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{{複数の問題|出典の明記=2020年7月|脚注の不足=2020年7月}} |
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'''星野天知'''(ほしの てんち)本名慎之輔は明治時代の評論家・小説家。1862年([[文久2年]])1月10日-1950年9月17日。 |
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{{Infobox 作家 |
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| name = 星野 天知<br>(ほしの てんち) |
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| image = Tenchi Hoshino.jpg |
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| caption = |
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| pseudonym = 星野天知 |
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| birth_name = 星野新之助、のちに、星野慎之輔 |
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| birth_date = [[1862年]][[2月8日]] |
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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1862|2|8|1950|9|17}} |
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| death_place = [[兵庫県]][[芦屋市]] |
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| resting_place =[[鎌倉市]]の[[寿福寺]] |
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| occupation = [[作家]]、教育家、[[武道]]家、[[書道]]家、 |
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| education = [[駒場農学校]] |
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| period = 1891年 - 1938年 |
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| genre = |
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| subject = |
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| movement = 『女学生』、『[[文学界 (明治)|文学界]]』 |
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| notable_works = 『黙歩七十年』 |
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| spouse = (松井)万 |
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| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> |
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| relations = [[星野立子]](長男吉人の妻)<br />[[星野椿]](孫)<br />[[星野高士]](曾孫) |
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| awards = |
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江戸日本橋本町の商家に生れ。[[農科大学]](東京帝国大学の前身)に学ぶ。 |
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| debut_works = 『人生の別離』 |
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明治女学校教師のかたわら1890年(明治23年)女学雑誌社から「女学生」を創刊、主筆。1893年(明治26年)には[[北村透谷]]・[[戸川秋骨]]・[[島崎藤村]]・[[平田禿木]]・[[星野夕影]]らを同人として「[[文学界]]」を創刊主宰。前期浪漫主義文学運動を推進した。のち[[戸川残花]]・[[馬場孤蝶]]・[[上田敏]](柳村)が加わった。「文学界」は同人の他に[[樋口一葉]]、[[田山花袋]]、[[国木田独歩]]、[[柳田国男]]らを客員に迎え、後期浪漫主義を代表する『[[明星]]』に対して前期浪漫主義の拠点となった。初期は透谷の形而上的な評論、中期は樋口一葉の小説や、敏、禿木らの芸術至上主義的評論、後期は藤村の叙情詩によって代表される。1898年(明治31年)1月「文学界」廃刊後は文学から離れた。 |
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'''星野 天知'''(ほしの てんち、[[文久]]2年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]([[1862年]][[2月8日]]) - [[昭和]]25年([[1950年]])[[9月17日]])は、[[明治]]期の[[作家]]、教育家、武道家、のち[[書道]]家。[[文学界 (明治)|文学界]]を主宰し、天為、暗光、破蓮などの筆名も使った。廃刊後文学から遠ざかり、書道に精進した。 |
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== 生涯 == |
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[[江戸]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]本町四丁目(現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋本町]])角にあった砂糖問屋『伊勢源』の主、星野清左衛門の次男に生まれた。本名'''新之助'''。1872年に'''慎之輔'''と改めた。 |
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1867年([[慶応]]3年)(6歳)から、[[寺子屋]]や塾で書道・漢籍・英語などを習い、1873年、通っていた『幼童学所』が[[中央区立常盤小学校|常盤小学校]]に変わってその第6級生になった。1876年、東京女子師範学校附属上等小学校(現・[[お茶の水女子大学附属中学校]])を了え、家業見習いのため進学を諦め、見習うかたわら、塾へ通い、武術に親しんだ。その頃の雑誌『月とスッポンチ』、『親釜集』に戯文や狂歌を寄せた。1883年(21歳)、[[柔術]]と[[剣法]]の免状を得た。 |
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作品集に「山菅(やますげ)」など。星野夕影(夕軒)の兄。妻は松井万。子息の[[星野吉人]]は[[俳人]][[星野立子]]([[高浜虚子]]の次女)と結婚した。 |
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島崎藤村の「桜の実の熟する時」「春」に登場する「岡見」のモデル。 |
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島崎藤村の「北村透谷の短き一生」には次の一節もある。 |
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1886年︵[[明治]]19年︶︵24歳︶、[[駒場農学校]]︵後の農科大学、さらに後の[[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京帝国大学農学部]]︶に入学し、薬草学を専攻した︵生家の﹃伊勢源﹄は、もと薬種問屋だった︶。翌年[[カルヴァン主義|カルヴァン派]][[日本基督教会]][[日本基督教団日本橋教会|日本橋教会]]で、町内の[[平田禿木]]らと一緒に受洗した。1889年、駒場農学校を卒業した。在学中、1歳下の[[巌本善治]]と知り合い、彼の[[明治女学校]]と[[女学雑誌]]社の経営につき、助言していた。卒業の年から、明治女学校で武道・心理学・東洋哲学・漢文などを教えた。
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その頃女学雑誌には星野天知君もかなり深く関係していた。巌本氏は清教徒的の見地から、文学を考えているような人だったから、純文芸に向おうとするものは、意見の合わないような処が出来て来た。星野君の家は日本橋本町四丁目の角にあった砂糖問屋で、男三郎君というシッカリした弟があり、おゆうさんという妹もあり兄弟挙(こぞ)って文学に趣味を持つという人達だったから、その星野君が女学雑誌から離れて、一つ吾々の手で遣ろうではないかという相談を持ち出して、それに平田禿(とく)木(ぼく)君が主なる相談対手(あいて)になり、北村君と私とも雑誌に関係する事になった。そんな風にして出来上ったのが、文学界の始まりだった。 |
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1890年、女学雑誌社が創刊した『女学生』誌の主筆となった。キリスト教系の18の女学校の生徒から、投稿を募る雑誌だった。修身訓話と文学奨励とを毎号に書き、投稿が少ないときは、平田禿木・[[北村透谷]]、[[島崎藤村]]らの作も載せた。 |
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また樋口一葉の「たけくらべ」は天知の依頼によるものだった。1895年(明治28年)1月22日の星野天知一葉宛書簡(日本近代文学館所蔵)によれば、天知は「文学界」一月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を「たけくらべ」と改題して発表した。翌1896年一括掲載された際には[[森鴎外]]や[[幸田露伴]]ら当時の文壇において着目され、鴎外の「めさまし草」において高い評価で迎えられたが、一葉はすでに肺結核が悪化していて同年11月には死去した。 |
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1892年[[鎌倉市|鎌倉]][[建長寺]]に参禅し『天為居士』の名を貰った。6月、[[女学雑誌]]が文芸の白表紙と女性向けの赤表紙とに別れた前者を、担当した。その暮『女学生』を廃刊し、翌年1月、[[文学界 (明治)|文学界]]を創刊した。この廃・創刊には、北村ら[[浪漫主義|浪漫派]]の作品が巌本イズムと馴染まなくなったという事情があった。天知は『文学界』の編集人・金主になり、次弟の男三郎(夕軒、夕影)に手伝わせた。禿木、藤村、[[戸川秋骨]]らの同人は、10歳前後年少だった。この頃、編集の実力者平田禿木が天知の妹ゆうを恋うたが、家格を理由に星野家側が乗らなかったという。 |
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1892年(明治25年)(30歳)、鎌倉[[笹目町|笹目ヶ谷]]に家を建てて住み、『伊勢源』の家督を男三郎に譲り、翌年武芸道場を開いた。薬草の効用を『植物応用編』の著で説いた。1894明治女学校を退職した。5月に自殺した北村透谷の法要を営み、藤村・禿木編集の『透谷集』を文学界雑誌社から刊行した。その後、1902年[[博文館]]版、1914年松栄堂書店版の『透谷全集』の編集者として、天知の名が見える。 |
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1893年3月、平田禿木が一葉を訪ね、『雪の日』を文学界の3月号に載せた。天知も竜泉寺と本郷へ[[人力車]]を二度走らせたが、禿木・秋骨・孤蝶らが『一葉サロン』に入り浸るのは好かなかった<ref>『黙歩七十年』の「一葉の輪郭」</ref>。[[たけくらべ]]が、1895年1月号から翌年1月号の文学界に連載された。それに関する天知の書簡が残る<ref>1895年1月22日付、樋口一葉宛、天知書簡([[日本近代文学館]]蔵)</ref>。 |
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1895年、松井万と結婚し、笹目ヶ谷に住んだ。明治女学校時代の教え子だった。万は、夫の創作活動を好まなかった。1896年2月の『熊に喰はれた男』で廃刊を仄めかした。1898年1月、文学界は終刊号を出した。 |
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終刊後は創作から遠ざかった。『新しい文学を創造する資質には恵まれていなかった』<ref>笹岡友一:『解題』、『筑摩書房 明治文学全集32』(1973)所載</ref>、『「文学界」指導者には位置し得ても、[[浪漫主義]]の主唱者にはなり得なかった』<ref>淺井清:『星野天知』(『新潮 日本文学辞典』増補改訂版(1988))</ref>、などの指摘もある。 |
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1900年(明治33年)(39歳)、親から貰い16年かけて拓いた[[千葉県]]の農園を整理した。 |
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1904年、開校した[[鎌倉女学校]]の副校長になったが、翌年辞して[[書道]]に励み、また、武道の[[柳生心眼流]]八世を襲名した。1908年、書道の﹃大師流﹄を発表し、その研究所を開いた。
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1923年の[[関東大震災]]で笹目ヶ谷の自宅が一部損壊した為、その修復作業が完了するまでの間、姻戚の[[高浜虚子]]家と共に西下して、長女の婚家を頼った。次いで[[芦屋市]]大原町に居所を構え、そこで書道の教授を続けた。1938年、回想録『黙歩七十年』を刊行した。1948年、[[カトリック教会|カトリック]]の洗礼を受け、1950年、老衰のため自宅で没した。 |
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== おもな文業 == |
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[[File:Hoshino Tenchi.JPG|thumb|170px|1948年]] |
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=== 雑誌への掲載 === |
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各行末のたとえば(1891.3)は、1891年3月発行の意。 |
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* 女学雑誌:『人生の別離』(1891.3)。『[[老子]]を読む』(1892.4)。『俠客論』(1892.6)。『裏面の楠公』(1892.7)。『[[沢庵宗彭|沢庵]]禅師を観る』(1892.7)。『[[文覚]]上人の本領』(1892.9)。『[[徒然草]]に兼行を聞く』(1892.10)。 |
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* 女学生:『[[加藤清正]]の真気』(1891.12)。『[[一休宗純|一休]]和尚』(1892.8)。『怪しき木像』(1892.8) |
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* 文学界:『[[文学界 (明治)]]』のページの、[[文学界 (明治)#掲載稿(抄)|掲載稿(抄)]]に記載されている。 |
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* 『のろひの木』、[[国民之友]](1896.1) |
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* 『おんぶりこ往生』、[[太陽 (博文館)|太陽]](1896.11) |
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* 『野くさ』、[[少年世界]](1897.9) |
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=== 単行本 === |
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* 『植物応用編』、丸善書房(1893) |
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* 『昆虫植物金石採集法』、女学雑誌社(1890) |
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* 『応用植物論』、女学雑誌社(1893) |
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* 『<small>文学雑著</small>破蓮集』、矢島誠進堂(1900) |
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* 『山菅』、文友館(1902) |
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* 『新式速成書法講義』、報知社出版部(1908) |
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* 『新式女子書簡習字』、[[博文館]](1913) |
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* 『黙歩七十年』、聖文閣(1938)→ [[日本図書センター]] 明治大正文学回想集成9(1983) |
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:没後 |
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* 『文学者の日記4 星野天知自叙伝』、[[博文館新社]] 日本近代文学館資料叢書(1999)ISBN 9784891779740、(遺品の毛筆原稿を[[成瀬正勝]]らが整理したもの) |
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=== 文学全集ほか === |
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* 『女学雑誌・文学界集』、[[筑摩書房]] 明治文学全集32(1973) |
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** 「人生の別離」「[[老子]]を読む」「侠客論」「文覚上人の本領」「[[徒然草]]に兼行を聞く」「紅閨の燈火」「菅笠売り」「桂のしづく」「[[阿仏尼]]」「茶祖利休居士」「対茶寂話」「狂僧、志道軒」「骨堂に有限を観ず」「飄蕩児を愍みて柳里恭を喚ぶ」「こよひの柳蔭」 |
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* 『透谷君の思ひ出』、『日本文学研究資料刊行会編「[[北村透谷]]」、有精堂出版 日本文学研究資料叢書(1972)』中の一篇 |
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* 『北村透谷集 附文学界派』、[[講談社]] 日本現代文学全集9(1965) |
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** 阿仏尼」「狂僧・志道軒」「嫖蕩児を愍みて柳里恭を喚ぶ」「[[清少納言]]のほこり」「文覚上人の恋想」「熊に喰われた男」「北村君の奇矯」 |
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== 脚注 == |
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== 出典 == |
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* 星野天知:『黙歩七十年』(抄)、『[[筑摩書房]] 明治文学全集98』(1980)』所載 |
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* [[石丸久]]編:『年譜』、『筑摩書房 明治文学全集32』(1980)所載 |
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* [[昭和女子大学]]近代文学研究室編:『近代文学研究叢書68』、昭和女子大学近代文化研究所(1994) |
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== 外部リンク == |
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* 島崎藤村 『[https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/43506_16853.html 北村透谷の短き一生]』([[青空文庫]]) - 星野家についての記載がある |
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{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:ほしの てんち}} |
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[[Category:19世紀日本の小説家]] |
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[[Category:20世紀日本の小説家]] |
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[[Category:日本の文芸評論家]] |
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[[Category:武術家]] |
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[[Category:書家]] |
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[[Category:日本のカトリック教会の信者]] |
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[[Category:東京農林学校出身の人物]] |
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[[Category:1862年生]] |
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[[Category:1950年没]] |
2024年6月13日 (木) 11:06時点における最新版
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星野 天知 (ほしの てんち) | |
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ペンネーム | 星野天知 |
誕生 |
星野新之助、のちに、星野慎之輔 1862年2月8日 江戸日本橋本町 |
死没 |
1950年9月17日(88歳没) 兵庫県芦屋市 |
墓地 | 鎌倉市の寿福寺 |
職業 | 作家、教育家、武道家、書道家、 |
国籍 |
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教育 | 駒場農学校 |
活動期間 | 1891年 - 1938年 |
文学活動 | 『女学生』、『文学界』 |
代表作 | 『黙歩七十年』 |
デビュー作 | 『人生の別離』 |
配偶者 | (松井)万 |
親族 |
星野立子(長男吉人の妻) 星野椿(孫) 星野高士(曾孫) |
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生涯[編集]
江戸日本橋本町四丁目︵現・東京都中央区日本橋本町︶角にあった砂糖問屋﹃伊勢源﹄の主、星野清左衛門の次男に生まれた。本名新之助。1872年に慎之輔と改めた。 1867年︵慶応3年︶︵6歳︶から、寺子屋や塾で書道・漢籍・英語などを習い、1873年、通っていた﹃幼童学所﹄が常盤小学校に変わってその第6級生になった。1876年、東京女子師範学校附属上等小学校︵現・お茶の水女子大学附属中学校︶を了え、家業見習いのため進学を諦め、見習うかたわら、塾へ通い、武術に親しんだ。その頃の雑誌﹃月とスッポンチ﹄、﹃親釜集﹄に戯文や狂歌を寄せた。1883年︵21歳︶、柔術と剣法の免状を得た。 1886年︵明治19年︶︵24歳︶、駒場農学校︵後の農科大学、さらに後の東京帝国大学農学部︶に入学し、薬草学を専攻した︵生家の﹃伊勢源﹄は、もと薬種問屋だった︶。翌年カルヴァン派日本基督教会日本橋教会で、町内の平田禿木らと一緒に受洗した。1889年、駒場農学校を卒業した。在学中、1歳下の巌本善治と知り合い、彼の明治女学校と女学雑誌社の経営につき、助言していた。卒業の年から、明治女学校で武道・心理学・東洋哲学・漢文などを教えた。 1890年、女学雑誌社が創刊した﹃女学生﹄誌の主筆となった。キリスト教系の18の女学校の生徒から、投稿を募る雑誌だった。修身訓話と文学奨励とを毎号に書き、投稿が少ないときは、平田禿木・北村透谷、島崎藤村らの作も載せた。 1892年鎌倉建長寺に参禅し﹃天為居士﹄の名を貰った。6月、女学雑誌が文芸の白表紙と女性向けの赤表紙とに別れた前者を、担当した。その暮﹃女学生﹄を廃刊し、翌年1月、文学界を創刊した。この廃・創刊には、北村ら浪漫派の作品が巌本イズムと馴染まなくなったという事情があった。天知は﹃文学界﹄の編集人・金主になり、次弟の男三郎︵夕軒、夕影︶に手伝わせた。禿木、藤村、戸川秋骨らの同人は、10歳前後年少だった。この頃、編集の実力者平田禿木が天知の妹ゆうを恋うたが、家格を理由に星野家側が乗らなかったという。 1892年︵明治25年︶︵30歳︶、鎌倉笹目ヶ谷に家を建てて住み、﹃伊勢源﹄の家督を男三郎に譲り、翌年武芸道場を開いた。薬草の効用を﹃植物応用編﹄の著で説いた。1894明治女学校を退職した。5月に自殺した北村透谷の法要を営み、藤村・禿木編集の﹃透谷集﹄を文学界雑誌社から刊行した。その後、1902年博文館版、1914年松栄堂書店版の﹃透谷全集﹄の編集者として、天知の名が見える。 1893年3月、平田禿木が一葉を訪ね、﹃雪の日﹄を文学界の3月号に載せた。天知も竜泉寺と本郷へ人力車を二度走らせたが、禿木・秋骨・孤蝶らが﹃一葉サロン﹄に入り浸るのは好かなかった[1]。たけくらべが、1895年1月号から翌年1月号の文学界に連載された。それに関する天知の書簡が残る[2]。 1895年、松井万と結婚し、笹目ヶ谷に住んだ。明治女学校時代の教え子だった。万は、夫の創作活動を好まなかった。1896年2月の﹃熊に喰はれた男﹄で廃刊を仄めかした。1898年1月、文学界は終刊号を出した。 終刊後は創作から遠ざかった。﹃新しい文学を創造する資質には恵まれていなかった﹄[3]、﹃﹁文学界﹂指導者には位置し得ても、浪漫主義の主唱者にはなり得なかった﹄[4]、などの指摘もある。 1900年︵明治33年︶︵39歳︶、親から貰い16年かけて拓いた千葉県の農園を整理した。 1904年、開校した鎌倉女学校の副校長になったが、翌年辞して書道に励み、また、武道の柳生心眼流八世を襲名した。1908年、書道の﹃大師流﹄を発表し、その研究所を開いた。 1923年の関東大震災で笹目ヶ谷の自宅が一部損壊した為、その修復作業が完了するまでの間、姻戚の高浜虚子家と共に西下して、長女の婚家を頼った。次いで芦屋市大原町に居所を構え、そこで書道の教授を続けた。1938年、回想録﹃黙歩七十年﹄を刊行した。1948年、カトリックの洗礼を受け、1950年、老衰のため自宅で没した。おもな文業[編集]
雑誌への掲載[編集]
各行末のたとえば︵1891.3︶は、1891年3月発行の意。単行本[編集]
●﹃植物応用編﹄、丸善書房︵1893︶ ●﹃昆虫植物金石採集法﹄、女学雑誌社︵1890︶ ●﹃応用植物論﹄、女学雑誌社︵1893︶ ●﹃文学雑著破蓮集﹄、矢島誠進堂︵1900︶ ●﹃山菅﹄、文友館︵1902︶ ●﹃新式速成書法講義﹄、報知社出版部︵1908︶ ●﹃新式女子書簡習字﹄、博文館︵1913︶ ●﹃黙歩七十年﹄、聖文閣︵1938︶→ 日本図書センター 明治大正文学回想集成9︵1983︶ 没後 ●﹃文学者の日記4星野天知自叙伝﹄、博文館新社 日本近代文学館資料叢書︵1999︶ISBN 9784891779740、︵遺品の毛筆原稿を成瀬正勝らが整理したもの︶文学全集ほか[編集]
●﹃女学雑誌・文学界集﹄、筑摩書房 明治文学全集32︵1973︶ ●﹁人生の別離﹂﹁老子を読む﹂﹁侠客論﹂﹁文覚上人の本領﹂﹁徒然草に兼行を聞く﹂﹁紅閨の燈火﹂﹁菅笠売り﹂﹁桂のしづく﹂﹁阿仏尼﹂﹁茶祖利休居士﹂﹁対茶寂話﹂﹁狂僧、志道軒﹂﹁骨堂に有限を観ず﹂﹁飄蕩児を愍みて柳里恭を喚ぶ﹂﹁こよひの柳蔭﹂ ●﹃透谷君の思ひ出﹄、﹃日本文学研究資料刊行会編﹁北村透谷﹂、有精堂出版 日本文学研究資料叢書︵1972︶﹄中の一篇 ●﹃北村透谷集 附文学界派﹄、講談社 日本現代文学全集9︵1965︶ ●阿仏尼﹂﹁狂僧・志道軒﹂﹁嫖蕩児を愍みて柳里恭を喚ぶ﹂﹁清少納言のほこり﹂﹁文覚上人の恋想﹂﹁熊に喰われた男﹂﹁北村君の奇矯﹂脚注[編集]
出典[編集]
- 星野天知:『黙歩七十年』(抄)、『筑摩書房 明治文学全集98』(1980)』所載
- 石丸久編:『年譜』、『筑摩書房 明治文学全集32』(1980)所載
- 昭和女子大学近代文学研究室編:『近代文学研究叢書68』、昭和女子大学近代文化研究所(1994)
外部リンク[編集]
{Normdaten}}