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しかし[[1937年]]に[[同友会事件]]で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し転向、対日協力路線に転ずる。[[創氏改名]]の推奨に尽力し、自らも'''香山光郎'''と名乗った。また、のちに﹁[[親日文学]]﹂と呼ばれる、日本語による創作も行った。
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しかし[[1937年]]に[[同友会事件]]で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し転向、対日協力路線に転ずる。[[創氏改名]]の推奨に尽力し、自らも'''香山光郎'''と名乗った。また、のちに﹁[[親日文学]]﹂と呼ばれる、日本語による創作も行った。
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朝鮮解放後に収監され、釈放後も[[親日派]]の烙印が押され、﹁'''李狂洙'''︵[[韓国語]]では“光”と“狂”は共に“{{lang|ko|광}}”と書く︶﹂などという蔑称まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。[[李承晩]]政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。
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朝鮮解放後に収監され、釈放後も[[親日派]]の烙印が押され、﹁'''李狂洙'''︵[[韓国語]]では“光”と“狂”は共に“{{lang|ko|광}}”と書く︶﹂などという蔑称まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。[[李承晩]]政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい。﹂と訴えたとも言われる。
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朝鮮戦争中、[[朝鮮人民軍]]が[[ソウル]]を占拠した際に[[朝鮮民主主義人民共和国]]に拉致され、以降行方不明。朝鮮人民軍の退却中に殺害されたと言われる。 |
朝鮮戦争中、[[朝鮮人民軍]]が[[ソウル]]を占拠した際に[[朝鮮民主主義人民共和国]]に拉致され、以降行方不明。朝鮮人民軍の退却中に殺害されたと言われる。 |
2007年6月12日 (火) 13:47時点における版
李光洙 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이광수 |
漢字: | 李光洙 |
発音: | イ・グァンス |
日本語読み: | りこうしゅ |
ローマ字: | Lee Kwang-su |
李光洙︵イ・グァンス、이광수、1892年 - 1950年︶は、朝鮮の文学者、思想家。﹁朝鮮近代文学の祖﹂とも言われる。
一方で、李の﹃近代西欧﹄思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が、朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の植民地支配と妥協し、これを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたもので、その点において非難を免れないとの主張もある[2]。
経歴
日本の明治学院に留学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。その後、﹁二・八独立宣言﹂の起草に加わり上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり、独立新聞の編集長に就任する。帰国後、逮捕されるが起訴されず釈放される。その後東亜日報に就職。後に編集長に就任する。後に朝鮮日報に移籍し、同社副社長となる。 民族主義的な立場から儒教思想と因習を批判する啓蒙主義的な小説の執筆活動をおこなう。小説にとどまらず、東亜日報に﹁民族的経綸﹂などの論説を掲載し、朝鮮の亡国の原因は朝鮮民族自身の劣位性にあるとし、民族の実力養成を説いた︵民族改良主義と呼ばれる︶。一方で、朝鮮総督府に対しては独立ではなく自治権などの権利拡大を要求した。 しかし1937年に同友会事件で二度目の逮捕、収監︵半年後釈放、1941年無罪確定︶された後は、植民地当局の圧力に屈服し転向、対日協力路線に転ずる。創氏改名の推奨に尽力し、自らも香山光郎と名乗った。また、のちに﹁親日文学﹂と呼ばれる、日本語による創作も行った。 朝鮮解放後に収監され、釈放後も親日派の烙印が押され、﹁李狂洙︵韓国語では“光”と“狂”は共に“광”と書く︶﹂などという蔑称まで付けられ、作品の評価をうけることは少なかった。李承晩政権下では、反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい。﹂と訴えたとも言われる。 朝鮮戦争中、朝鮮人民軍がソウルを占拠した際に朝鮮民主主義人民共和国に拉致され、以降行方不明。朝鮮人民軍の退却中に殺害されたと言われる。評価
李光洙は元来、当時の西欧由来の﹃近代﹄思想に基づく実力養成論者であったが、それとても弾圧し、独立の希望を奪い、親日路線に走らせたのは大日本帝国植民地当局の圧力であり、李が親日路線に転じてまでも執筆を続けたのは朝鮮民族の力量の養成のためには一旦は︵朝鮮民族よりは近代化において勝っており、国力も高い︶大日本帝国の意を迎えるよりないと考えたからだとされ、彼個人の不明さよりも大日本帝國の植民地支配という構造的暴力・抑圧こそが本質的問題なのだとする意見がある[1]。一方で、李の﹃近代西欧﹄思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が、朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の植民地支配と妥協し、これを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたもので、その点において非難を免れないとの主張もある[2]。