日本型社会民主主義
社会主義 |
---|
概要[編集]
1945年︵昭和20年︶に結成された日本社会党は、結党当初は西欧社会民主主義に通じる右派が優勢だったが、1949年︵昭和24年︶総選挙での大敗北とそれを受けた第四回大会での森戸・稲村論争により、左派優位が確立していった。1955年の両社会党統一後も、この傾向は変わらなかった。左派は、マルクス主義の強い影響下にあった。社会主義協会など日本社会党内左派勢力は、戦前の労農派の流れをくみ日本共産党とも対立関係にあった。いわゆる労農派マルクス主義である。社会主義協会などは、1950年代まではマルクス・レーニン主義には距離を置いていたが、1960年代から急速にマルクス・レーニン主義を志向し自らも名乗った。
評価[編集]
毛沢東は、日本社会党を「世にも不思議な政党である」と呼んだ。
日本社会党を西欧社会民主主義とは異なった社会民主主義としつつ、その相違を肯定的にとらえる分析は清水慎三『日本の社会民主主義』(岩波新書、1961年)から始まった。日本型社会民主主義という用語の直接の初出は、新左翼系の岸本健一(陶山健一)『日本型社会民主主義』(現代思潮社、1966年)といわれるが、岸本も清水の著書に示唆を受けてこの書名を発案したと述べている。
日本社会党自身は、社会民主主義を否定し続けた。1986年(昭和61年)に採択された「日本社会党の新宣言」によって綱領上は西欧社会民主主義政党となったが、西欧型社会民主主義政党への路線変更は中途半端なものに終始し、それ以前に形成された基本政策や運動・組織上の特徴はその後も日本社会党の中で強く残っており、21世紀になってからも新社会党や社会民主党に引き継がれている。
日本型社会民主主義に対しては、清水慎三に代表される肯定的評価と、社会党が高度成長期の新しい社会状況に適応することを妨げ、政権党への脱皮を困難にしたという党外政治学者などの否定的評価が並立している。社会主義協会は、社会党を社会主義政党に強化するという立場から日本型社会民主主義概念に対し評価を避けていたが、近年は社会主義協会内からも日本型社会民主主義を積極的に評価する意見も出されている。[3]