大御食神社
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大御食神社 | |
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![]() 大御食神社正面 | |
所在地 | 長野県駒ヶ根市赤穂11475番地 |
位置 | 北緯35度43分24.8秒 東経137度56分53.9秒 / 北緯35.723556度 東経137.948306度 |
主祭神 |
日本武尊 宮簀媛(五郎姫) 八幡大神 |
社格等 | 旧郷社 |
創建 | 不明 |
本殿の様式 | 三間社流造 |
別名 | 美しの杜(通称:美女ヶ森) |
例祭 |
祈年祭:4月15日 例大祭:9月21日/22日(平成17年から直近の休日) |
大御食神社︵おおみけじんじゃ︶は、長野県駒ヶ根市赤穂にある神社である。
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大御食神社 拝殿
大御食神社の創建は、神社蔵の﹁美しの杜社伝記﹂によると、
大足彦忍代別天皇の御代四十八年︵よそじまりやとせ︶、御食彦御蔭の杉の木の下︵もと︶御安楽居︵みやすらい︶しその仮宮を神の御殿︵みあらか︶に見立て、日本武尊を祝い祀りて大御食ノ社︵おおみけのやしろ︶と御名を附け奉りき。
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美しの杜︵美女ヶ森︶
とあり、日本武尊が当地に立ち寄った際に饗応した里長が﹁御食彦︵みけつひこ︶﹂の名を賜り、後に日本武尊を祀った当社を創建したものという。118年︵景行天皇48年︶の創建と伝わる。︵神社明細帳では景行天皇58年。︶
建御名方命が愛で、日本武尊が﹁奇び杉なりや﹂と誉めた古杉を御神木︵御蔭の杉︶としている。︵現在の木は三代目︶
旧社格は 郷社で、現在の本殿建物は元治元年︵1864年︶に建替えられたものである。
別名の﹁美しの杜﹂の名は上記の﹁美しの杜社伝記﹂に﹁宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる﹂とあることによる。
現在氏子らは﹁美女ヶ森︵びじょうがもり︶﹂と呼んでいる。
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阿智氏族系図
●代々宮司を務める社家の阿智祝部︵阿智氏︶は、八意思兼神に始まる神の系譜に繋がるとされる[1]。
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桐板に書かれた﹁美しの杜社伝記﹂
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美しの杜社伝記 解読書
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解読書 大御食神社の御宝
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落合直澄‥日本古代文字考部分
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御影の杉︵三代目︶
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獅子練り
9月21日の例祭︵平成17年から直近の休日︶は、氏子が獅子練りを行う。祭典の中心祭事とされ、毎年、年番耕地の若衆が取り組む。
お練りは、氏子が おかめ・ひょっとこ などと悪魔払いの獅子の機嫌を取りながら神社にお詣りをし、最後に獅子の頭を切り取り奉納する。
この行列に神主は同行せず、祭神三種の名を書いた幣束を捧げた少年三人︵現在は大人︶が裃を着用し、陣笠を頂いて加わっている。
概要
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祭神
●日本武尊 景行天皇48年︵118年︶創祀。 ●宮簀姫 応神天皇38年︵307年︶尾張国造・日本武尊の妻:簀媛姫の父:乎止与(おとよ) の館︵現:氷上姉子神社︶より、熱田ノ宮の草薙ノ剱の御霊代とともに迎えられた。 ●八幡大神 相殿に祀られている。 元慶三年︵879︶石清水八幡ノ宮より迎えられた。歴史
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神社創建まで
倭建命︵日本武尊︶が東国平定の帰路に科野国赤須の里へ滞在した。そのとき赤須の里の長・赤津比古命︵赤須彦︶は御影の杉のもとに仮宮を立て日本武尊を饗した。それにより赤津比古命は日本武尊より御食津彦の名を賜った。また日本武尊は赤津比古命の娘・押媛命を愛で、赤須の里に三夜滞在した。以来、赤津比古命の子孫である神官宅を采女邸︵うねめやしき︶と呼んだ。その後
●久安5年︵1149年︶社殿を建て替え、御遷宮があった。﹁美女森記録﹂ ●大御食神社と赤須彦の館があった場所との間に、現在﹁湯奉︵ゆぶ︶の沢﹂という地名︵小字︶が残っている。慶安二年︵1649年︶の御検地帳にもあり、日本武尊が湯浴みをしたと伝わる。 ●宮田村誌によると、﹁日本武尊が大田切川まで来たとき、大水で渡ることが出来なかったが、一頭の馬が馳せ来たのでその馬に乗って無事川を渡った。古老はその馬を、秋冬はこの原に住み、春夏は西山に住む神馬だと申し上げた。﹂という伝説がある。︵駒ヶ嶽御尋書-天保3年︵1832年︶︶ そのとき日本武尊が腰をかけ休んだという﹁御座石﹂が、宮田村駒ヶ原に文化財として残っている。 ●西行が社家に立ち寄り、書を残している。江戸時代後期の旅行家菅江真澄の随筆﹃すわの海﹄に この書についての記述がある。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f9/Sugisyadenki.jpg/220px-Sugisyadenki.jpg)
神代文字で書かれた社伝記
神社には、神代文字︵阿比留草文字︶で書かれた社伝記が伝えられている。 天明年間に、当時十一棟あった邸宅が焼失、ほとんどの文献は焼失したが、社伝記の写しは火災から免れた。 景行天皇から村上天皇 天暦5年︵951年︶までの およそ840年間が桐板に記されている。 明治7年、松本博覧会に出品された。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/Syadennki1.jpg/220px-Syadennki1.jpg)
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伝承と解読
社伝記は、代々の神主が代替わりの際に神道家吉田家から裁許状を受け、37日間潔斎して開いて見るが 異形の文字で読めなかった。 明治2年正月伊那県庁より管下の諸社に、社の由緒を書き上げ提出せよとの令があり、社伝記を持参した。 当時、伊那県庁を訪れていた落合直澄︵通称一平、伊那県判事・落合直亮の弟︶が解読した。 ﹁美しの杜社伝記﹂の奥書に以上の経緯と謝意が記されている。 落合は著書﹁日本古代文字考﹂において、﹃神官小町谷氏を責めて古記録を出させ 意を解釈することができた。是より﹁美女神字世ニ現レタリ﹂﹄と記している。社伝記の名称
●落合は、社伝記を﹁美社神字録﹂、それを解読した自稿を﹁美社神字解﹂と名付けた。 ●昭和11年︵1936年︶、赤穂村︵現駒ヶ根市︶金子金作が﹃美社神字解﹄を出版した。 ●宮崎小八郎は、著書﹃神代の文字﹄︵昭和17年発行︶の中で﹁美社神字﹂と記している。 ●吾郷清彦は﹁日本神学﹂誌上で解読文を紹介し、改めて﹁美しの杜物語﹂と名付けた。また著書﹃日本超古代秘史資料﹄︵昭和51年︶の中で﹃美社神字解﹄を古代和字文献として紹介している。 ●駒ヶ根市誌︵現代編下巻︶では、﹁神代文字社伝記﹂と記す。 ●本縞では﹁美しの杜社伝記﹂︵うつくしのもりしゃでんき︶と表す。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/%E5%BE%A1%E5%BD%B1%E3%81%AE%E6%9D%89.jpg/220px-%E5%BE%A1%E5%BD%B1%E3%81%AE%E6%9D%89.jpg)
祭事
境内社
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文化財
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