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* [[1897年]](明治30年)[[11月30日]] - [[従七位]]<ref>『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。</ref> |
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2019年7月26日 (金) 16:20時点における版
山崎 直方︵やまさき なおまさ、明治3年3月10日︵1870年4月10日︶ - 昭和4年︵1929年︶7月26日︶は、日本の地理学者。高知県生まれ。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば﹁日本近代地理学の父﹂として称えられている。専門は地形学であり、特に氷河地形、火山地形、変動地形の研究を行った[1]。人文地理学でも功績がある[2]。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Grave_of_Naomasa_Yamasaki.jpg/220px-Grave_of_Naomasa_Yamasaki.jpg)
多磨霊園にある山崎直方の墓
1902年には論文﹁氷河果たして本邦に存在せざりしか﹂ [注釈 4]を発表し、日本の氷河地形研究の礎を築いた[2]。またアメリカの地形学者デーヴィスの地形輪廻説を日本に最初に紹介したのも山崎である。1912年に発表されたウェゲナーの大陸移動説は、日本のみならず欧米の研究者の中でも否定的な見解が支配的な中、山崎は率先してこれを評価し日本に導入しようとした重要な人物の一人であった。人文地理学にも敬意を払い、1915年のエルズワース・ハンチントンの﹁文明と気候﹂を日本に紹介した。
しかし山崎の一番の功績は、1925年56歳の時に地理学独自の学術団体として日本地理学会を創設したことである。地学分野の一分野としての地理学から、単独の学問分野としての地理学に成長させたことに大きな功績を残した。また、同年に創刊された理科年表には、地理部の監修者として名を連ねている。さらに、山崎カールの発見や日本の氷河地形研究、日本アルプス研究などでも名高い。
彼の門下生に、地誌学の田中啓爾、地形学の大関久五郎・辻村太郎・多田文男・渡辺光、政治地理学の飯本信之、経済地理学の佐藤弘、集落地理学の綿貫勇彦、地図史の秋岡武次郎、気象学の福井英一郎、陸水学の吉村信吉、地質学の石井逸太郎、人文地理学の佐々木彦一郎・石田龍次郎らがおり[4]、日本のアカデミーな地理学の形成に大きな功績を残した人物も多く、彼の地理学に対する影響力は多岐にわたっている。
1929年に59歳で死去。
経歴
土佐藩士の子として土佐国井ノ口村︵高知市︶で生まれる。18歳の時第三高等中学校︵のちの第三高等学校、京都大学︶予科に入学し、人類学および考古学の研究を行う。[3]。 東京府尋常中学校、第一高等中学校を経て、1895年、26歳の時、帝国大学理科大学︵現東京大学︶で岩石学を専攻し、地質学科を卒業[注釈 1]する。1893年︵明治26年︶東京地質学会︵のちの日本地質学会︶の創立と機関誌﹃地質学雑誌﹄の創刊に関わる。1895年︵明治28年︶、26歳で卒業し、大学院に進学して小藤文次郎指導を受ける。 1897年、28歳の若さで第二高等学校︵現東北大学︶の地質学の教授に就任。文部省から1898年から1901年まで3年間ドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ライン[注釈 2]やペンク[注釈 3]に指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校︵後の東京教育大学、現筑波大学︶の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。1916年には地質学教室の下に地理学科を設置︵日本では京大に次いで2番目︶。地理学に独自の道を築く。この影響により現在でも東京をはじめとした関東エリアの国公立の地理学教室は理学部系統に置かれている事が多い。京大を中心とした関西勢が歴史学教室の元に置かれ、文学部系統に置かれているのと対照的である。これにより関東勢は当初は自然地理学の影響が強かったといわれている。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/76/Grave_of_Naomasa_Yamasaki.jpg/220px-Grave_of_Naomasa_Yamasaki.jpg)
栄典
脚注
注釈
(一)^ 同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者の小川琢治がいる。佐藤伝蔵と同級生
(二)^ J.J.Rein (1835-1918) ボン大学の日本地誌の研究者
(三)^ A.Penck (1858-1945) ウィーン大学の自然地理学および地誌学の研究者
(四)^ 山崎直方﹁氷河果して本邦に存在せざりしか﹂︵PDF︶﹃地質学雑誌﹄第9巻第109号、1902年、361-369頁、doi:10.5575/geosoc.9.361。および山崎直方﹁氷河果して本邦に存在せざりしか(前號の續)﹂︵PDF︶﹃地質学雑誌﹄第9巻第110号、1902年、390-398頁、doi:10.5575/geosoc.9.390。