コンテンツにスキップ

「徳山璉」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 (www2.nhk.or.jp) (Botによる編集)
編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
(5人の利用者による、間の6版が非表示)
56行目: 56行目:

開校したばかりの逗子開成中学校(現在の[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成高等学校]])を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の[[東京芸術大学]]音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の[[武蔵野音楽大学]])の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった[[佐藤千夜子]]のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]から『[[叩け太鼓]]』で流行歌手としてデビュー。翌年には『[[侍ニッポン]]』が大ヒットとなった。その後も『[[ルンペン節]]』や、[[四家文子]]と共演の『[[天国に結ぶ恋|天国に結ぶ戀]]』など数多くのヒット曲に恵まれた。『[[隣組 (歌)|隣組]]』、『[[歩くうた]]』など、[[国民歌謡]]からヒットした曲もある。

開校したばかりの逗子開成中学校(現在の[[逗子開成中学校・高等学校|逗子開成高等学校]])を経て、1928年(昭和3年)、東京音楽学校声楽科(現在の[[東京芸術大学]]音楽学部声楽科)を卒業。武蔵野音楽学校(現在の[[武蔵野音楽大学]])の教師になったが、流行歌手として日本で初めて大スターになった[[佐藤千夜子]]のピアノ伴奏をした縁で、1930年(昭和5年)、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]から『[[叩け太鼓]]』で流行歌手としてデビュー。翌年には『[[侍ニッポン]]』が大ヒットとなった。その後も『[[ルンペン節]]』や、[[四家文子]]と共演の『[[天国に結ぶ恋|天国に結ぶ戀]]』など数多くのヒット曲に恵まれた。『[[隣組 (歌)|隣組]]』、『[[歩くうた]]』など、[[国民歌謡]]からヒットした曲もある。



一方、声楽家としても活躍し、[[ジョルジュ・ビゼー]]のオペラ『[[カルメン (オペラ)|カルメン]]』のエスカミーリョが当たり役であった。[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の『[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]』の演奏にも、バリトン・ソロとして何回か出演している。昭和10年代前半には古川ロッパ一座に入り、『[[ガラマサどん]]』、『[[東海道中膝栗毛]]』などの舞台に出演したり、「シネオペレッタ」と呼ばれた音楽映画にも出演するなど幅広く活躍した。


[[]][[ ()|]][[|]][[9 ()|9]]10[[]][[]]調


レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし『[[○○ぶし]]』『歌ふ弥次喜多』([[古川ロッパ]]と共演)など多数の傑作を遺している。

レコードとして残っているのはほとんどが流行歌だが、明るく軽やかなバリトンで、小節などの「邦楽的」な発声法は全く使われていない。音楽学校出身の歌手としては珍しく、コミック・ソングも得意とし『[[○○ぶし]]』『歌ふ弥次喜多』([[古川ロッパ]]と共演)など多数の傑作を遺している。

62行目: 62行目:

ルンペン([[ホームレス]])・療養所・[[盲学校]]などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は[[双葉山定次|双葉山]]を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。

ルンペン([[ホームレス]])・療養所・[[盲学校]]などへの慰問活動にも熱心で、東京の盲学校で全盲の生徒に自慢の太鼓腹を触らせ、「お相撲になっていたら今頃は[[双葉山定次|双葉山]]を負かしていたかもね」などと笑わせたという話も残っている。



人気絶頂のころの[[1942年]](昭和17年)[[1月28日]]、[[敗血症]]のため死去。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は[[常光寺 (藤沢市)|常光寺(藤沢市)]]。


[[1942]]17[[128]][[]]38[[ ()|]]


== 家族 ==

== 家族 ==


1935[[]]寿1902116-1992518

1925[[]]寿1902116-1992518


妻・寿子は「1902年大阪府生まれ。母は女医。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に入学するが中退し、音楽学校に編入。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し、「徳山寿子のキッチン楽団(坂本も参加)」はテレビ番組にも出演。高校の校歌の作曲や、童謡の編曲も手がけた。また、『モガ』の先駆けとしてもメディアに登場している。92年没。」([[坂本龍一]]『音楽は自由にする』新潮社、2009年.p24)とる。また、「徳山寿子(ひさこ)明治35年11月6日、大阪生れ。しつけの厳しい家庭に育つ。父親から「日本で一番難しい学校へ入れ」と教育を受け、御茶の水女子大学へ入学するが、好きな音楽のために女子音楽学校(現・国立音楽大学)へ転校する。その後、「サムライ日本」や「隣組」のヒットで知られる歌手の徳山璉と結婚。『モガ』(モダン・ガール)の先駆といわれ知られている」(『モダン化粧史 粧いの80年』ポーラ文化研究所、1986年.p72)とる。


寿[[NHK|JOAK]]()寿[[]]寿1902退使寿92[[]]2009.p24

『モガ』の先駆けとしては、「徳山寿子(ひさこ)明治35年11月6日、大阪生れ。しつけの厳しい家庭に育つ。父親から「日本で一番難しい学校へ入れ」と教育を受け、御茶の水女子大学へ入学するが、好きな音楽のために女子音楽学校(現・国立音楽大学)へ転校する。その後、「サムライ日本」や「隣組」のヒットで知られる歌手の徳山璉と結婚。『モガ』(モダン・ガール)の先駆といわれ知られている」(『モダン化粧史 粧いの80年』ポーラ文化研究所、1986年.p72)と紹介されている。



国文学者の[[萩谷朴]]は寿子の弟。([[萩谷朴]]『ボクの大東亜戦争-心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出-』河出書房新社、1992年.p.131)。

国文学者の[[萩谷朴]]は寿子の弟。([[萩谷朴]]『ボクの大東亜戦争-心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出-』河出書房新社、1992年.p.131)。

93行目: 95行目:

* 『[[空の勇士]]』 : 作詞[[大槻一郎]]、作曲[[蔵野今春]]

* 『[[空の勇士]]』 : 作詞[[大槻一郎]]、作曲[[蔵野今春]]

* 『[[国民進軍歌]]』 : 作詞下泰、作曲松田洋平

* 『[[国民進軍歌]]』 : 作詞下泰、作曲松田洋平

* 『[[大政翼賛の歌]]』 : 作詞山岡勝人、作曲[[鷹司平通]]

* 『[[大政翼賛の歌]]』 : 作詞[[山岡勝人]]、作曲[[鷹司平通]]

* 『[[愛国行進曲]]』 : 作詞森川幸雄、作曲[[瀬戸口藤吉]]

* 『[[愛国行進曲]]』 : 作詞森川幸雄、作曲[[瀬戸口藤吉]]

* 『[[愛馬進軍歌]]』 : 作詞久保井信夫、作曲新城正一

* 『[[愛馬進軍歌]]』 : 作詞久保井信夫、作曲新城正一

141行目: 143行目:

[[Category:日本の男優]]

[[Category:日本の男優]]

[[Category:東宝の人物]]

[[Category:東宝の人物]]

[[Category:古川ロッパ]]

[[Category:武蔵野音楽大学の教員 (音楽)]]

[[Category:武蔵野音楽大学の教員 (音楽)]]

[[Category:東京芸術大学出身の人物]]

[[Category:東京芸術大学出身の人物]]

[[Category:逗子開成中学校・高等学校出身の人物]]

[[Category:神奈川県出身の人物]]

[[Category:神奈川県出身の人物]]

[[Category:1903年生]]

[[Category:1903年生]]


2024年6月7日 (金) 12:29時点における版

とくやま たまき
徳山 璉
徳山 璉
徳山璉
生年月日 (1903-07-27) 1903年7月27日
没年月日 (1942-01-28) 1942年1月28日(38歳没)
出生地 日本の旗 日本 神奈川県高座郡藤沢町(現在の同県藤沢市
職業 声楽家バリトン)、流行歌手、映画俳優
ジャンル レコードトーキー
活動期間 1930年 - 1942年
著名な家族 徳山陽 子息
主な作品
侍ニッポン
テンプレートを表示

徳山 璉(とくやま たまき、1903年明治36年〉7月27日 - 1942年昭和17年〉1月28日)は、戦前から戦中に活躍した日本の声楽家バリトン)・流行歌手・俳優。愛称は「徳さん」。

人物・来歴

日の丸行進曲』(1938年)
国民進軍歌』(1940年)

190336727

1928319305

910調

使



19421712838


1925寿1902116-1992518

寿JOAK()寿寿1902退使寿922009.p24

寿35116 801986.p72

寿--1992.p.131






 19305

 : 西 19316

 :  19316

 :  19327

 :  19327

 :  1933(8)

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 西

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 

 : 

 - 

 - 

 - 


[1]

 : J.O.1935

 : J.O. / 1935 - 

 : P.C.L.1936 

 : P.C.L. / 1937

 : 1938 - 

 : 1939

 : 1939


1932228 [2]

19341217 35120

1935324 - 26 [3]

193582 - 16 [4]

注釈

出典

  1. ^ 徳山璉、日本映画データベース、2010年2月6日閲覧。
  2. ^ 増井敬二『日本オペラ史 〜1952』p209
  3. ^ 増井p236
  4. ^ 増井p227

参考文献

  • 増井敬二・昭和音楽大学オペラ研究所『日本オペラ史 〜1952』(水曜社、2003)
  • 国立国会図書館デジタルライブラリー『徳山随筆集』輝光館、1942年

外部リンク