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「山内氏」の版間の差分

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=== 備後山内氏 ===

=== 備後山内氏 ===

山内首藤氏は1221年(承久3年)に[[蓮華王院]]領の[[備後|備後国]][[地毗庄]](現広島県庄原市)の[[地頭]]になり、さらに1308年(延慶年)に経俊の曾孫[[山内首藤時通]]の2男通綱の子[[山内首藤通資]]は、領家から地毗庄本郷の年貢徴収を[[地頭請]]により請け負った。通資は、1316年(正和5年)に一族を率いて所領の地毗庄に下向し、本郷を中心に同地で勢力を築いた。この系統は以降、備後山内氏と呼ばれる。[[室町時代]]には守護[[山名氏]]の下で備後の[[守護代]]を務めたが、[[応仁の乱]]以後、山名氏の力が衰えたのに乗じ、備後で独自の勢力を築いた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の当主[[山内直通]]の孫[[山内隆通]]の代には[[安芸国|安芸]][[毛利氏]]に仕え、江戸時代には[[長州藩]]の家老として存続した。

山内首藤氏は1221年(承久3年)に[[蓮華王院]]領の[[備後|備後国]][[地毗庄]](現広島県庄原市)の[[地頭]]になり、さらに1308年(延慶1年)に経俊の曾孫[[山内首藤時通]]の2男通綱の子[[山内首藤通資]]は、領家から地毗庄本郷の年貢徴収を[[地頭請]]により請け負った。通資は、1316年(正和5年)に一族を率いて所領の地毗庄に下向し、本郷を中心に同地で勢力を築いた。この系統は以降、備後山内氏と呼ばれる。[[室町時代]]には守護[[山名氏]]の下で備後の[[守護代]]を務めたが、[[応仁の乱]]以後、山名氏の力が衰えたのに乗じ、備後で独自の勢力を築いた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の当主[[山内直通]]の孫[[山内隆通]]の代には[[安芸国|安芸]][[毛利氏]]に仕え、江戸時代には[[長州藩]]の家老として存続した。




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== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* [[服部秀雄]] 『景観にさぐる中世』(新人物往来社、1995年)

* [[服部秀雄]] 『景観にさぐる中世』(新人物往来社、1995年)

* ― 「地毘庄」『講座日本荘園史・中国地方の荘園』pp144~pp161(吉川弘文館)



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==


2012年9月24日 (月) 01:55時点における版

山内氏
家紋
本姓 藤原北家秀郷流首藤氏流
家祖 山内俊通
種別 武家
主な根拠地 備後国
凡例 / Category:日本の氏族






[1][2]寿2


1221313081213165

4[3]12431[4][5]

2

3

4

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奥州山内氏

奥州に下向した山内氏は、ある一族は戦国時代葛西氏によって滅ぼされ、また別の一族は蘆名氏の家臣となった。

土佐山内氏

戦国大名山内一豊や、幕末の四賢侯の一人でもある山内豊信(容堂)を輩出した土佐山内氏(やまうちし)は、この山内氏の傍流を称している。

系譜

脚注



(一)^ 

(二)^ 

(三)^ 

(四)^ 11243728

(五)^ 

参考文献

  • 服部秀雄 『景観にさぐる中世』(新人物往来社、1995年)
  • ― 「地毘庄」『講座日本荘園史・中国地方の荘園』pp144~pp161(吉川弘文館)

関連項目

外部リンク