コンテンツにスキップ

「戦艦大和ノ最期」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
31行目: 31行目:

[[文語体]]で綴られた初稿は一日足らずで書かれ、[[1946年]](昭和21年)12月の雑誌『創元』創刊号に掲載される予定だったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[検閲]]で全文削除された。そのため出版刊行は、独立回復後の[[1952年]](昭和27年)8月に[[創元社]]からなされた。この小説が、後の太平洋戦争を描写した小説や映画に与えた影響は大きく、特に天一号作戦を取り上げた作品には、本作の内容を参考として記述されている物も多い。

[[文語体]]で綴られた初稿は一日足らずで書かれ、[[1946年]](昭和21年)12月の雑誌『創元』創刊号に掲載される予定だったが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[検閲]]で全文削除された。そのため出版刊行は、独立回復後の[[1952年]](昭和27年)8月に[[創元社]]からなされた。この小説が、後の太平洋戦争を描写した小説や映画に与えた影響は大きく、特に天一号作戦を取り上げた作品には、本作の内容を参考として記述されている物も多い。



翻訳版は1985年にRichard H.Minear 訳(英題:Requiem for Battleship Yamato)で行わている

英語版は1985年にRichard H.Minear訳(英題:Requiem for Battleship Yamato)が出版さ



== 刊行経緯や反響 ==

== 刊行経緯や反響 ==

『戦艦大和ノ最期』出版(1952年8月)に当たっては、[[河上徹太郎]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の奔走で、[[白洲次郎]]がGHQとの交渉を取り持ち、[[白洲正子]]が、小林秀雄と知り合う切っ掛けともなった経緯がある{{refnest|group="注釈"|[[1946年]](昭和21年)春、小林はこの本の出版のことで、初めて白洲邸を訪問し、白洲正子とも面会する。夏には白洲邸に数日間滞在している。}}。その後さらに改稿され、[[1974年]](昭和49年)に北洋社から出版されたものが決定稿とされている。

『戦艦大和ノ最期』出版(1952年8月)に当たっては、[[河上徹太郎]]、[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]の奔走で、[[白洲次郎]]がGHQとの交渉を取り持ち、[[白洲正子]]が、小林秀雄と知り合う切っ掛けともなった経緯がある{{refnest|group="注釈"|[[1946年]](昭和21年)春、小林はこの本の出版のことで、初めて白洲邸を訪問し、白洲正子とも面会する。夏には白洲邸に数日間滞在している。}}。その後さらに改稿され、[[1974年]](昭和49年)に北洋社から出版されたものが決定稿とされている。



1952年(昭和27年)8月に[[創元社]]から出版された刊行本には、河上徹太郎、小林秀雄、[[林房雄]]、[[三島由紀夫]]、[[吉川英治]]の5が跋文を寄せた。

1952年(昭和27年)8月に[[創元社]]出版された刊行本には、河上徹太郎、小林秀雄、[[林房雄]]、[[三島由紀夫]]、[[吉川英治]]の5が跋文を寄せた。



三島由紀夫の跋文は、短い簡潔な文章ながらも、いつの時代も[[青年]]が抱く「生」の意義、「絶対」との邂逅の希求から、戦艦大和の戦いの持つ[[哲学|哲学的]]な意味を綴っている<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「一読者として」(吉田満著『戦艦大和ノ最期』[[創元社]]、1952年8月)。{{Harvnb|三島27巻|2003-02|p=669}}</ref>。

三島由紀夫の跋文は、短い簡潔な文章ながらも、いつの時代も[[青年]]が抱く「生」の意義、「絶対」との邂逅の希求から、戦艦大和の戦いの持つ[[哲学|哲学的]]な意味を綴っている<ref name="mishima">[[三島由紀夫]]「一読者として」(吉田満著『戦艦大和ノ最期』[[創元社]]、1952年8月)。{{Harvnb|三島27巻|2003-02|p=669}}</ref>。

89行目: 89行目:

*『吉田満著作集』(上・下、[[文藝春秋]]、1986年9月)

*『吉田満著作集』(上・下、[[文藝春秋]]、1986年9月)

; 英訳版

; 英訳版

* Richard H.Minear 訳『Requiem for Battleship Yamato』

* Richard H.Minear([[リチャード・マイニア]]) 訳『Requiem for Battleship Yamato』

:(University of Washington Press、1985年10月) ISBN 0-295-96216-X

:(University of Washington Press、1985年10月) ISBN 0-295-96216-X




2021年1月1日 (金) 10:48時点における版

戦艦大和ノ最期
Requiem for Battleship Yamato
著者 吉田満
発行日 1952年8月
発行元 創元社
ジャンル 戦争文学
日本の旗 日本
言語 日本語
形態 上製本
ウィキポータル 文学
[ ウィキデータ項目を編集 ]
テンプレートを表示



稿19462112GHQ1952278

1985Richard H.MinearRequiem for Battleship Yamato


19528GHQ[ 1]稿197449稿

19522785

[1]


 [1]



1981[2]31[2]

[3]20051747620[4]1967424[4][3]

[4][5][3][4]

[6][4][6][6]

[7][8]姿[7][8][9]


稿稿


1稿稿稿

(一)

(二)

(三)





 19951ISBN 978-4167366094 395-433
W19819

 20057ISBN 978-4480089274 206-251



19498 - 19496

19528

 196711

196872002 ISBN 4-04-128101-6


 311962

 21 19699

稿

19748
  19783

1974197819818

 34198912 ISBN 4-09-568034-2

19948 ISBN 4-06-196287-6
20167



19869



Richard H.Minear Requiem for Battleship Yamato

University of Washington Press198510 ISBN 0-295-96216-X




 1953 




453  1990810


3

注釈

  1. ^ 1946年(昭和21年)春、小林はこの本の出版のことで、初めて白洲邸を訪問し、白洲正子とも面会する。夏には白洲邸に数日間滞在している。

出典

  1. ^ a b 三島由紀夫「一読者として」(吉田満著『戦艦大和ノ最期』創元社、1952年8月)。三島27巻 & 2003-02, p. 669
  2. ^ a b 生出寿 & 1996-12, pp. 312–313
  3. ^ a b c 阿部 & 1994-08, p. 54
  4. ^ a b c d e 栗原 & 2007-08, pp. 182–189
  5. ^ 八杉 & 2015-04, pp. 188–193
  6. ^ a b c 栗原 & 2007-08, pp. 192–193
  7. ^ a b 生出寿 & 1996-12, pp. 339–340
  8. ^ a b 栗原 & 2007-08, pp. 94–95
  9. ^ 阿部 & 1994-08, p. 51


; 200510ISBN 978-4167349042  - 調1975NCID BN09621068

20057ISBN 978-4480089274 

19948ISBN 978-4876022113  20055NFISBN 978-4769824589

寿 NF199612ISBN 978-4769821434 

 19951ISBN 978-4167366094 
pp.343-368

pp.369-394

20078ISBN 978-4004310884 

 27 220032ISBN 978-4106425677 

 ()20154ISBN 4-898-31717-0