受けない現役高校生の自治組織として、代替わりを繰り返し10数年間活動を続けた。 高校生新聞編集者全国会議は同高校生新聞編集者連絡会議メンバーが中心となり、毎年1回、3泊4日で数十名から多い年は百数十名の全国規模の交流会であった。その1980年代前半期のメンバーには後に“社会派エロマンガ家”として知られる山本夜羽音などもいる。 高校生新聞編集者全国会議の実行委員会は、外山が関与し始めた直後の1988年末、討論の中心としてあくまで﹁新聞部活動﹂が必要と考えるグループと、﹁新聞﹂を媒介とすることに必要性を感じないグループ︵﹁新聞﹂を焦点にすることで、﹁新聞部﹂など関係なく社会問題と関わっている高校生の参加が得ずらくなる事を重視︶との間で、議論が合意に達せず、翌年3月の会議は﹁新聞編集者会議﹂﹁全国高校生会議﹂が別個に開催された。 新参の外山も﹁全国高校生会議﹂実行委員会の中心メンバーの一人となる。他に、後に日本サッカー界の異端的なサポーター組織﹁サポティスタ﹂の創設者として知られる浜村真也や、当時の青生舎の最も若い活動家で、現在は保坂展人の議員秘書、外山の﹃ぼくの高校退学宣言﹄と同じくその高校生活における闘争の手記である﹃熱烈的日本少年﹄を1990年に上梓する苫米地真理らが、この創設期の全国高校生会議実行委員会の中心メンバーに含まれている。 全国高校生会議は1991年まで3回、毎年3月末に全国から数十名の高校生︵や中学生、同年代の高校中退者・登校拒否者︶の参加を得て開催されるが、各地で反管理教育運動を担ったり、当時やはり高揚していた反原発運動の参加者であり、1990年前後に、共産党系の民主青年同盟、﹁解放同盟﹂系の部落研、平和教育に熱心な教師お手盛りの高校生平和ゼミナールなどを始めとする既成組織への参加という形でなく、何らかの多少なりとも社会的・政治的な運動に関与していた中高生を、数多く動員することに成功したと考えられる。 その参加者の思想的立場やそれぞれの地元で展開している運動の作風にはかなりの幅があり、過激な者も穏健な者も存在したが、実行委員クラスの中心メンバーの多くが、︵既成の党派には属さずに︶新左翼的な文化教養を嗜んでいたという意味では、70年を頂点とした高校生運動の﹁最後っ屁﹂と位置づけられるかもしれない。 メンバーの中には既出の浜村真也や苫米地真理の他、現在は新進の左派論客として知られる矢部史郎らも含まれ、これら全国高校生会議実行委員会の面々は、その後数年間の外山の主要な同志であったと共に、︵当時の︶保坂展人に象徴される主流派のそれとは一線を画す反管理教育運動の最左派の担い手となってゆく[2]。反管理教育運動の最左派
外山は反管理教育運動開始当初は戦後民主主義を奉じる凡庸な穏健派左翼活動家であったため、他の全国高校生会議メンバーにも強く影響されながら、自身の活動方針や思想的立場を急速に先鋭化させ、︵当時の︶保坂展人を象徴的キャラクターとする既成の反管理教育運動を、中高生自身が闘争の主役であることを否定し、﹁理解ある大人﹂が﹁管理教育の犠牲者である中高生﹂を保護し、﹁代わりに闘ってる﹂運動へと変質したとして激烈に批判、また、圧倒的多数の﹁闘わない中高生﹂の存在は管理教育を支える主要な要素のひとつであるとしてこれに対しても激烈な批判を展開し、﹁生徒批判﹂という既成の反管理教育運動におけるタブーを打ち破った。 また当時、反管理教育運動シーンを席巻していた﹁子どもの権利条約﹂批准促進の課題に対しても、﹁子どもの権利は子ども自身が学校現場で闘って勝ちとるべし﹂﹁条約云々なんて話を中心的なテーマにすると、どう転んでも政治家と法律家が主導する運動にしかなりようがない﹂﹁そんな運動に、せっかく自らの権利に目覚めた中高生たちを動員するに至ってはもう言語道断、自立した子どもたち自身の運動の芽をつむ最悪の方針である﹂などと激烈に批判、一時は確信犯的な管理教育擁護の主張で知られる﹁プロ教師の会﹂に、﹁敵の敵は味方﹂ということか、接近する姿勢さえ見せた。 1980年代は﹁管理教育﹂という言葉が人口に膾炙する半面、教育現場で中高生による抵抗が組織されることは稀︵﹁不良﹂による教師への反抗は除く︶で、主に﹁良識﹂派識者・市民が、言論の場において﹁管理教育﹂の人権侵害ぶりについて論陣を張っていた。 外山の﹁穏健派﹂に対する見解を、その著書で述べている内容から意訳すれば﹃中高生が教育の名の下に、強制を受けているからといって、良識派の大人の力で管理を緩めることには意味が無い。あるべき管理の内容の決定に高校生自身が関与できないのであれば、﹁自由な校風﹂にしろ、﹁管理教育﹂にしろ、高校生に教育を﹁与える﹂という点に良識派も反動教師も変わりない。﹁丸刈りの強制﹂をやめさせることに意味があるのでなく、高校生自身が﹁強制﹂を、受けいれるか受けいれないかを自分の頭で考えることのほうに、よほど意味がある。﹄ これらは本質的には、中学高校の学校空間の諸問題について、﹁学生自身の自治意識の向上﹂を抜きした﹁大人﹂の議論に対し、中高生の側からの、﹁中高生は保護されるべき子供ではないことを、自らの運動で証明して見せよう﹂という宣言であった︵結果的には証明できなかった︶。 また外山らは﹃生徒︵学生︶自身が﹁自己否定﹂的に自らの姿勢を検証すること﹄という方法論とともに知行合一をその作風としていた。クラスでイジメが起きているのに、その現場で何もできないなら、いくら外でイジメ問題に取り組んでいても、イジメを認めているのと同じという見解である︵俗的に言えば﹁自分で責任の採れない能書きを垂れるな﹂という倫理基準︶。これは敷衍されて、反体制的な政治見解を主張しておきながら、実際にそれを行動で表現できないのであれば、体制を受け入れているのと同じだという見解とつながる。 ﹁自己否定的検証﹂と﹁知行合一﹂の重視は、規模は圧倒的に小さいながらもかつての全共闘運動と共通するものであり、実際に当時の全国高校生会議のメンバーは絶版されていた三一書房の﹁反戦派高校生﹂︵70年安保当時の高校生運動の内在論理を言語化した書籍︶を勝手に再販した。 またこうした政治的立場と経験の延長線上に、単に反管理教育運動の狭い枠を超えて、社民化した既成左翼総体を攻撃し、異端的な極左活動家として辛酸をなめる1990年代の外山の運動展開がある。1990年前後の外山が関与した諸運動
1990年前後、反管理教育運動のシーンでは、外山ら全国高校生会議実行委員会メンバーを主要な担い手とする一連の行動がその最左派部分として顕在化したのだが、同様に、当時やはり高揚していた反原発運動では、北海道ローカルながら宮沢直人をリーダーとする﹁札幌ほっけの会﹂という最左派グループが存在し、また1988年から1989年にかけての昭和天皇の危篤から死去に至る“自粛”強要への反撃として開始され、やはり当時の反天皇制運動のシーンで異端的な最左派として存在感を放ち、テーマがテーマだけに徹底的に弾圧されて多くの逮捕者を出し“最後の過激派”とも称された﹁反天皇制全国個人共闘・秋の嵐﹂[3]の闘争もピークに達していた。 これら秋の嵐・ほっけの会・全国高校生会議の三者は相互に刺激しあい、一時期運動の活発化を見せたが、1991年以降には大きな盛り上がりは見られなかった。 理由としては、国家権力による弾圧、また当時の多少なりとも社会派的な問題意識を持つ若者たちの平均値からあまりに突出してしまったことによるさらなる新規メンバー獲得の困難が想像できるが、正確なところはわからない。外山の主宰したDPクラブも1991年5月に解散を宣言、また全国高校生会議も同年3月のそれを最後として以後は開催されなかった。 なおこの過程で、外山は2冊の著作を上梓[4]、また、1990年4月、自ら学校空間の内部に﹁潜入﹂し、当時内紛の余波で一時的に停滞していたDPクラブの活動再建の契機とすると称して、大検合格により大学をはじめとする上級学校への受験資格を得ていたにもかかわらず全日制課程だけが設置されている福岡県久留米市の久留米市立南筑高等学校に﹁19歳の新一年生﹂として入学するといった﹁奇行﹂を演じ、当然のことながら制服を着用して通学していた[5]。外山による90年青年運動論の偏向について
1990年前後の青年運動に関し、ネット上でもっとも長大でまとまった記録が残されているのが外山による﹁青いムーブメント﹂であるがゆえに、その影響力を危惧しこの章を設けた。 外山の個人の資質として、運動の実態を報告するにあたって客観性への目配りが余りにも乏しい。一言で言えば夜郎自大である。 外山はその著述で﹁秋の嵐﹂﹁ほっけの会﹂﹁全国高校生会議﹂を90年アンポの最先端として取り上げるが、当時首都圏で反体制の市民・社会運動を行っていた狭義の活動家が認識していたのはせいぜい﹁秋の嵐﹂で、他2つは全く認知されていなかった。全共闘がよくも悪くも1960年代末の青年文化の象徴であるのは異論は少ないが、外山が3グループを取り上げるのは彼の主観に過ぎない。 1億2千万人の人口を有する日本では、少数派といえども、絶対数としては数多くの左翼的な運動、実践が存在した︵する︶。思想の内容が優れていても、社会的に全く認知されていない実践が数多く存在する。外山による運動の著述には単なる﹁レッテル貼り﹂が多く、活動の実態を事実誤認なく伝えようという配慮にかける。 論考﹁青いムーブメント﹂より引用すると > 高校生新聞編集者会議は、七〇年代後半に成立した、高校の新聞部員たちの合宿討論会である。 > 高校全共闘の末裔たちがまだ闘争を持続している時期であるから、この集まりも、 > 彼ら新左翼の高校生活動家たちによって組織されたものと考えて間違いなかろう 当時の構成員の中には新左翼理論に詳しいもの、三里塚などの活動に関心を持っていた者、集会に参加したものも存在する。ただそれと﹁活動家﹂は等号で結べるものではないし、﹁活動家たちによって組織された﹂は、﹁高校生による、高校生の為の新聞作り﹂を結集軸に活動していた﹁高校生新聞編集者連絡会議﹂の十数年の活動実態のミスリードである。 他にも外山の文章には﹁運動の高揚﹂﹁最左派﹂﹁若い世代の政治的な運動﹂﹁活動家﹂といった言葉が散見されるが、正確に表現しようとすれば、次のとおりとなる。 ●﹁運動の高揚 → 参加者が可能性の広がりを感じた。外部にもそれが伝わっているかは問われない﹂ ●﹁若い世代の政治的な運動 → 動物実験反対から、私服登校まで、確かに広い意味では﹁政治﹂ではあるが﹁政治運動﹂の語感から程遠いものも含む﹂ ●﹁最左派 → 左翼の陣営では一般的に右より左が格好いいものとされるので、単なる自画自賛の言葉。はねかえり﹂ ●﹁活動家 → 活動家としての覚悟を必ずしも持たない、﹃心情反体制﹄の青年も含める﹂ 編者は外山の唱える﹁青いムーブメント﹂の意味を貶める意図は無い。規模や影響力が小さくても、歴史的意義の深い運動は確かにある。だからといって、規模や影響力について、オーバーな表現を用いることは正当化されないはずだ。wikiで、外山恒一について説明する場合、外山の著述は重要な資料となるだろう。 ﹁外山の著述領域は他に文献が少ないこと﹂﹁外山の著述に客観性への配慮が少ないこと﹂から、外山の過剰表現に自覚的であることの必要性は高いと考える。1990年代前半期
初期衝動の持続を糧としてめまぐるしく展開したその反管理教育運動の挫折の結果でもあろうが、1990年代前半は、外山の運動が最も混迷、混乱していた時期である。 その初期︵1991年、1992年︶においては、大きく三つの方向性の異なる活動が並行しておこなわれた。 ●第一は、街頭ライブ運動の、カウンターカルチャー運動としての可能性の追求である。 ●第二は、既成左翼批判の運動である。 ●第三は、自らの1980年代後半の運動の整理・総括の作業である。街頭ライブ運動
街頭ライブとは、いわゆるストリートミュージシャンの活動のことである。 外山は1989年8月に、ふとしたきっかけで福岡市の市街地の中心である天神・西鉄福岡駅前の歩道で、ギターの弾き語りをおこなった。オリジナル曲ではなく、主としてブルーハーツのコピーだったが、ブルーハーツは当時世間の主流とは相容れないと感じるタイプの若者に熱狂的に支持されており︵外山自身ももちろんブルーハーツの熱烈な支持者であった︶、街頭でブルーハーツを演奏するだけで感覚を共有できる同世代が立ち止まって話しかけてきてくれることに気づいた外山は、この年の12月から頻繁にこの活動をおこなうようになる。 路上で弾き語りをする文化は、1960年代のいわゆるフォーク・ゲリラの運動以来、当初の反戦フォーク的な方向性は失われつつも、おそらく1970年代いっぱいくらいまでは持続していたと思われる。しかしこの1989年時点においてはすっかり影をひそめ、福岡市内の私学に通う中学生として通学路の途中である天神周辺を1983年頃からよく知っている外山自身が、福岡でストリート・ミュージシャンを見かけたことは一度もなかったという。全国的にも、例えば東京・新宿のコマ劇場前にストリート・ミュージシャンが頻繁に見かけられるようになったのは1987年頃だという証言がある。 このような経緯から、外山は、福岡ひいては九州における︵現在にいたる流れにおいて︶最初のストリート・ミュージシャンとしても地元では認知されている。 1990年に入ってまもなく、外山のストリート・ミュージシャン活動の場を、西鉄福岡駅前から、若者の飲み屋街である同じく天神の親不孝通り入り口へと移すが、これは外山にとってこの活動が、感覚を共有できる同世代の仲間を獲得するという目的の他に、金払いのいい酔客からの投げ銭を収入源とするというもう一つの目的を持つようになったためであり、次第にむしろこの後者の目的が主となり、いくつかの著作があるとはいえ文筆家として成功しているわけではない外山にとって、ストリート・ミュージシャン活動は、この1990年以来、現在に至るまで一貫してその主要な生活の糧となっている。 さらに時を経て、外山のストリート・ミュージシャン活動がすでに﹁同志獲得活動﹂ではなくほぼ完全に﹁生活の手段﹂と化していた1991年12月頃、急に取り巻きの常連客の若者が増え、彼らが自らもギターを手に同じ親不孝通りのあちこちに立つようになったのが、現在に至る福岡のストリート・ミュージシャンのシーンの始まりだという。 この展開に、外山は俄然情熱を呼び起こされ、このシーンを何らかの政治的・社会的な方向性を持った、つまりカウンター・カルチャー的なものへと成長させるべく、様々に画策したが、それはむしろ、シーンにおいて自らを孤立させる結果に終わったようである。1993年秋頃を境に、外山はこの試みを断念し、以後現在に至るまで、ふたたび﹁単なる生活の手段﹂としてのストリート・ミュージシャン活動を外山は続けている。 ただし、次の﹁既成左翼批判﹂の運動とも深く関係する、1992年8月2日の﹁ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争﹂は、この福岡のストリート・ミュージシャン仲間の協力も得ておこなわれ、またコアなブルーハーツのファンの間で外山は﹁ファンの鑑﹂だと絶賛された。これは福岡の反管理教育運動家をはじめとする既成左翼勢力︵主としていわゆる無党派市民運動の担い手たち︶が、若い世代に人気のあるブルーハーツを招請してコンサートを開き、これを政治利用しようと画策したことに腹を立てた外山が、コンサート当日、大量の抗議ビラを会場2階席3階席から散布、主催者や会場スタッフとの物理的衝突に発展したという事件である。この闘争をクライマックスとする、福岡のストリート・ミュージシャン・シーンの草創期であると同時に最盛期でもあった当時の外山の日記が、のち1993年4月、﹃さよなら、ブルーハーツ﹄として宝島社から上梓されている。既成左翼批判
1990年代前半の外山の既成左翼批判の運動は、上記﹁ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争﹂をはじめとして、いくつかの﹁事件﹂を伴って展開される。 外山が批判の対象とする﹁既成左翼﹂には、共産党や社会党︵当時︶などのいわゆる﹁旧左翼﹂のみならず、いわゆる﹁新左翼﹂や、全共闘やべ平連を源流とするいわゆる﹁無党派市民運動﹂など字義どおりすべての﹁既成左翼﹂が含まれている。むしろ、当時の日本の左翼総体から、先に挙げた秋の嵐・ほっけの会・全国高校生会議の三者を軸とする最左派部分の残党を除外したすべて、と言った方が分かりやすいかもしれない。 ひとり外山のみならず、これらの運動の経験者の中には、鹿島拾市や佐藤悟志、山本夜羽音、宮沢直人らをはじめ、それぞれの視点から既成左翼批判を展開する者が多く登場しているが、外山のそれに顕著な特徴としては、既成の左翼運動総体に浸透しているPC︵ポリティカル・コレクトネス︶的な思考への拒否感がある。外山がこうした問題意識を抱くようになった背景には、反管理教育運動時代に、部落解放同盟系の高校生運動に参加し、その雰囲気に大きな違和感を感じた経験などが存在すると思われる。 反管理教育運動時代の後期から、外山の運動において盛んに用いられるようになった行動形態に、﹁集会粉砕﹂がある。外山の言う﹁集会粉砕﹂とは、外山自身の言によれば、既成左翼の集会に一人もしくは全国高校生会議系の仲間数名で乗り込み、﹁多くの参加者が暗黙の前提としているあらゆるテーゼを疑い、一参加者の立場で盛んに論争を挑む﹂、﹁それだけで主催者側の意図する予定調和の集会は完全に破綻、野次と怒号が渦巻く大混乱に﹂なるというもので、﹁粉砕﹂という強い字面からイメージされがちな暴力的なものではない。大正時代にアナキストの大杉栄が﹁演説会もらい﹂と称してよく行ったという行動形態に似ている。もっとも外山らの側が、集会を混乱させられたことに怒った主催者などの側から暴力的な報復を受けることは︵上記﹁ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争﹂もこれに類するが︶ままあったようである。 しかし、外山の主観によれば、こうした活動の背景には、外山の目には腐敗あるいは堕落したものと見える既成左翼を攻撃することによって、同じように疑問を持ちながらも他に選択肢がないためそれに参加している一部を刺激し覚醒させ、そのことによってもう一度、左翼運動を魅力的なものとして再生させたいという狙いがあったようである。つまり、外山の既成左翼批判運動は、反左翼運動ではなく、あくまでも左翼再建運動として外山自身には位置づけられていたということである。 1990年代前半の外山の既成左翼批判運動においても、上記の﹁集会粉砕﹂戦術はよく採用され、もちろんこうした活動は、既成左翼の中に少数なりとも外山の思想や行動に対する理解者を得ることよりも、とくに地元福岡の既成左翼活動家の間に外山憎悪の感覚を拡大・蔓延させる結果を主にもたらした。自らの活動史の整理と総括
自らの1980年代末の経験を整理・総括するという外山の作業は、1970年代に一部で盛んに言われやがて顧みられなくなった﹁学生運動10年周期説﹂を、外山流にアレンジし直した独自の﹁10年周期説﹂に結実した。当初、トンデモ学説的に受け取られることが多く、実際に細部のよく詰められていなかったこの主張を、しかし外山は頑なに堅持し続け、現在自身のサイトなどで﹁青いムーブメント﹂と題して半ばまで公開されている80年代論においては理論としての洗練がなされるに至り、まだごく一部にではあるがこれを支持、あるいはまじめな検討対象とみなす者も現れはじめている。 またこの作業の過程で、中高生時代からDPクラブ解散までに至る自らの反管理教育運動の全過程を詳述した﹃注目すべき人物﹄が、1992年11月、ジャパンマシニスト社から上梓されている。中森文化新聞
他に1990年代前半期の外山について挙げておくべきは、﹃週刊SPA!﹄の﹁中森文化新聞﹂への頻繁な登場と、﹁反共左翼革命結社・日本破壊党﹂の活動である。 ﹁中森文化新聞﹂は、﹃週刊SPA!﹄の“雑誌内雑誌”のような体裁で、1993年から数年間行われたコラムニスト・中森明夫の連載ページである。中森は、サブカルチャー・シーンで活躍が期待できる有為な後進の人材を発掘することに熱心で、この連載は、中森の目にとまったそれら“カルチャー・スタア”の卵たちを中森の筆で紹介したり、あるいは当人に寄稿してもらいながら、中森が監修していたものである。﹁中森文化新聞﹂への登場がきっかけとなって実際にブレイクした例として、﹃完全自殺マニュアル﹄の鶴見済や、ルポライターの藤井良樹、石丸元章、歌人の枡野浩一らが有名だが、外山も初期の﹁中森文化新聞﹂で中森が強力にプッシュしていた“カルチャー・スタア”の最有力候補の一人であり、連載開始当初から1995年半ば頃まで、同ページに﹁反教育の革命児﹂との触れこみで盛んに登場した[6]。 この時期の外山がいかに中森によって強力にプッシュされていたかは、次第に﹃噂の真相﹄誌の名物連載へと成長した永江朗によるインタビュー・シリーズ﹁メディア異人列伝﹂の第一回目のゲストが外山であることからもうかがい知れる。 外山ら全国高校生会議派の運動がピークを迎えていた時期に、外山が別冊宝島シリーズの﹃子どもが変だ!﹄に寄稿した、﹁子ども自身による反﹃管理教育﹄運動なるものは、ほとんどゲロゲロである﹂と題する異様にテンションの高い一文に、中森が強いインパクトを受けたことが、こうした展開への契機となったようである。 ﹁中森文化新聞﹂への頻繁な登場は、たしかに外山の知名度を、それ以前に比してとくに出版界やサブカルチャー・シーンにおいて格段に上げ、その過程で中野翠、西部邁、水道橋博士といった一部文化人からの絶賛も受けたが、本格的なブレイクには至らず、むしろこの時期の中途半端なブレイクが、とくに熱心にその後の外山の活動をフォローしているわけではない大多数の出版関係者やサブカルチャー愛好者に、外山を﹁過去の人﹂と印象づけてしまう結果をもたらしたきらいもある。日本破壊党
﹁反共左翼革命結社・日本破壊党﹂は、DPクラブ解散以後に新たに知り合った﹁同志﹂数名を組織し、1993年10月に外山が福岡で結成したグループである。 グループ名の冠部分からも読みとれるように︵﹁日本破壊党﹂の部分は、単に当時まだ存在していた﹁日本社会党﹂のパロディで、思想的にそう深い意味はないという︶、同党は﹁反共﹂を掲げる﹁左翼﹂であり、﹁革命﹂を志向する﹁結社﹂である。﹁反共﹂でありながらしかし﹁左翼﹂で、社会改良ではなく根底的な﹁革命﹂を志向しているというのはつまりアナキズムの結社であるということだが、当時の外山はアナキズムを標榜することを頑なに拒絶していた︵現在は当時の自らの立場は結局アナキズムであったことを認めている︶。この時に外山が掲げた﹁反共﹂には、﹁反マルクス主義﹂の意味ももちろんあるが、むしろ﹁反既成左翼﹂のニュアンスが強く、現実に日本に存在するアナキズムの運動の全ては、外山の目には否定すべき﹁既成左翼﹂の一部、少なくともそれに追従する存在と映っていたためだと外山自身は言う。 ちなみに外山は、反管理教育時代の過程で1989年2月頃に﹁入門書を1冊読んで﹂マルクス主義者となり、その末期である1991年5月頃に﹁笠井潔の著作が決定的契機となり﹂マルクス主義を捨てたと書いている。1990年代を通して、外山は笠井潔の強い思想的影響下にあり、笠井に倣ったものであろうが﹁ブランキスト︵ブランキ主義者︶﹂を自称して、アナキストとは意識的に距離を置いた。 日本破壊党は、かつての全国高校生会議などと違い、現実には外山のワンマン・グループであって、1994年夏頃には﹁外山の失恋というショボい事情で﹂活動停滞に陥るほどの、本来ならばとりたてて解説の俎上に乗せるまでもない些細なエピソードにすぎないのだが、しかしその実体にそぐわない大きな﹁事件﹂をいくつか引き起こしているために、無視してしまうわけにもいかない特異なグループである。 破壊党の活動を開始するにあたって、外山は若い世代によるラジカルな政治運動とラジカルな芸術運動の融合をその主要テーマに挙げており、この前後から、外山は自らを単に政治活動家︵あるいは﹁革命家﹂︶であるのみならず、﹁前衛芸術家﹂でもあると自己規定しはじめるようである。 このテーマの実践として、既述した福岡のストリート・ミュージシャンのシーンをカウンター・カルチャー的な方向へ誘導するためにこれに介入していくという試みもおこなわれるのだが、他に1993年11月におこなわれた﹁寺山修司展粉砕闘争﹂がある。これは単に、﹁ラジカルな政治運動とラジカルな芸術運動の融合﹂に賛同する新たな仲間を獲得するために、福岡市内のデパートの中のギャラリーでおこなわれていた寺山修司の回顧展に出向き、そこで勝手に来場者にビラをまいていた結果として突発的におこなわれることになった﹁闘争﹂である。つまり許可なきビラまきをやめさせようとする主催者と、﹁演劇をやってはならない場所で演劇をやった人の業績を賛美するイベントの主催者が、なぜビラまきをやってはならない場所でビラまきを行うことを認めないのか﹂と食い下がる外山ら破壊党メンバーとの言い争いが当然ながら決裂し、主催者が警察を呼ぶに至ったという、ただそれだけの﹁事件﹂である。しかし地元版の﹃読売新聞﹄がこれを﹁寺山修司展でユニークな問題提起﹂と社会面トップで報じるという大げさな展開となる。 破壊党が引き起こしたより重要な﹁事件﹂は、翌1994年7月の﹁公安調査局事件﹂である。 破壊党の活動実態について内偵していた九州公安調査局︵つまり公安調査庁である︶の職員が、そのことの確実な証拠となる内部文書を、こともあろうに外山のアパートの前に落としてしまい、結果として問題の文書は外山の手に渡ることとなり、当然ながら外山ら破壊党メンバーが﹁一体どういうことだ﹂と騒ぎ立てた事件である。 これはもちろん、上記﹁寺山修司展粉砕闘争﹂よりも格段に大きく地元メディアで報道されたが、そもそも外山が地元の既成左翼、つまりこの種の問題に敏感ないわゆる﹁人権派﹂の活動家たちから憎悪され、その協力や支援を得られない状況があったためであろう、事件の重大さに比してあまりにも世間に広く知られないままとなってしまっている。1990年代後半期
福岡版だめ連
そもそも既述のとおり、﹁外山の失恋というショボい事情で﹂、1994年夏頃にはふたたび停滞しはじめていた外山の活動だが、1995年に入るなり、さらに外山は身動きのままならない状況へと陥る。 1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が発生し、このいずれもが以後の外山の活動の展開に濃い影を落とすこととなった。 震災の翌日には数名の仲間と共にヒッチハイクで現地へ﹁物見遊山﹂に出かけたものの、それと入れ替わるように続々と現地入りし始めたボランティアの若者たちの姿に外山は困惑し、やがて自らが﹁ヒューマニズムへの反感が行き過ぎてすっかりグレてしまっていたのだ﹂との﹁反省﹂を意識するに至る。 地下鉄サリン事件では逆に、オウム信者に対して微罪逮捕や別件逮捕を繰り返す警察のやり口や、それをむしろ後押しするようなメディアの論調や世論の傾向に強い危機感を抱き、﹁監視社会化﹂﹁警察国家化﹂が今後急速に進行していくに違いないとの認識から、これに対する抵抗運動を志すが、そもそもすでに外山は圧倒的に孤立した異端的極左活動家となっており、共闘を呼びかける相手も、また仮に呼びかけたとしてもそれに応じるであろう相手も周囲に想定できず、いよいよ外山は行き詰まってしまうのである。 このような状況下で外山は、東京の最盛期の﹁だめ連﹂の活動と出会う。 その素朴かつ﹁ダサカッコいい﹂作風に強烈にインスパイアされた外山は、これを福岡に﹁輸入﹂することを決意、幾度もの挫折を繰り返しながらの﹁福岡版だめ連﹂の試みが、1990年代後半期の外山の活動の主軸となる。 1990年代半ばの首都圏では、だめ連の他にも、フェミニズム運動に屈服しこれに呼応する男性側の運動の側面が強かった従来の﹁メンズリブ﹂運動の限界を突破し、﹁男らしくない﹂男たちの自己解放運動の側面を強く打ち出した﹁メンズリブ東京﹂の運動も盛り上がり始めており、さらに1990年代後半に入ると、﹁銭湯料金の値上げに反対するとともに、行政による銭湯業者の保護を要求する﹂という﹁銭湯的労働者協会﹂︵反管理教育運動時代の外山の﹁同志﹂の一人でもある矢部史郎が、山の手緑とともに結成︶や、学生会館の建て替えや学費値上げに反対するという従来からのオーソドックスな学生運動のテーマに、従来とはまったく異なる斬新な切り口と作風で取り組む﹁法政大学の貧乏くささを守る会﹂などのより先鋭的な運動も登場してくる。 外山の主導による﹁福岡版だめ連﹂の試みは、単にだめ連のみでなく、これら外山の注目する首都圏の新しい運動が提示するレトリックや作風をすべて総合した上で、さらにこれまでの外山自身の﹁既成左翼批判﹂のモチーフや、現前しつつある﹁監視社会化﹂﹁警察国家化﹂への抵抗という新しいモチーフをも織り込んだ、ほとんどオリジナルの運動と化し、むしろ﹁元ネタ﹂であるはずのそれら首都圏の運動の担い手たちからは異端視されるほどの奇怪なものとなる。 外山は後に、一連の﹁福岡版だめ連﹂の試みについて、当時はそのモチーフをうまく言語化できなかったと断りながら、自身が追求していたのは﹁自警団化する社会から身を守るための自警団﹂﹁自警団から身を守るための自警団﹂だったと振り返っている。 またこの試みの過程で、外山は﹁前衛芸術家﹂としての活動もさらに前面に押し出し、相田みつをの文字を切り貼りして無意味な﹁格言﹂を“偽造”する悪意のパロディ﹁ぺりかんだもの﹂や、﹁無職青年社社長︵無職︶﹂を名乗りその﹁社歌﹂として発表した替え歌メドレー﹁青年は仕事をやめる﹂など、首都圏や九州のアングラ芸術シーンの一部に絶賛される傑作を次々と手がけている。﹁前衛芸術党・棄権分子﹂の﹁公認候補﹂として福岡県知事選に﹁無届立候補﹂し、棄権を呼びかけるステッカーを福岡市内の電柱などに貼ってまわり、﹁当選﹂した現職の麻生渡知事の得票数よりも、棄権した有権者の数の方がずっと多いことを根拠に、﹁本当に多くの支持を集め、当選したのは私だ﹂とのロジックで、﹁新人・外山氏が圧勝﹂などの文字が躍る﹁号外﹂を西鉄福岡駅構内に勝手に貼り出すという1999年4月の﹁投票率ダウン・キャンペーン﹂も、この時期の外山の﹁前衛芸術運動﹂の一つであると同時に、近年の外山が取り組む特異な選挙運動の先駆的形態でもある。 他にこの1990年代後半期、外山は上記﹁銭湯的労働者協会﹂の矢部史郎、山の手緑や、﹁だめ連﹂周辺から登場し後に新進の左派論客として注目を浴びる酒井隆史、丸川哲史、さらにやはり古くから﹁同志﹂的関係にある元﹁秋の嵐﹂の鹿島拾市らを主要メンバーとして、ヒットチャートから社会情勢を読み解くという座談会企画、﹁ヒット曲研究会﹂を主宰し、この様子をそのままテープ起こしした﹃ヒット曲を聴いてみた﹄を1998年4月、駒草出版から上梓している︵さらに付言すれば、1990年代初頭までの、それまで単行本に収録されていなかった論文やエッセイをまとめた﹃見えない銃﹄が、1995年12月に出版研から上梓されている︶。マイ・マジェスティ事件
1999年3月、外山は当時交際していた、福岡版だめ連の主要メンバーでもあった女性を、別れ話のもつれから殴打し、これを﹁女性差別事件﹂︵ドメスティック・バイオレンス︶と捉えて、長年にわたり﹁同志﹂的な関係にあったはずの上記﹁銭湯的労働者協会﹂の矢部史郎と山の手緑らが、外山糾弾・追放の闘争を福岡版だめ連内部に組織するという形でこの﹁問題﹂に介入、これを契機として外山と矢部・山の手は﹁同志﹂関係を解消、福岡版だめ連の試みも内部の人間関係の崩壊から頓挫した︵外山は翌2000年3月、山の手緑をその東京の運動拠点アパートに侵入して殴打するという﹁報復テロ﹂事件を引き起こしている︶。 この過程で、外山は精神を病んだと自己規定して精神科に通院し始め︵﹁悪いのは自分ではなく社会なのだから、自分がクスリを飲んだりしても意味がないと思い﹂、やがて通院をやめたという︶、また殴打した交際相手ともまもなく別れたまではいいものの、身に覚えのない﹁ストーカー行為﹂の濡れ衣を着せられて警察に出頭を求められ、濡れ衣であるためにもちろん証拠がなくこの﹁ストーカー事件﹂を立件できず、しかし外山への疑惑を払拭できない警察は先の殴打事件について傷害容疑で外山を起訴、元交際相手の女性もこれに協力し、民事でも外山を提訴、地元福岡の既成左翼運動が女性の支援に回るなど、外山はいよいよ身動きのままならない厳しい泥沼的状況に追い込まれていく。 ここに至って外山は﹁福岡版だめ連の試みは挫折した﹂との認識を表明するが、実際にはその真の価値を体現する重要な試みは、ここから始まった。 というのは、政治的な意味での裁判支援は全く得られないと観念した外山は、裁判闘争を前衛芸術運動として展開するという破天荒な戦術を選択、傍聴を呼びかけるビラをまるで演劇公演のそれであるかにデザインし、主に地元の芸術シーンを対象に情宣、法廷でも﹁傍聴人を楽しませるための﹂パフォーマンスを繰り返したのである。当然ながら法廷内外で発表される外山の陳述や文書は、内容面では﹁反PC︵ポリティカル・コレクトネス︶﹂や﹁既成左翼批判﹂、そしてDVやストーカーといった﹁民事﹂への介入がなし崩し的に進行することによる﹁警察国家化﹂への懸念などの問題意識に貫かれ、つまりこの一連の裁判闘争︵外山はこれを﹁マイ・マジェスティ闘争﹂と命名︶において、外山がその福岡版だめ連の試みに込めようとしたすべてのモチーフが統合して表現されたのである。外山を少なくとも心情的に支持する立場からの裁判傍聴者も続々と現れ、裁判闘争にかこつけて外山が開催した大小無数の﹁交流会﹂は、ある意味では外山が追求した福岡版だめ連の高揚がここにおいて真に実現したものと言いうる。 等と、長々と自己弁明の駄文を綴っても、女を平気で殴り警察沙汰になるような粗暴な人物であることは、疑いのない事実である。2000年代
実刑判決
既述した外山の交際相手殴打事件をきっかけとする﹁泥沼﹂状況は、1999年から2000年にかけて進行し、外山を被告とする傷害容疑での刑事裁判、およびこれと並行する民事裁判は、実際にはそれぞれ2001年2月と3月に福岡地裁で初公判が開かれ、本格的にスタートする。 外山が法廷で繰り広げたパフォーマンスは、双方の法廷の裁判官らを激怒させ、その結果、刑事裁判では同年8月に懲役10ヶ月の実刑判決が、民事裁判では外山に100万円の賠償命令が言い渡され、通常の意味ではいずれも外山の完全敗訴となる。一審で﹁思いつくことは全部やり尽くした﹂外山は、以降は裁判闘争への興味を失い、ルーティンに控訴、上告を行った末にこれらの一審判決を確定させる。獄中生活
結局、外山は2件の判決での計1年半の懲役期間と、名誉毀損容疑で逮捕されてから傷害容疑での判決が確定するまで、および傷害での服役を終えてからまだ続いていた名誉毀損での裁判が終わりその判決が確定するまでの二つの未決勾留期間を合わせ、ほぼ2年間に及ぶ初めての投獄を経験し、2004年5月5日、福岡刑務所を満期で出所した。 この獄中生活の丁度中間の時期にあたる2003年5月頃、外山は﹁ファシズムに転向﹂し、ついに自らを﹁左翼﹂の枠内に位置づけることをやめた。1995年のオウム事件以後の社会状況を、日本版の﹁まったく新しい戦争﹂︵対テロ戦争︶であり、以後現在に至るも日本は戦時下にあるとの認識を表明している外山は、﹁私はつまり、戦時下の思想犯﹂、﹁そのような立場に置かれた身にいかにも起こりそうなこと﹂などと自らの﹁ファシズム転向﹂を自嘲的に語りもするが、外山の標榜する﹁ファシズム﹂思想の内実については項を改める。 名誉毀損裁判がまだ続いており、外部との交渉に支障をきたしかねない言動を慎まざるをえなかった傷害での服役期間については忍従してこれに応じた外山であるが、もはやいずれにしても外部との連絡が認められない名誉毀損での服役期間である最後の8ヶ月間では、外山はその初日に判決を不当として課せられた一切の刑務作業の拒否を刑務所側に通告、実際、刑務作業には一切手をつけなかった。当然これは刑務所における﹁懲罰﹂の対象となり、外山は約1ヶ月間の﹁軽へい禁﹂罰を言い渡されるが、そもそも実刑判決そのものが不当なのであり、それを拒否したことへの懲罰も必然的に不当であるとして、懲罰も拒否、つまり朝から夕方まで監視孔に面して座れとの命令も退けて、懲罰の一環として寝具や洗面用具以外の所持品︵とくに本や書類、そして筆記用具︶を没収されたほとんど何も無い独房︵新聞の閲覧もラジオの聴取も懲罰期間中は完全に禁止である︶で、自由に寝そべるなどの反抗的姿勢を崩さなかった。このためこの8ヶ月間は、そのすべてが﹁懲罰﹂と﹁︵次の懲罰の期間を決定するための︶取調べ﹂に当てられた。 ﹁取調べ﹂に相当する期間以外は本も筆記用具も所持しえないはずであるが、外山は何らかの方法でこれらを隠し持ち、﹁懲罰﹂期間中も読書や執筆に励んだという。 外山のサイトに現在途中まで発表されている自伝兼1980年代論である﹁青いムーブメント﹂の冒頭二百数十枚分はこの﹁懲罰﹂期間中に﹁隠し持った紙に隠し持ったシャープペンシルの芯で﹂書かれたものだという。 また同様の方法で書きとめられたものを多く含む、外山の獄中連作短歌﹁百回休み﹂は2005年の角川短歌賞で応募作624篇中33篇の予選通過作品の一つとなっている。出所後の活動
Template:節現在進行 出所後の外山は、獄中で構想したファシスト党﹁我々団﹂の建設を活動の主軸におきながら、現在に至る。 この間、まず出所したその2004年暮れ、獄中手記や、獄中で獲得した﹁新思想﹂の開陳を含む新しい著作﹃最低ですかーっ!外山恒一語録﹄を不知火書房より上梓。 2005年11月には、鹿児島県霧島市議選︵隼人選挙区︶に﹁政府転覆﹂を公約として立候補、大方の予想どおり最下位で落選したが、実際には有効投票の150分の1の得票をしており、これを現在外山が立候補を表明してる東京都知事選について、前回の有権者数と投票率で換算すると約3万票の得票であり、その戦術に比してあながち﹁惨敗﹂とも言えない。 また2006年4月には、同じく鹿児島県の桜島でおこなわれたテント演劇﹁アリババが四十人の盗賊﹂︵劇団あたまごなし第一回公演︶に脚本家・役者として参加、現在は戦時下であるとの認識が繰り返し強調され、戦時下においては演劇をはじめあらゆる芸術に存在意味はないとするメタ演劇的なテーマを持つその脚本は、現在外山のサイトで全文公開されている。 2007年東京都知事選挙に﹁ストリートミュージシャン﹂名義で供託金を知り合いより借りて立候補したが、当然ながら﹁落選前提﹂であり、﹁︵もし当選したら︶私もビビる﹂と語り、その戦術は鹿児島でのそれをほぼ踏襲し、﹁九州でともに活動する同志の獲得﹂を主要な目的としたもので熊本市議選挙にも立候補予定であり、﹁投票日の翌日には九州に帰る﹂と外山は公言している。政見放送においては、政府転覆を訴え、最期には中指を突き立てるという暴挙に出た。その政見放送がネット上で話題となり、当人も驚いたと話している[7]。外山の﹁ファシズム﹂
外山の掲げる﹁ファシズム﹂思想なるものは、一般にイメージされるそれとはずいぶん異なっているが、外山によればその一般的なイメージの方がむしろ戦後、アメリカとソ連という二つの戦勝国の双方が利害一致して流布させた誤解に基づくものであり、外山の掲げるファシズムこそが本来のそれなのだという。ただし外山のファシズムは、ヒトラーのナチズムとは内容を異にする、そもそものオリジナルであるムソリーニのファシズムを下敷きとしたもので、しかもそれにさらに外山なりの改良を加えたものだという。 外山は自身の﹁ファシズム﹂について、﹁極左思想経由の極右思想﹂、﹁民主主義勢力と国家権力とが強力に結びつき、いよいよ自由が死の瀬戸際にまで追い詰められた時に、劇的な逆転を企図する自由主義者のアクロバットであり、怒りの爆発﹂、﹁ある立場Xが、左翼と連帯関係にある時にはアナキズムと呼ばれ、右翼と連帯関係にある時にはファシズムと呼ばれる﹂、﹁左翼と国家権力とを同時に敵とみなし、右翼と連帯してこれに対峙するという立場﹂などとさまざまのレトリックで説明しようとするが、現状ではそのエッセンスが表明されるにとどまり、全貌については外山の今後の活動の展開を待つしかなさそうである。外山の﹁異色﹂さについての考察
外山の9冊の著作︵文末参照︶は、同時代の反体制の立場にたった刊行物と比較すると、その独自性が印象深い。この背景には外山が行った運動の独自性が関係しているように思われる。 全共闘運動の敗北以降も、現在に至るまで、大学における学生運動︵新左翼セクトによるもの、無党派によるものいずれも︶はひらすら縮小再生産を繰り返しながらも存続している。ただそれらの世代交代は先輩による後輩のリクルーティングが大きな要素を占める。大学以外を舞台とした社会運動も、運動未経験者を中心で成立しているものは少ない。勿論外山も新左翼文化圏の空気を吸っていたわけだが、彼の運動圏には、同年代の同志は大勢いても、先輩が存在しなかった。︵唯一、秋好悌一を師と仰いでいたが、外山とは同一の運動を展開したことはない︶ 外山は﹁先輩の指導﹂があれば簡単に避けられる、﹁失敗する事が容易に想像できる愚行﹂を、これでもかこれでもかと度重ねている。頭で﹁行動の説得力の強弱﹂を理解するのと、身をもって﹁行動の説得力の強弱﹂を理解するのでは、後者のほうが﹁行動の説得力﹂についての骨身に染みた知見を得る事ができる︵これを否定的に見れば、﹁いつまでもお山の大将をやっている﹂と切り捨てることも可能であろう︶。 外山の半生は﹁独りよがりの正当化﹂の歴史の印象を受けるやもしれないが、彼の主観的立場に立てば、自分の行動︵結果的に説得力を持てなかったことを含め︶を﹁自己否定﹂的に検証し続けた結果=最終的にファシズムに至ったと理解することもできる。 同時に徹頭徹尾、﹁自前の﹂﹁手作り﹂の思想であることが、︵その正誤は別として︶社会常識から大きくかけ離れた主義を主張をする上で、外山の自信となっていることは想像に難くない。その他
なお、本人はウィキペディアの本稿記事について、事実誤認や悪意に基づく記述が為されていた時期に、批判的な姿勢を示した事がある[8]。 ウィキペディアに限らずネットにおける活動全般に懐疑的であり、﹁私はそもそも現在、自分のサイト以外に文章を投稿したりすることはほとんどありません﹂と明言している[9]。著書
- ぼくの高校退学宣言 1989年1月 ISBN 4195538491
- ハイスクール「不良品」宣言 反管理教育中高生ネツトワーク・DPクラブの顛末 1990年6月 ISBN 4906082343
- 校門を閉めたのは教師か 神戸高塚高校校門圧殺事件 1990年11月 ISBN 490608236X
- 注目すべき人物 1970年生まれの「同世代」批判 1992年11月 ISBN 4880491020
- さよならブルーハーツ 1993年4月 ISBN 4796606076
- 見えない銃 1995年12月 ISBN 4879690651
- ヒット曲を聴いてみた 1998年4月 すると社会が見えてきた ISBN 4906082467
- 最低ですかーっ! 外山恒一語録 2004年12月 ISBN 488345066X
関連項目
外部リンク
脚注
(一)^ 正確には、同グループは外山の高校退学と同時にまず外山一人で﹁結成﹂され、地元福岡の複数の高校前や駅前などで単身ビラまきを続けるなどして徐々にメンバーも獲得されはじめていたものが、本の出版を機に一挙に拡大、またその印税をもとに、福岡市南区に1DKの﹁事務所兼たまり場﹂も設けられたものである。
(二)^ 外山らと作風を異にした全国高校生会議の参加者には、当時は﹁子どもの権利条約﹂批准促進運動の若い担い手の一人で、後に数回国政選挙に出馬して知られる菅源太郎らがいる。
(三)^ 見津毅、高橋よしあき、太田リョウをはじめ、山本夜羽音、佐藤悟志、鹿島拾市ら、多彩な顔ぶれの若者グループであった。
(四)^ ﹃ハイスクール﹁不良品﹂宣言﹄、﹃校門を閉めたのは教師か﹄。いずれも版元は駒草出版。前者は穏健派から過激派へと徐々に立場を移していく外山の反管理教育運動前半期にリアルタイムで書かれた文章をまとめたもの、後者はすでにシーンで最左派となっていた外山らが1990年7月に起きた兵庫県立神戸高塚高等学校・校門圧死事件に関連して行った特異な運動の記録。
(五)^ 翌1991年4月にまたもや自主退学。尚、一時期は福岡県下初の単位制高校として高い人気を集めている福岡市博多区の福岡県立博多青松高等学校を再受験するという噂もあった。
(六)^ ﹁反教育﹂は、管理でない教育などそもそもあり得ないとの﹁ラジカルな認識﹂に達した外山が、その反管理教育運動の後期に、﹁反管理教育﹂のスローガンに代えて使用しはじめたものである。
(七)^ 山崎一幸 ﹃﹁私が当選したら私もビビる﹂外山恒一都知事候補の人気動画﹄ インプレス、2007年3月27日。
(八)^ “Wikipediaとか”. 外山恒一 ( エラー: year に﹁年﹂の漢字は付けないでください。月や日まで含める場合や﹁年﹂の漢字を付ける必要のある場合は year を使用せず date に記入してください。). 3月17日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
前衛政治家・外山恒一 ブログ
(九)^ ファシズムへの誘惑 ︵トップページでの注意書き︶