少年世界
少年世界 | |
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ジャンル | 論説・小説・史伝・科学・投稿・時事など |
読者対象 | 小学生・中学生 |
刊行頻度 | 初め月2回、1901年(明治34年)から月刊。 |
発売国 | 日本 |
定価 | 初め5銭、1906年(明治39年)に10銭。 |
出版社 | 博文館 |
編集長 | 巖谷小波 |
刊行期間 | 1895年(明治28年) - 1933年(昭和8年)頃 |
発行部数 | 約3万部(1923年(大正12年)10月) |
姉妹誌 | 幼年世界、少女世界 |
﹃少年世界﹄︵しょうねんせかい︶は、巖谷小波を主筆として1895年︵明治28年︶1月に創刊し、1933年︵昭和8年︶頃まで博文館が出版した、少年向け総合雑誌。
経緯[編集]
博文館はすでに盛業だったが、少年向け雑誌は少年園社の﹃小年園﹄や学齢館の﹃少国民﹄の先行を許していた。それは博文館が﹃日本之少年﹄﹃幼年雑誌﹄﹃学生筆戦場﹄の3雑誌と﹃少年文学﹄﹃幼年玉手箱﹄の2叢書を手広く出していたせいでもあったので、それらを統合し 京都で﹃日出新聞﹄の小説主筆をしていた巖谷小波を主筆に迎え[1]、 1895年︵明治28年︶1月に、﹃少年世界﹄を創刊した。日清戦争の勝利が見えていた時期である。 小波は4年前、上記少年文学叢書の第1編に﹃こがね丸﹄を書き、童話作家の地位を固めていた。武内桂舟が絵画主任を勤め、五姓田芳柳・水野年方も描いた。武田桜桃が編集の助筆だった。 初めは月2回、1901年︵明治34年︶から月刊。菊判、120ページ。論説・小説・史伝・科学・遊戯・文学・学校案内・遊覧案内・図書案内・時事・投書欄など総合な内容で、初め小学生・中学生を対象としたが、半年後に幼年欄を、1年半後に少女欄も設けた。 主筆の小波が、毎号の巻頭にお伽話を載せたほか、年齢順に、依田学海、幸堂得知、大和田建樹、松村介石、宮崎三昧、広津柳浪、森田思軒、箕作元八、巌本善治、若松賤子、渡辺霞亭、上田萬年、石橋思案、幸田露伴、山田美妙、高安月郊、大町桂月、川上眉山、大橋乙羽、江見水蔭、松居松葉、堺枯川、佐佐木信綱、田山花袋、徳田秋声、泉鏡花、久留島武彦、黒田湖山、金子薫園らが書いた。小波が属した硯友社のメンバーを多く見る。 小波の多くの掲載稿の目録が、﹃昭和女子大学近代文学研究室の﹁近代文学研究叢書55﹂︵1972︶﹄に載っている。 森田思軒が英訳から重訳した﹃十五少年漂流記﹄︵1899年︵明治32年︶︶は、好評で、新訳にもこの邦題を踏襲している例が多い。また、高安月郊の﹃山椒大夫﹄︵1908年︵明治41年︶︶は、森鷗外の小説に先行する戯曲だった。 博文館は﹃少年世界﹄から分家する形で1900年︵明治33年︶に﹃幼年世界﹄を、1906年︵明治39年︶に﹃少女世界﹄を創刊し、小波はそれらの主筆も兼ねたが、1906年︵明治39年︶に実業之日本社が﹃日本少年﹄を、1914年︵大正3年︶に大日本雄弁会が﹃少年倶楽部﹄を、1918年︵大正7年︶に鈴木三重吉が﹃赤い鳥﹄を創刊するなど、後続に追い上げられた。博文館自らも、1920年︵大正9年︶、通俗的な﹃譚海﹄を創刊した。 ﹃少年世界﹄誌の発行部数は、最盛期を過ぎた1923年︵大正12年︶秋︵関東大震災の直後︶に、3万部前後だったという[2]。 1918年︵大正7年︶、巌谷小波主筆は博文館の顧問に退き、さらに1927年︵昭和2年︶、辞職した。 終刊の年月は、1933年︵昭和8年︶1月、1933年︵昭和8年︶10月、1934年︵昭和9年︶1月などと言われる。復刻版[編集]
1895年︵明治28年︶1月の創刊号から1903年︵明治36年︶分までが、﹃名著普及会﹄により復刻されている[3]。出典[編集]
- 福田清人:『明治の児童文学』、(「筑摩書房 明治文学全集95(1970)」の巻末)
- 続橋達雄:『児童文学の誕生』、桜楓社(1972)
- 昭和女子大学近代文学研究室編:『近代文学研究叢書35』、昭和女子大学近代文化研究所(1972)
- 西田良子:『少年世界』、(「『児童文学辞典』、東京書籍(1988)」の中)
脚注[編集]
- ^ おとぎ話のおじさん逝く『東京日日新聞』昭和8年9月6日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p14 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『「女学世界」における「投書」の研究』[1]の表2
- ^ 国際子ども図書館 少年世界