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易姓革命︵えきせいかくめい︶は、古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。
概要
天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命︵天命を革める︶が起きるとされた。それを悟って、君主︵天子、即ち天の子︶が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。王朝交代は多くの場合放伐によってなされるが、禅譲の例も見受けられる。ただし、堯舜などの神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を背景とした形式的なものに過ぎないとされる。後漢から禅譲を受けた魏の曹丕は﹁堯舜の行ったことがわかった︵堯舜の禅譲もまたこの様なものであったのであろう︶﹂と言っている。
後漢︵劉氏︶から魏︵曹氏︶のように、前王朝︵とその王族︶が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる︵姓が易わる︶というのが基本的な考え方であり、本来、日本で言われているような﹁単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する﹂ような状況を指す概念ではない。中国においても別姓の養子に皇帝の位を継承した五代の後周や、同姓の皇族によるクーデターで王朝を改めた南北朝時代の南朝斉→梁のような例もあり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。
ほとんどの新王朝の場合は史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調されるが︵有名な桀・紂以外にも、煬帝のように悪い諡号を送られたり、そもそも諡号や廟号を送られない場合もある︶、形式上は明に対する反逆者である李自成を討って天下を継承した清のような場合は、明の末代皇帝崇禎帝を一応は顕彰し、諡号や廟号も与えられている。
このように、易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。またこのような理論があったからこそ朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配をも正当化することが出来たとも言える。これは西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。また、日本では、山鹿素行など江戸時代の学者が﹁易姓革命は結局臣が君を倒すことで、そのようなことがたびたび起こっている中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中華である﹂と唱えた。素行の著﹁中朝事実﹂はそのような思想によって記された日本史の本である。
五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を持っているとされた。たとえば、漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱は、﹁蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉︵蒼天已に死す、黄天当に立つべし、歳は甲子に在りて、天下大いに吉とならん、﹃後漢書﹄71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61皇甫嵩伝[1]︶﹂のスローガンが掲げられた。漢朝は火の徳を持っているとされ、漢朝に代わる王朝は土の徳を持っているはずだとの意味である。
なお、古来漢字文化圏では革命といえば易姓革命のことであったが、近代以降に清教徒革命・フランス革命などレボリューションの訳語に革命をあてたことから区別のため易姓革命と呼ぶようになった︵レトロニムに似た例だが漢魏革命・魏晋革命など王朝の交代を革命と呼ぶ用法も残っている︶。
関連項目
注
- ^ (英語) 後漢書/卷71, ウィキソースより閲覧。