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'''梶田 半古'''(かじた はんこ、[[明治]]3年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[1870年]][[7月23日]]) - [[大正]]6年([[1917年]])[[4月23日]])は、[[明治時代]]の日本画家。 |
'''梶田 半古'''(かじた はんこ、[[明治]]3年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[1870年]][[7月23日]]) - [[大正]]6年([[1917年]])[[4月23日]])は、[[明治時代]]の日本画家。 |
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== 来歴 == |
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[[鍋田玉英]]の門人。本名は錠次郎(ていじろう)。初めは英洲と号す。[[北田薄氷]](きただ うすらい)の夫であった。 |
[[鍋田玉英]]の門人。本名は錠次郎(ていじろう)。初めは英洲と号す。[[北田薄氷]](きただ うすらい)の夫であった。 |
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明治3年(1870年)、彫金家の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。明治16年([[1883年]])、13歳の時、[[浮世絵師]]の鍋田玉英に、明治18年([[1885年]])、15歳で[[南画]]の[[石井鼎湖]]に、さらに翌年、[[菊池容斎]]の門人の[[鈴木華邨]]について各派の筆法を習っている。その後、明治24年([[1891年]])、日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わり、明治29年([[1896年]])、同協会が日本絵画協会に発展し、また明治31年([[1898年]])には日本美術院が創立されるに及んで、特別賛助会員となって活躍し、両会連合の共進会に『春宵怨』(明治35年([[1902年]]))や、『豊年』(明治36年([[1903年]]))など、浪漫的な作品を発表、類型的な旧派の作風に抗して斬新な写実表現に力量を示した。[[風俗画]]を得意とし、雑誌や新聞の挿絵で人気を集め、[[小杉天外]]、[[尾崎紅葉]]らの小説の挿絵などを手がけている。尾崎紅葉の『寒牡丹』の挿絵をしたことで知られている。明治37年([[1904年]])には図案集『若草』を出版した。故事や服飾、図案にも通じていた。 |
明治3年(1870年)、彫金家の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。明治16年([[1883年]])、13歳の時、[[浮世絵師]]の鍋田玉英について絵を学ぶが眼病により中断してしまった。病の癒えた後、明治18年([[1885年]])、15歳で[[南画]]の[[石井鼎湖]]に、さらに翌年、[[菊池容斎]]の門人の[[鈴木華邨]]について各派の筆法を習っている。父の死後は、横浜で工芸品の下絵を描いていた。鈴木華邨に、菊池容斎の木版画集『前賢故実』を紹介され、全図を暗記するほどまでに独学し、人物画を修得している。その後、明治24年([[1891年]])、日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わり、明治29年([[1896年]])、同協会が日本絵画協会に発展し、また明治31年([[1898年]])には日本美術院が創立されるに及んで、特別賛助会員となって活躍し、両会連合の共進会に『春宵怨』(明治35年([[1902年]]))や、『豊年』(明治36年([[1903年]]))など、浪漫的な作品を発表、類型的な旧派の作風に抗して斬新な写実表現に力量を示した。[[風俗画]]を得意とし、雑誌や新聞の挿絵で人気を集め、[[小杉天外]]、[[尾崎紅葉]]らの小説の挿絵などを手がけている。尾崎紅葉の『寒牡丹』の挿絵をしたことで知られている。明治37年([[1904年]])には図案集『若草』を出版した。故事や服飾、図案にも通じていた。 |
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明治40年︵[[1907年]]︶の文展開設後は、展覧会に作品を出品せず、振るわなかったが、新日本画の開拓に挺身した。大正6年︵1917年︶4月23日死去。享年48。墓所は巣鴨の染井墓地である。彼の門下からは[[小林古径]]、[[前田青邨]]、[[奥村土牛]]、[[新井勝利]]ら、次代の俊秀が輩出した。
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明治40年︵[[1907年]]︶の文展開設後は、展覧会に作品を出品せず、振るわなかったが、新日本画の開拓に挺身した。大正6年︵1917年︶4月23日、肺患により死去。享年48。墓所は巣鴨の染井墓地である。彼の門下からは[[小林古径]]、[[前田青邨]]、[[奥村土牛]]、[[新井勝利]]ら、次代の俊秀が輩出した。
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梶田半古の作品の数々は、[[長野県]][[飯田市]]にある[[飯田市美術博物館]]において見ることができる。 |
梶田半古の作品の数々は、[[長野県]][[飯田市]]にある[[飯田市美術博物館]]において見ることができる。 |
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* 浮世絵 [[藤懸静也]]、[[雄山閣]]、1924年 |
* 浮世絵 [[藤懸静也]]、[[雄山閣]]、1924年 |
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* 増訂浮世絵 藤懸静也、雄山閣、1973年 |
* 増訂浮世絵 藤懸静也、雄山閣、1973年 |
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* 日本人名大辞典 上田正昭・平山郁夫・西澤潤一・三浦朱門、講談社、2001年 |
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2010年9月18日 (土) 04:38時点における版
来歴
鍋田玉英の門人。本名は錠次郎︵ていじろう︶。初めは英洲と号す。北田薄氷︵きただ うすらい︶の夫であった。 明治3年︵1870年︶、彫金家の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。明治16年︵1883年︶、13歳の時、浮世絵師の鍋田玉英について絵を学ぶが眼病により中断してしまった。病の癒えた後、明治18年︵1885年︶、15歳で南画の石井鼎湖に、さらに翌年、菊池容斎の門人の鈴木華邨について各派の筆法を習っている。父の死後は、横浜で工芸品の下絵を描いていた。鈴木華邨に、菊池容斎の木版画集﹃前賢故実﹄を紹介され、全図を暗記するほどまでに独学し、人物画を修得している。その後、明治24年︵1891年︶、日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わり、明治29年︵1896年︶、同協会が日本絵画協会に発展し、また明治31年︵1898年︶には日本美術院が創立されるに及んで、特別賛助会員となって活躍し、両会連合の共進会に﹃春宵怨﹄︵明治35年︵1902年︶︶や、﹃豊年﹄︵明治36年︵1903年︶︶など、浪漫的な作品を発表、類型的な旧派の作風に抗して斬新な写実表現に力量を示した。風俗画を得意とし、雑誌や新聞の挿絵で人気を集め、小杉天外、尾崎紅葉らの小説の挿絵などを手がけている。尾崎紅葉の﹃寒牡丹﹄の挿絵をしたことで知られている。明治37年︵1904年︶には図案集﹃若草﹄を出版した。故事や服飾、図案にも通じていた。 明治40年︵1907年︶の文展開設後は、展覧会に作品を出品せず、振るわなかったが、新日本画の開拓に挺身した。大正6年︵1917年︶4月23日、肺患により死去。享年48。墓所は巣鴨の染井墓地である。彼の門下からは小林古径、前田青邨、奥村土牛、新井勝利ら、次代の俊秀が輩出した。 梶田半古の作品の数々は、長野県飯田市にある飯田市美術博物館において見ることができる。作品
- 「男」 版画 石川県立美術館所蔵
- 「暗香疎影」 版画 石川県立美術館所蔵
- 「雪中」 版画 石川県立美術館所蔵
- 「美人図」 版画 石川県立美術館所蔵
- 「桜下美人図・月下美人図」 絹本着色 飯田市美術博物館所蔵