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[[社団法人]][[日本犬保存会]]初代[[会長]]。財団法人日本動物愛護協会[[理事長]]。社団法人日本庭園協会[[常務]][[理事]]。[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]]理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。
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[[社団法人]][[日本犬保存会]]初代[[会長]]。財団法人日本動物愛護協会[[理事長]]。社団法人日本庭園協会[[常務]][[理事]]。[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]]理事。世界動物保護連盟日本代表理事。動物友の会代表。空気銃対策協議会代表。ハチ公銅像維持会顧問。
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== 人物 == |
== 人物 == |
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大学卒業後、当初は[[洋画家]]を目指していたが、病気療養中に出会った[[日本犬]]に影響をうけ、当時、絶滅が危惧されていた日本犬の保存活動をする事を決めた。 |
大学卒業後、当初は[[洋画家]]を目指していたが、病気療養中に出会った[[日本犬]]に影響をうけ、当時、絶滅が危惧されていた日本犬の保存活動をする事を決めた。 |
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[[1928年]]5月、[[日本犬保存会]]を立ち上げ日本犬の調査活動を始め |
[[1928年]]5月、[[日本犬保存会]]を立ち上げ日本犬の調査活動を始め、1928年7月、日本犬の調査中に偶然[[秋田犬]]ハチの存在を知る事となる。[[1932年]]10月、弘吉は、[[渋谷駅]]でいじめられているハチを哀れみ、ハチのことを東京[[朝日新聞]]に寄稿した。すると、これが﹁いとしや老犬物語﹂として新聞に載り、一躍有名になったハチは人々から﹁忠犬ハチ公﹂と呼ばれるようになった。その後、[[1934年]]竣工の渋谷駅前のハチ公銅像の製作建立や、[[1959年]]竣工の﹁南極カラフト犬記念群像﹂の製作建立に芸術家として深く関わる。
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[[1948年]]には、社団法人日本動物愛護協会の専務理事を経て理事長に就任した。長年にわたり[[日本犬]]と[[日本狼]]の研究を続けて来た、その集大成とも言うべき著書﹁日本の犬と狼﹂を[[1964年]]に出版する。同年、65年の生涯を閉じた。
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[[1948年]]には、社団法人日本動物愛護協会の専務理事を経て理事長に就任した。長年にわたり[[日本犬]]と[[日本狼]]の研究を続けて来た、その集大成とも言うべき著書﹁日本の犬と狼﹂を[[1964年]]に出版する。同年、65年の生涯を閉じた。
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**8月、日本犬保存会、第一回犬籍簿にハチの来歴を掲載する。 |
**8月、日本犬保存会、第一回犬籍簿にハチの来歴を掲載する。 |
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**秋頃、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]楢原字黒川集落の猟師、飯出庄太郎からチン︵7歳オス︶を譲り受け、この集落近くにある十石峠から名を取り﹁十石号﹂と名付ける。以後、この地域に生息する地犬が﹁[[十石犬]]﹂と呼ばれるようになる。
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**秋頃、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]楢原字黒川集落の猟師、飯出庄太郎からチン︵7歳オス︶を譲り受け、この集落近くにある十石峠から名を取り﹁十石号﹂と名付ける。以後、この地域に生息する地犬が﹁[[十石犬]]﹂と呼ばれるようになる。
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*[[1932年]]9月、 |
*[[1932年]]9月、ハチ(数え年10歳)の写真と履歴を日本犬保存会の会誌「日本犬」第一巻二号に発表する。 |
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**10月4日、渋谷駅で邪険に扱われている |
**10月4日、渋谷駅で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチのことを東京朝日新聞に寄稿した。これが「いとしや老犬物語」として新聞に載り、有名になったハチは人々から「忠犬ハチ公」と呼ばれるようになる。 |
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*[[1933年]]6月、この頃、弘吉と友人であった同じ東京美術学校出身の[[彫刻家]]・[[安藤照]]より、「 |
*[[1933年]]6月、この頃、弘吉と友人であった同じ東京美術学校出身の[[彫刻家]]・[[安藤照]]より、「ハチ公をモデルにして彫刻をつくり、秋の帝展に出したい」と依頼がある。 |
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*[[1934年]]1月9日、 |
*[[1934年]]1月9日、ハチ公銅像建設会が発足し発起人となって募金活動を始める。 |
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**[[3月10日]]、午後5時から[[日本青年館]]で開かれた「 |
**[[3月10日]]、午後5時から[[日本青年館]]で開かれた「ハチ公の銅像建設基金募集の夕」に出席する。 |
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**[[4月21日]]、渋谷駅前にハチ公の銅像が建てられ、除幕式に出席する。 |
**[[4月21日]]、渋谷駅前にハチ公の銅像が建てられ、除幕式に出席する。 |
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**5月、弘吉執筆のハチ事跡概要を、安藤照製作のハチ臥像と共に、[[天皇]]([[昭和天皇]])・[[皇后]]([[香淳皇后]])・[[皇太后]]([[貞明皇后]])に献上する。 |
**5月、弘吉執筆のハチ事跡概要を、安藤照製作のハチ臥像と共に、[[天皇]]([[昭和天皇]])・[[皇后]]([[香淳皇后]])・[[皇太后]]([[貞明皇后]])に献上する。 |
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*[[1937年]]、日本犬保存会が[[文部省]]から社団法人の認可を受ける。 |
*[[1937年]]、日本犬保存会が[[文部省]]から社団法人の認可を受ける。 |
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*[[1942年]]、息子で陶芸家の辻厚成が誕生する。 |
*[[1942年]]、息子で陶芸家の辻厚成が誕生する。 |
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*[[1945年]][[5月25日]]、[[東京大空襲]]で、弘吉の研究室が焼失し |
*[[1945年]][[5月25日]]、[[東京大空襲]]で、弘吉の研究室が焼失しハチ公の[[骨格標本]]などがすべて無くなってしまう。ハチ公像の原型は、安藤照が疎開途中の[[東京駅]]で焼失してしまい、安藤も自宅で焼死する。 |
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*[[1947年]]、この頃、安藤照の息子で彫刻家の[[安藤士]]より、「 |
*[[1947年]]、この頃、安藤照の息子で彫刻家の[[安藤士]]より、「ハチ公銅像再建のため、原型をつくりたいので指導してほしい」と依頼がある。この時造られた試作品の[[石膏]]像が、弘吉の出身地である山形県鶴岡市の藤島庁舎(旧[[藤島町]]役場)に展示してある。 |
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*[[1948年]]、社団法人日本動物愛護協会の理事長に就任する。 |
*[[1948年]]、社団法人日本動物愛護協会の理事長に就任する。 |
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*[[1949年]]、[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]](現日本哺乳類学会)に入会する。 |
*[[1949年]]、[[日本哺乳類学会|日本哺乳動物学会]](現日本哺乳類学会)に入会する。 |
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*[[1952年]]、 |
*[[1952年]]、日本哺乳動物学会委員に就任する。 |
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*[[1953年]]、社団法人日本動物愛護協会が月報「動愛」を発行し編集委員長に就任する。 |
*[[1953年]]、社団法人日本動物愛護協会が月報「動愛」を発行し編集委員長に就任する。 |
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*[[1957年]]、月報「動愛」が「どうぶつの友」と改称され編集委員長に就任する。 |
*[[1957年]]、月報「動愛」が「どうぶつの友」と改称され編集委員長に就任する。 |