小川琢治
人物情報 | |
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生誕 |
浅井 琢治 [注釈 1] 1870年6月26日(旧暦:5月28日) 日本 和歌山県田辺市 |
死没 | 1941年11月15日(71歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
両親 |
父:浅井篤(田辺藩 漢学教授) 養父:小川駒橘(元紀州藩士、慶応義塾 地理学教授) |
子供 |
小川芳樹(冶金学者) 貝塚茂樹(歴史学者) 小川環樹(中国文学者) 湯川秀樹(物理学者) |
学問 | |
研究分野 | 地質学 |
研究機関 |
地質調査所 京都帝国大学 |
指導教員 |
小藤文次郎 横山又次郎(東京帝国大学 在学時) |
主な指導学生 |
内田寛一 田中秀作 藤田元春 小牧実繁 |
学位 | 理学博士(京都帝国大学・1909年) |
称号 | 京都帝国大学名誉教授(1930年) |
特筆すべき概念 | 居住地理 |
主な業績 | 自然地理学、地質学、地球物理学を包括した地学体系の確立 |
主要な作品 |
『地質現象之新解釈』 『支那歴史地理研究』 『数理地理学』 |
影響を受けた人物 | リヒトホーフェン |
学会 | 日本地質学会 |
小川 琢治︵おがわ たくじ、明治3年5月28日︵1870年6月26日︶ - 昭和16年︵1941年︶11月15日[1]︶は、日本の地質学者・地理学者。学位は、理学博士︵京都帝国大学・論文博士・1909年︶。京都帝国大学名誉教授[2]。
生涯[編集]
大学卒業まで[編集]
1870年に紀伊国田辺藩︵現‥和歌山県田辺市︶で田辺藩儒学者・浅井篤︵南溟︶の次男として生まれる。満5歳となる1875年、現在の和歌山市に移る。父の私塾の転遷に伴い紀ノ川筋の村々に居住する。学制の制定︵1872年‥明治5年︶後であったが小学校には通わなかった[3]。 1883年、父が有田郡広村の耐久社に招かれた。その縁で書庫に自由に出入りし、そこで多数の漢籍を読むことができた[3]。満14歳となる1884年に和歌山中学校に入学。それまでに﹁四書﹂﹁五経﹂を父親より口授される。在学中、司馬光﹃資治通鑑﹄を読む。しかし、中退して上京した。 1886年、第一高等学校に入学する。1891年に東京での学資が続かなくなったため、元紀州藩士小川駒橘︵旧姓長屋、横浜正金銀行勤務、横浜在住︶の婿養子に入り、小川姓となる。同年、紀州旅行の準備中︵10月28日︶に、濃尾地震に遭遇。名古屋市の惨状を目の当たりにしたのち帰省し、紀南︵湯ノ峰温泉、瀞八丁、潮岬︶を旅行、自然や人文事象を詳細に観察して地学の研究を志すようになる[3]。1892年夏、富士山麓の御殿場で静養中に、同校生徒の内田銀蔵と出会い、共に過ごした。同年、健康回復のため休学する[3]。1893年、同校を卒業し、帝国大学理科大学地質学科に入学する[3]。 1894年、小川家長女の小川小雪と結婚式を挙げる。大学在学中の1895年に東京地学協会から台湾の地誌の編纂を委嘱された。半年以上かけ﹃台湾諸島誌﹄を執筆し、翌年公刊した[3]。1897年、東京帝国大学理科大学︵この年より﹁東京帝国大学﹂に改称︶地質学科を卒業した。大学卒業後[編集]
卒業した年に農商務省に任官し、地質調査所︵現‥産業技術総合研究所地質調査総合センター︶技手となる。1900年にはパリ万国博覧会に日本の出品審査官として参加、万国地質学会議に参加した。この折に、ヨーロッパ各地︵ドイツ、オーストリアなど︶を視察した。このときウィーンの駐在武官と喧嘩をしてサーベルで斬りつけられて負傷、この傷痕は眉間に生涯残っていたという[4]。1904年 日露戦争が勃発すると、大本営付きとなって中国大陸の地質調査を行い、当時としては先進的な炭鉱の露天掘りを提案した。 1908年、農商務省地質調査所を退官、京都帝国大学文科大学教授に就任し、地理学講座を担当した。1909年、京都帝国大学総長の推薦により、理学博士号を取得した。1921年、京都帝国大学理学部地質鉱物学科の初代主任教授となる。1926年には帝国学士院会員に任命された。 1929年、大著﹃地質現象之新解釈﹄を著す[5]。 1930年に京都帝国大学を退官し、名誉教授となった[2]。1941年11月15日に死去。墓所は和歌山市堀止西の万性寺と京都市金戒光明寺にある。研究内容・業績[編集]
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受賞・栄典[編集]
位階 ●1926年︵大正15年︶7月2日 - 従三位[6] ●1930年︵昭和5年︶7月1日 - 正三位[7] 外国勲章佩用允許 ●1910年︵明治43年︶6月10日 - 大韓帝国勲二等八卦章[8]家族・親族[編集]
●父‥浅井篤︵南溟︶は儒学者。 ●長男‥小川芳樹は冶金学者。 ●次男‥貝塚茂樹は東洋史学者。孫︵茂樹の子︶に経済学者の貝塚啓明がいる。 ●三男‥秀樹︵湯川秀樹︶は物理学者。 ●四男‥小川環樹は、中国文学者。 ●五男‥小川滋樹︵ますき︶は、第二次世界大戦で戦病死している。人物[編集]
●多趣味で、何かに興味を持つと、それに関する本を集める癖があった。そのため、自宅は図書館のようであったという。 ●﹁勉強は自主的に行うもの﹂という信念を持っており、強いることは一切しなかった。教え子や子どもらにはいつも﹁学校の成績のために学ぶのは、実に愚かしいことだ。自分が好きな学問を、広くかつ深く学びなさい﹂と言い聞かせたという。 ●京都帝国大学に地球学団を組織し、機関誌﹃地球﹄を主宰。日本列島の地質二重構造説、日本アルプスの低地氷河存在説などを発表した。大学での渾名は﹁雷親爺﹂。晩年は刀剣の蒐集に凝っていたが、その大半は無価値な贋物だったといわれる[9]。著書[編集]
●﹃台湾諸島誌﹄東京地学協会、1896年 ●﹃支那歴史地理研究﹄弘文堂、1928年 ●﹃支那歴史地理研究.続集﹄弘文堂、1929年 ●﹃支那古代地理学史﹄岩波書店、1933年 ●﹃戦争地理学研究﹄古今書院、1939年 ●﹃数理地理学﹄宇宙物理研究会、1948年脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 1891年5月、小川家に養子入り。
出典[編集]
- ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去」『官報』第4460号、昭和16年11月19日、p.586
- ^ a b 20世紀日本人名事典『小川 琢治』 - コトバンク
- ^ a b c d e f 岡田俊裕『日本地理学人物事典 [近代編1]』原書房、2011年 p.185
- ^ 本田靖春 1973, p. 102.
- ^ 巻頭には、象牙板に描いたフンボルトの肖像画を掲げ、続けて2ページ、1800字で、フンボルトの詳伝を書いている(西川治「A・フンボルトと日本 -幕末から昭和にかけて-」/ダグラス・ボッティング著、西川治・前田伸人訳『フンボルト -地球学の開祖-』東洋書林 2008年 379ページ)
- ^ 『官報』第4158号「叙任及辞令」1926年7月3日。
- ^ 『官報』第1090号「叙任及辞令」1930年8月16日。
- ^ 『官報』第8103号「叙任及辞令」1910年6月27日。
- ^ 本田靖春 1973, p. 103.
参考文献[編集]
●湯川秀樹﹃旅人 ある物理学者の回想﹄︵新版︶角川書店︿角川ソフィア文庫﹀、2011年 ISBN 978-4044094300
●松下千恵文、藤井博之絵﹃おがわたくじ﹄わかやま絵本の会︿郷土絵本﹀、2006年。
●本田靖春﹃現代家系論﹄文藝春秋、1973年。