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{{Infobox 人物 |
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'''木村 小舟'''(きむら しょうしゅう、[[1881年]][[9月12日]] - [[1954年]][[4月20日]])は、[[20世紀]]前半の少年雑誌編集者・童話作家である。 |
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|氏名 = 木村 小舟 |
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|ふりがな = きむら しょうしゅう |
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|画像 = File:Kimura Shoshu 1929.jpg |
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|画像サイズ = 200px |
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|画像説明 = |
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|出生名 = 木村定次郎 |
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|生年月日 = [[1881年]][[9月12日]] |
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|生誕地 = [[岐阜県]][[加茂郡]][[加治田村]]<br>(現在の[[富加町]]) |
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|洗礼 = |
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|失踪年月日 = |
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|失踪地 = |
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|現況 = |
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|没年月日 = [[1954年]][[4月20日]](72歳) |
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|死没地 = [[東京都]][[中野区]] |
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|死因 = |
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|遺体発見 = |
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|墓地 = |
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|市民権 = |
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|教育 = |
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|出身校 = [[富加町立加治田小学校|加治田尋常小学校]] |
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|職業 = [[少年雑誌]][[編集者]]・[[童話作家]] |
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|活動期間 = |
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|雇用者 = |
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|著名な実績 = [[岐阜通俗図書館]]の設立 |
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'''木村 小舟'''︵きむら しょうしゅう、[[1881年]][[9月12日]] - [[1954年]][[4月20日]]︶は、[[岐阜県]]出身の[[少年雑誌]][[編集者]]・[[童話作家]]である。本名は木村定次郎。1913年︵大正2年︶には[[公共図書館]]の[[岐阜通俗図書館]]を設立した。
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== 経歴 == |
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=== 青年期 === |
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[[岐阜県]][[加茂郡 (岐阜県)|加茂郡]]加治田村(現在の[[富加町]])出身。本名は木村定次郎。 |
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1881年︵明治14年︶9月12日、[[岐阜県]][[加茂郡]][[加治田村]]︵現在の[[富加町]]加治田︶に次男として木村定次郎が生まれた<ref name="略年譜">﹁木村小舟略年譜﹂富加町郷土資料館</ref><ref name="岐阜県図書館"/>。父は[[郵便局]]長の木村理右衛門、母はきしであり、定次郎は比較的裕福な家庭に育った<ref name="略年譜"/><ref name="岐阜県図書館">[https://www.library.pref.gifu.lg.jp/gifu-map/gifu-related-materials/gifu-pioneer/page/kimura-shoshu.html 少年小説作家 木村小舟] 岐阜県図書館</ref>。
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1888年︵明治21年︶には[[富加町立加治田小学校|加治田尋常小学校]]に入学するが、1891年︵明治24年︶には父の理右衛門が死去した<ref name="略年譜"/>。1892年︵明治25年︶には高等科に入学したが、病弱だったために中退した<ref name="略年譜"/>。定次郎は草花の栽培、昆虫採集、魚釣りなど、自然を愛する幼少期を過ごし、教員、昆虫研究、文学を将来の夢として抱いていた<ref name="岐阜県図書館"/>。
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[[1896年]](16歳)に、幼年時代からの希望であった小学校教員の第一歩を踏み出し、加治田小学校の雇教員として勤める。そのかたわら、[[博文館]]の少年雑誌『[[少年世界]]』への投稿をする。1898年には「胡蝶船旅行」1編が、1899年には「雪姫物語(科学的お伽噺)」「蟻の旅(お伽噺)」など10編が掲載された。[[1900年]]9月、19歳で[[博文館]]に編集者として入社する。[[1901年]]9月から[[1914年]]12月(34歳)に退社するまで、『少年世界』の編集を担当し、最後の2年間は編集長を務めた。編集者として様々な分野について執筆している。退社後も、『少年世界』に理科談と童話の執筆を続けた。 |
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1896年︵明治29年︶には16歳で加治田尋常小学校の[[代用教員]]となったが、1898年︵明治31年︶には[[名和昆虫研究所]]の機関誌﹃昆虫世界﹄に論文﹁昆虫の模倣性﹂を発表し、同年には代用教員を持して[[名和昆虫博物館|名和昆虫研究所]]の助手となった<ref name="略年譜"/>。同年には雑誌﹃[[少年世界]]﹄に童話﹃胡蝶船旅行﹄が掲載され、[[児童文学]]の道を志すようになった<ref name="略年譜"/>。1899年︵明治32年︶にも﹃雪姫物語︵科学的お伽噺︶﹄﹃蟻の旅︵お伽噺︶﹄など10編が﹃少年世界﹄に掲載されている。
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博文館退社後は、書肆東亜堂の主人に招かれて、同社に入社する。しかし、この会社は経営不振で、数年にして主人は経営を投げ出し、木村小舟みずからが経営の責任を負うことになる。整理のやむなきに至り、別に明治出版社を興す。しかし、1922年には両社とも解散し、1927年までかかって両社の負債を返済し続けることになる。1923年以降は、少年用書籍の執筆者・編集者となる。
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=== 博文館時代 === |
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[[File:Sazanami Iwaya.jpg|thumb|170px|師の[[巖谷小波]]]] |
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1899年︵明治32年︶11月には上京して[[巖谷小波]]を訪ね、1900年︵明治33年︶9月には巖谷小波の紹介で[[博文館]]編集局に入社した<ref name="略年譜"/>。入社後には恩師の巌谷小波と挿図担当の[[武内桂舟]]から一字づつもらい、木村小舟と名乗るようになった<ref name="郷土の偉人"/>。1901年︵明治34年︶1月には休職して帰郷し、同年5月の[[徴兵検査]]では身体薄弱により丙種不合格となった<ref name="略年譜"/>。1902年︵明治35年︶9月には博文館に復帰し、1903年︵明治36年︶には﹃少年世界﹄の読者らによる少年博物学会を設立した<ref name="略年譜"/>。
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1906年︵明治39年︶には[[図書館]]の建設を構想するようになり、故郷の実兄宅に様々な本や雑誌を購入して送るようになった<ref name="略年譜"/>。自身が収集した約1万冊の書籍を元にして<ref name="岐阜県図書館"/>、1913年︵大正2年︶11月1日、[[岐阜市]]神田町に[[岐阜通俗図書館]]を開設した<ref name="郷土の偉人"/>。1909年︵明治42年︶には岐阜県教育会附属図書館︵後の[[岐阜県図書館]]︶が開館していたが、岐阜県教育会附属図書館は学術書が中心で館外貸出にも厳しい制限があり、木村小舟はより大衆向けの[[公共図書館]]を目指した<ref name="郷土の偉人"/>。木村小舟が館長に就任し、新聞記者の[[小木曽旭晃]]︵後の[[岐阜新聞|岐阜日日新聞]]編集長︶が実質的な運営に携わった<ref name="岐阜県図書館"/>。
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=== 後年の活動 === |
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1914年︵大正3年︶12月には博文館を退社し、1915年︵大正4年︶には古書業の東亜堂に営業職として入社した<ref name="略年譜"/>。博文館での晩年は﹃少年世界﹄の編集長を務め、退社後も﹃少年世界﹄に理科談と童話の執筆を続けた<ref name="略年譜"/>。1919年︵大正8年︶には東亜堂が株式会社化され、木村小舟は取締役に就任した。同年6月には岐阜通俗図書館が隣家の火事で類焼し、再建のめどが立たなかった<ref name="略年譜"/>。1920年︵大正9年︶には合資会社明治出版を設立したが、1922年︵大正11年︶には東亜堂・明治出版ともに解散し、多額の負債を抱えた<ref name="略年譜"/>。
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1925年︵大正14年︶からは巖谷小波の助手として東洋の説話の集成に着手した<ref name="略年譜"/>。1933年︵昭和8年︶9月には巖谷小波が死去したが、1935年︵昭和10年︶には巖谷小波の遺志を継いで[[平凡社]]から﹃大語園﹄を刊行し、これが自身の集大成的な仕事となった<ref name="略年譜"/>。1942年︵昭和17年︶には童話春秋社から﹃少年文学史 明治篇﹄を刊行し、﹁日本の近代児童文学研究上の基礎文献﹂と評された<ref name="郷土の偉人"/>。1943年︵昭和18年︶には[[文部省]]から明治少年文学の部門で文学賞を授与された。
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戦時中の1944年︵昭和19年︶には[[脳溢血]]によって[[世田谷区]]の自宅で倒れ、療養と[[疎開]]のために岐阜県加茂郡[[加茂野村]]鷹之巣︵現在の[[美濃加茂市]]加茂野町︶に移り住んだ<ref name="郷土の偉人">[http://www.town.tomika.gifu.jp/shoukai/kyoudo-ijin.html 郷土の偉人﹁木村小舟﹂] 富加町</ref>。晩年には加治田小学校の一角に加治田村通俗図書館を設立している<ref name="岐阜県図書館"/><ref name="郷土の偉人"/>。戦後には東京に戻って執筆活動を続けたが、1954年︵昭和29年︶4月20日、[[東京都]][[中野区]]の自宅で死去した<ref name="郷土の偉人"/>。
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=== 死後 === |
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[[File:Kimura Shoshu autograph manuscript ac.jpg|thumb|自筆原稿(富加町郷土資料館)]] |
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2005年(平成17年)には富加町の有志によって「木村小舟を語る会」が設立された<ref name="残したもの"/>。富加町加治田の[[清水寺 (岐阜県富加町)|清水寺]]には「木村小舟を語る会」によって木村小舟歌碑が建立された<ref name="残したもの"/>。 |
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故郷の[[富加町郷土資料館]]には木村小舟に関する常設展示がある。2009年(平成21年)10月から12月には特別展「小舟さんが残したもの 私たちが語る木村小舟」が開催された<ref name="残したもの">[https://www.town.tomika.gifu.jp/fs/7/2/9/8/9/_/___________.pdf 小舟さんが残したもの 私たちが語る木村小舟] 富加町郷土資料館</ref>。 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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きわめて多い。以下はその一部である。 |
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一部の著書のみ羅列する。 |
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幼少年書類 |
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* 『教育お伽噺』博文館、1908年 |
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=== 幼少年書類 === |
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* 『立志の旅路』博文館、1912年 |
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* 教育お伽噺(1908年、[[博文館]]) |
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* 少年百科宝鑑(1911年、[[勉強堂]]) |
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* 『泰西美談』広陵社、1924年 |
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* 立志の旅路(1912年、博文館) |
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* 『日本歴史手帳』文運堂 |
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* 泰西美談(1924年、[[広陵社]]) |
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* 『動物手帳』文運堂 |
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* 模範童話選集(1925年、博文館) |
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* 『世界地理手帳』文運堂 |
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* 日本歴史手帳(発行年不明、[[文運堂]]) |
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* 『少年百科宝鑑』勉強堂、1911年 |
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* 動物手帳(発行年不明、文運堂) |
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理科書類 |
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* 世界地理手帳(発行年不明、文運堂) |
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* 『理科手引草』博文館、1902年 |
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* 『動物の世界』東亜堂、1929年 |
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=== 理科書類 === |
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* 『小学理科の話』京華社 |
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* 理科手引草(1902年、博文館) |
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美術及雑書 |
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* 動物の世界(1929年、[[東亜堂]]) |
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* 小学理科の話(発行年不明、[[京華社]]) |
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* 『趣味の仏像』広陵社、1926年 |
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* 『海上生活』共同出版社、1917年 |
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=== 美術及雑書 === |
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* 海上生活(1917年、[[共同出版社]]) |
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* 日本仏像物語(1920年、東亜堂) |
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* 趣味の仏像(1926年、広陵社) |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=飯干陽 |title=木村小舟と「少年世界」 |publisher=[[あずさ書店]] |year=1992}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=飯干陽 |title=木村小舟と岐阜通俗図書館 |journal=白百合女子大学研究紀要 |volume= |issue=25 |year=1989 |pages=131-200}} |
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* {{Cite book|和書 |author= |title=富加町史 下巻 通史編 |publisher=富加町 |year=1980}} |
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* 「木村小舟略年譜」富加町郷土資料館 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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== 外部リンク == |
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==文献== |
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* {{青空文庫著作者|1243}} |
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* 飯干陽『木村小舟と「少年世界」』[[あずさ書店]]、1992年 |
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*[http://www.aozora.gr.jp/cards/001243/files/46458_24613.html 木村小舟 太陽系統の滅亡] |
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*[http://www.town.tomika.gifu.jp/shoukai/kyoudo-ijin.html 郷土の偉人「木村小舟」] 富加町 |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:きむら しようしゆう}} |
{{DEFAULTSORT:きむら しようしゆう}} |
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[[Category:日本の児童文学作家]] |
[[Category:19世紀日本の児童文学作家]] |
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[[Category:20世紀日本の児童文学作家]] |
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[[Category:19世紀日本のノンフィクション作家]] |
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[[Category:20世紀日本のノンフィクション作家]] |
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[[Category:日本の編集者]] |
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[[Category:岐阜県出身の人物]] |
[[Category:岐阜県出身の人物]] |
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[[Category:富加町の歴史]] |
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[[Category:博文館の人物]] |
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[[Category:1881年生]] |
[[Category:1881年生]] |
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[[Category:1954年没]] |
[[Category:1954年没]] |
2024年3月27日 (水) 11:10時点における最新版
きむら しょうしゅう 木村 小舟 | |
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生誕 |
木村定次郎 1881年9月12日 岐阜県加茂郡加治田村 (現在の富加町) |
死没 |
1954年4月20日(72歳) 東京都中野区 |
出身校 | 加治田尋常小学校 |
職業 | 少年雑誌編集者・童話作家 |
著名な実績 | 岐阜通俗図書館の設立 |
経歴[編集]
青年期[編集]
1881年︵明治14年︶9月12日、岐阜県加茂郡加治田村︵現在の富加町加治田︶に次男として木村定次郎が生まれた[1][2]。父は郵便局長の木村理右衛門、母はきしであり、定次郎は比較的裕福な家庭に育った[1][2]。 1888年︵明治21年︶には加治田尋常小学校に入学するが、1891年︵明治24年︶には父の理右衛門が死去した[1]。1892年︵明治25年︶には高等科に入学したが、病弱だったために中退した[1]。定次郎は草花の栽培、昆虫採集、魚釣りなど、自然を愛する幼少期を過ごし、教員、昆虫研究、文学を将来の夢として抱いていた[2]。 1896年︵明治29年︶には16歳で加治田尋常小学校の代用教員となったが、1898年︵明治31年︶には名和昆虫研究所の機関誌﹃昆虫世界﹄に論文﹁昆虫の模倣性﹂を発表し、同年には代用教員を持して名和昆虫研究所の助手となった[1]。同年には雑誌﹃少年世界﹄に童話﹃胡蝶船旅行﹄が掲載され、児童文学の道を志すようになった[1]。1899年︵明治32年︶にも﹃雪姫物語︵科学的お伽噺︶﹄﹃蟻の旅︵お伽噺︶﹄など10編が﹃少年世界﹄に掲載されている。博文館時代[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/Sazanami_Iwaya.jpg/170px-Sazanami_Iwaya.jpg)
後年の活動[編集]
1914年︵大正3年︶12月には博文館を退社し、1915年︵大正4年︶には古書業の東亜堂に営業職として入社した[1]。博文館での晩年は﹃少年世界﹄の編集長を務め、退社後も﹃少年世界﹄に理科談と童話の執筆を続けた[1]。1919年︵大正8年︶には東亜堂が株式会社化され、木村小舟は取締役に就任した。同年6月には岐阜通俗図書館が隣家の火事で類焼し、再建のめどが立たなかった[1]。1920年︵大正9年︶には合資会社明治出版を設立したが、1922年︵大正11年︶には東亜堂・明治出版ともに解散し、多額の負債を抱えた[1]。 1925年︵大正14年︶からは巖谷小波の助手として東洋の説話の集成に着手した[1]。1933年︵昭和8年︶9月には巖谷小波が死去したが、1935年︵昭和10年︶には巖谷小波の遺志を継いで平凡社から﹃大語園﹄を刊行し、これが自身の集大成的な仕事となった[1]。1942年︵昭和17年︶には童話春秋社から﹃少年文学史 明治篇﹄を刊行し、﹁日本の近代児童文学研究上の基礎文献﹂と評された[3]。1943年︵昭和18年︶には文部省から明治少年文学の部門で文学賞を授与された。 戦時中の1944年︵昭和19年︶には脳溢血によって世田谷区の自宅で倒れ、療養と疎開のために岐阜県加茂郡加茂野村鷹之巣︵現在の美濃加茂市加茂野町︶に移り住んだ[3]。晩年には加治田小学校の一角に加治田村通俗図書館を設立している[2][3]。戦後には東京に戻って執筆活動を続けたが、1954年︵昭和29年︶4月20日、東京都中野区の自宅で死去した[3]。死後[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Kimura_Shoshu_autograph_manuscript_ac.jpg/220px-Kimura_Shoshu_autograph_manuscript_ac.jpg)