「木上益治」の版間の差分
タグ: 差し戻し済み Refタグつき記述の除去 |
OCNのIP利用者による荒らしを2021年5月5日 (水) 15:11 (UTC)の版へ差し戻し (出典付き記述の理由なき大幅除去+refエラーの放置) タグ: 手動差し戻し 差し戻し済み |
||
168行目: | 168行目: | ||
* 若手の頃は、他社制作のアニメ作品を熱心に研究していた。頻繁にビデオテープをコマ送りして、画面にノイズが発生するまで鑑賞し続けた<ref name="nhk20191125"/>。天才と呼ばれるのを嫌い、よく﹁裏でどれだけ努力しているのか、知らないんだよ﹂と愚痴をこぼしていた<ref name="josei20191022"/>。
|
* 若手の頃は、他社制作のアニメ作品を熱心に研究していた。頻繁にビデオテープをコマ送りして、画面にノイズが発生するまで鑑賞し続けた<ref name="nhk20191125"/>。天才と呼ばれるのを嫌い、よく﹁裏でどれだけ努力しているのか、知らないんだよ﹂と愚痴をこぼしていた<ref name="josei20191022"/>。
|
||
* 1987年、あにまる屋初代社長の真田芳房が49歳で肝硬変により死去した。会社が加入していた生命保険金の600万円は﹁会社でお使いください﹂と遺族が受け取らなかったので、2年後に保険金を元手に絵本﹃小さなジャムとゴブリンのオップ﹄を1000部限定で製作・出版した。その際、木上は脚本・作画・キャラクターデザインを担当し、未発表の続編7本の脚本と作画も担当した<ref name="josei20191022"/><ref name="asahi20200119"/>。
|
* 1987年、あにまる屋初代社長の真田芳房が49歳で肝硬変により死去した。会社が加入していた生命保険金の600万円は﹁会社でお使いください﹂と遺族が受け取らなかったので、2年後に保険金を元手に絵本﹃小さなジャムとゴブリンのオップ﹄を1000部限定で製作・出版した。その際、木上は脚本・作画・キャラクターデザインを担当し、未発表の続編7本の脚本と作画も担当した<ref name="josei20191022"/><ref name="asahi20200119"/>。
|
||
* ﹁妥協するな、{{ruby|我|が}}を貫け﹂が口癖で<ref name="mainichi20200718"/>、脚本から絵コンテを製作する際にも、無断で結末を変える事があった<ref name="planets20170203"/>。
|
|||
* 京都アニメーションの採用・昇格・作画作業の責任者であり、木上に認められた社員だけが原画や演出に昇格できた<ref name="planets20170203">{{Cite web |url=https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar1182761|title=山本寛監督インタビュー﹁いまだからこそ語るべきアニメのこと﹂第2回 正しいと思ったことは全部やれ|accessdate=2021-01-03|date=2017-02-03|editor=高瀬司|website=ニコニコチャンネル|work=Daily PLANETS|publisher=PLANETS}}</ref>。
|
|||
* 40年にわたるアニメーターの経歴において、監督を務めた作品は数作しかない。これは後進の育成に重点を置いたためで﹁自分よりおもしろいスタッフがいっぱいいるから、もう俺は監督はできない﹂というのが口癖だった。﹃MUNTO﹄シリーズは、八田社長夫妻から半ば押し付けられて、渋々監督を務めた<ref name="planets20170203"/>。
|
* 40年にわたるアニメーターの経歴において、監督を務めた作品は数作しかない。これは後進の育成に重点を置いたためで﹁自分よりおもしろいスタッフがいっぱいいるから、もう俺は監督はできない﹂というのが口癖だった。﹃MUNTO﹄シリーズは、八田社長夫妻から半ば押し付けられて、渋々監督を務めた<ref name="planets20170203"/>。
|
||
* 作画のスピードを上げるためには、技術以上に完成図をイメージすることが大事だと説いていた<ref>{{Cite web |url=https://ameblo.jp/kanku0901/entry-12508405440.html|title=師匠2|accessdate=2021-01-03|author=山本寛|date=2019-08-18|website=山本寛オフィシャルブログ|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
|
* 作画のスピードを上げるためには、技術以上に完成図をイメージすることが大事だと説いていた<ref>{{Cite web |url=https://ameblo.jp/kanku0901/entry-12508405440.html|title=師匠2|accessdate=2021-01-03|author=山本寛|date=2019-08-18|website=山本寛オフィシャルブログ|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
|
||
* 京都アニメーションでは、定時になった瞬間に退出していた。[[山本寛 (アニメ演出家)|山本寛]]は、定時に終業するべきという理念と共に、若手アニメーターが木上の机やゴミ箱にある描画を研究する機会を与えていたと推察している<ref>{{Cite web |url=https://ameblo.jp/kanku0901/entry-12529149606.html|title=定時|accessdate=2021-01-03|author=山本寛|date=2019-09-24|website=山本寛オフィシャルブログ|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
|
|||
* 2000年頃、京都アニメーション初のオリジナルアニメ作品として、おとぎ話を脚色した『[[笠地蔵]]』の企画が立ち上がった。木上が絵コンテを描き、パイロットフィルムまで製作されたものの、文芸色の強い地味な作品で売れそうにないという理由で企画は流れた。山本寛は『笠地蔵』を制作しなかったのは「京都アニメーション最大の失敗」と主張している。代わりに企画されたのが『MUNTO』シリーズである<ref name="kyoto20200714-01"/><ref name="planets20170203"/>。 |
|||
* 京都アニメーションの女性社員と結婚した<ref name="josei20191022"/>。 |
* 京都アニメーションの女性社員と結婚した<ref name="josei20191022"/>。 |
||
* アニメーターとしては'''多田文雄'''(多田文男)、演出家としては'''三好一郎'''、'''梅庵'''の別名を持ち、京都アニメーション制作またはグロス請けのTVアニメ作品では別名義を使う傾向があった<ref name="planets20170203"/>。 |
* アニメーターとしては'''多田文雄'''(多田文男)、演出家としては'''三好一郎'''、'''梅庵'''の別名を持ち、京都アニメーション制作またはグロス請けのTVアニメ作品では別名義を使う傾向があった<ref name="planets20170203"/>。 |
||
* 反面、音響・音楽周りは全く把握していなかった。山本寛は、監督である木上が常に黙っているので、代わりに自身が指示を出したと証言している<ref>{{Cite web |url=https://ameblo.jp/kanku0901/entry-12587486873.html|title=師匠5|author=山本寛|accessdate=2021-01-03|date=2020-04-06|website=山本寛オフィシャルブログ|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。
|
|||
* 2019年7月下旬の通夜で泣き続ける母親に、京都アニメーション社長の八田英明は「日本一のアニメーターでした」と声を掛けた<ref>中日新聞2019年8月3日朝刊31面</ref>。 |
* 2019年7月下旬の通夜で泣き続ける母親に、京都アニメーション社長の八田英明は「日本一のアニメーターでした」と声を掛けた<ref>中日新聞2019年8月3日朝刊31面</ref>。 |
||
2021年5月6日 (木) 03:37時点における版
きがみ よしじ 木上 益治 | |
---|---|
本名 | 木上 益治 |
別名義 |
多田 文雄 多田 文男 三好 一郎 梅庵 |
生年月日 | 1957年12月28日 |
没年月日 | 2019年7月18日(61歳没) |
出生地 |
![]() |
死没地 |
![]() |
職業 |
アニメーション監督 アニメーション演出家 |
活動期間 | 1979年 - 2019年 |
主な作品 | |
監督 『フルメタル・パニック?ふもっふ』 『らき☆すた』 『空を見上げる少女の瞳に映る世界』 『ドラえもん のび太と翼の勇者たち』 『天上人とアクト人最後の戦い』 『バジャのスタジオ』 |