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明治義塾法律学校中退。正岡子規に書を送り、「ホトトギス」創刊後は俳句、写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の「ホトトギス」を支えた。貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多い。句集に『鬼城句集』(1917年)など。



== 略歴 ==

== 略歴 ==

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8人の娘と2人の息子を儲け子宝に恵まれたが、生活は絶えず困窮していたという。しかしながら人脈は深く、51歳の時に代書人を解雇された時には、虚子門下の弁護人を立てて復職を遂げている。

8人の娘と2人の息子を儲け子宝に恵まれたが、生活は絶えず困窮していたという。しかしながら人脈は深く、51歳の時に代書人を解雇された時には、虚子門下の弁護人を立てて復職を遂げている。



[[1938年]](昭和13年)7月頃から胃腸病を患ったとして高崎市の自宅にて静養に入り、9月17日に家人や門人に看取られながら<ref>「ホトトギス」派の俳人、死去『東京日日新聞』1937年(昭和13年)9月18日.『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p703 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>、

[[1938年]](昭和13年)、[[胃癌]]のため高崎市の自宅で死去。74歳没。戒名は青萍院常閑鬼城居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)323頁</ref>。墓所は高崎の[[龍広寺]]。

[[胃癌]]のため自宅で死去。74歳没。戒名は青萍院常閑鬼城居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)323頁</ref>。墓所は高崎の[[龍広寺]]。



== 作風 ==

== 作風 ==

自らも不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、[[身体障碍者]]に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくない表現を用いた句もあること留意する必要がある)、[[阿波野青畝]]など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれる。

自らも不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、[[身体障碍者]]に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくないとされる表現を用いた句もあること留意する必要がある)、[[阿波野青畝]]など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれる。



== 作品 ==

== 作品 ==

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[[Category:1938年没]]

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2024年1月16日 (火) 18:04時点における最新版

村上鬼城
(むらかみ きじょう)
誕生 1865年6月10日
日本の旗 日本 江戸小石川
死没 (1938-09-17) 1938年9月17日(73歳没)
日本の旗 日本 群馬県高崎市
墓地 竜広寺(群馬県高崎市)
職業 俳人
司法代書人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 明治法律学校卒業
ジャンル 俳句
短歌
文学活動 ホトトギス
代表作 『鬼城句集』(1917年)
『鬼城句集續』(1933年)
ウィキポータル 文学
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  1865610517 - 193813917  

退稿(1917)

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811

171884



1913219187

8251

1938137917[1] 74[2]

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句集[編集]

  • 『鬼城句集』
  • 『定本鬼城句集』

脚注[編集]

  1. ^ 「ホトトギス」派の俳人、死去『東京日日新聞』1937年(昭和13年)9月18日.『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p703 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)323頁

参考文献[編集]

  • 『俳句人名辞典』 常石英明編著 金園社

関連文献[編集]

  • 松本旭「村上鬼城の生涯 ―代書人罷免事件について―」『連歌俳諧研究』第1983巻第65号、俳文学会、1983年、32-39頁、doi:10.11180/haibun1951.1983.65_322016年7月24日閲覧