「山本飼山」の版間の差分
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[[1890年]]([[明治]]23年)、東京に生まれる。8歳の時[[自由民権運動]]の壮士であった父を失い、母とともに[[長野県]][[松本市]]にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。 |
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小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け |
小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、[[長野県松本深志高等学校|旧制長野県松本中学]]に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ[[木下尚江]]の思想に関心を示した。15歳の頃、[[日露戦争]]の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、[[早稲田大学]]文学部に入り、[[石川三四郎]]・渡辺政太郎を介して、[[大杉栄]]・[[荒畑寒村]]・[[幸徳秋水]]らの知遇を得、『近代思想』に評論を寄せるようになる。その一方で、[[クロポトキン]]の『[[相互扶助論]]』の翻訳にも着手している。これは未完成のまま終わっている<ref name="山本">『木々高太郎全集』月報 №3より「編集室から」</ref>。 |
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その思想は、無教会派キリスト教より始まり、以後、社会主義・無政府主義・老荘思想・絶対他力本願思想と足早な遍歴を経ている。一方で、明治天皇の病気には深い衝撃を受け、日記によると |
その思想は、無教会派キリスト教より始まり、以後、社会主義・無政府主義・老荘思想・絶対他力本願思想と足早な遍歴を経ている。一方で、明治天皇の病気には深い衝撃を受け、日記によると |
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その早過ぎる死は同世代の青年に深い衝撃を与え、翌大正3年、友人たちの手で『飼山遺稿』が上梓された<ref name="山本"/>。 |
その早過ぎる死は同世代の青年に深い衝撃を与え、翌大正3年、友人たちの手で『飼山遺稿』が上梓された<ref name="山本"/>。 |
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[[木々高太郎]]は小説『笛吹』の中で、彼を登場させ、その思想の一部を紹介している。 |
[[木々高太郎]]は小説『[[笛吹 (小説)|笛吹]]』の中で、彼を登場させ、その思想の一部を紹介している。 |
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* 『笛吹』(『木々高太郎全集3』所載、朝日新聞社刊)より |
* 『笛吹』(『木々高太郎全集3』所載、朝日新聞社刊)より |
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2023年3月27日 (月) 02:03時点における最新版
生涯[編集]
1890年︵明治23年︶、東京に生まれる。8歳の時自由民権運動の壮士であった父を失い、母とともに長野県松本市にある亡父の生家に寄寓。その後、飼山の母は彼が12歳の時に、彼を残して再嫁している。 小学校時代より無教会派キリスト教の感化を受け、旧制長野県松本中学に在学中、キリスト教的社会主義に共鳴し、とりわけ木下尚江の思想に関心を示した。15歳の頃、日露戦争の際に、非戦論の演説をし、停学処分を受けている。その後、早稲田大学文学部に入り、石川三四郎・渡辺政太郎を介して、大杉栄・荒畑寒村・幸徳秋水らの知遇を得、﹃近代思想﹄に評論を寄せるようになる。その一方で、クロポトキンの﹃相互扶助論﹄の翻訳にも着手している。これは未完成のまま終わっている[1]。 その思想は、無教会派キリスト教より始まり、以後、社会主義・無政府主義・老荘思想・絶対他力本願思想と足早な遍歴を経ている。一方で、明治天皇の病気には深い衝撃を受け、日記によると 七月二十三日︵火︶雨-曇。陛下の大患に心痛む。今日は予の誕生日なり。過去に十三年の数奇なる運命を思うて感深し。噫︵ああ︶、この秋は雨か嵐か予測を許さぬ予の前途かな と記されている。 1913年︵大正2年︶、早稲田大学を優等で卒業したが、危険思想の持ち主として職につけず、同年11月5日早朝、大久保で貨物列車に投身自殺した。 その早過ぎる死は同世代の青年に深い衝撃を与え、翌大正3年、友人たちの手で﹃飼山遺稿﹄が上梓された[1]。 木々高太郎は小説﹃笛吹﹄の中で、彼を登場させ、その思想の一部を紹介している。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『笛吹』(『木々高太郎全集3』所載、朝日新聞社刊)より