永田広志
表示
永田 広志︵ながた ひろし、1904年4月1日 - 1947年9月7日︶は日本の哲学者である。マルクス主義の立場から活動した。
概要[編集]
長野県東筑摩郡山形村に生まれる。県立松本中学︵後の長野県松本深志高等学校︶に学び、小岩井源一︵後の詩人、高橋玄一郎︶と知り合う[1]。中学時代から哲学に興味を持ち始める。卒業後、1921年に東京外国語学校露語部に入学。クロポトキンら、当時のソ連の哲学動向に関心を持つ。卒業後は一時朝鮮に渡り、国境近い新義州で流入するソ連文献を検閲する任務に当たる。 1927年、パーヴェル・アクセリロード﹃ブルジョア社会学の批判﹄を翻訳して刊行、海外文献の紹介、翻訳につとめる。1930年、川内唯彦のすすめでプロレタリア科学研究所に参加し、唯物弁証法の研究につとめる。1931年には戦闘的無神論者同盟の結成に参加し、日本プロレタリア文化連盟︵コップ︶の結成にも参画、さらには1932年の唯物論研究会の発足にも協力、多くの論文を発表し、日本の唯物論哲学のために貢献した。1936年には﹃日本唯物論史﹄を刊行、安藤昌益や山片蟠桃を取り上げながら、江戸時代からの日本思想の発展を論じた。 日中戦争開戦により1938年に検挙され、釈放後も執筆を禁じられた。太平洋戦争終戦後、発足した民主主義科学者協会に参加、故郷に近い松本での活動につとめたが、結核が悪化してまもなく死去した。 葬儀は無宗教で行われ、高橋玄一郎が作詞した追悼する歌を参列者が合唱した[1]。この時の経験は、高橋の小説﹃無宗教葬﹄に反映されている[1]。年譜[編集]
●1904年︵明治37年︶4月1日 - 長野県東筑摩郡山形村小坂に生まれる ●1910年︵明治43年︶4月 - 山形尋常高等小学校へ入学 ●1916年︵大正5年︶4月 - 長野県立松本中学校に入学 ●1921年︵大正10年︶4月 - 東京外国語学校露語部に入学 ●1922年︵大正11年︶12月 - マルクス主義文献を読みボルシェヴィズムに関心を持つ ●1924年︵大正13年︶- 東京外語学校を卒業し、朝鮮平安北道警察部に勤務 ●1925年︵大正14年︶7月 - 小沢喜美子と結婚 ●1926年︵大正15年︶12月 - 病気のため退職し、郷里山形村へ帰京し静養 ●1927年︵昭和2年︶1月 - 妻が病没 ●1927年11月 -﹃ブルジョア社会学の批判﹄を翻訳出版 ●1930年︵昭和5年︶6月 - 上京︵これまでは郷里にて暮らす︶ ●1930年7月1日 - プロレタリア科学研究所に参加 ●1930年10月 - 唯物弁証法研究会に参加し、同会の再建活動に着手 ●1931年︵昭和6年︶5月 - プロレタリア科学研究所第3回全国大会で中央委員ソヴェート同盟研究会代表に選出される ●1931年10月 - 英文タイピスト北川百合子と再婚 ●1932年︵昭和7年︶4月 - 戸坂潤らと唯物論研究会設立準備を始め、10月に結成 ●1932年5月 - 日本プロレタリア文化連盟への大弾圧で逮捕され29日間の留置を受ける ●1933年︵昭和8年︶1月 - プロレタリア科学同盟結成に参加し、中央部役員などを務める ●1935年︵昭和10年︶1月 - ﹃現代宗教批判講話﹄﹃唯物論哲学のために﹄を出版 ●1935年7月 - 長女が生まれる ●1935年12月 - ﹃唯物史観講話﹄﹃現代唯物論﹄を出版 ●1936年︵昭和11年︶7月 - コム・アカデミー事件で検挙されたが起訴猶予になる。しかし、この留置により病状が悪化ししばらくは郷里で静養 ●1938年︵昭和13年︶11月29日 - 戸坂潤・岡邦雄らと唯物論研究会事件で逮捕される ●1939年︵昭和14年︶- 病気悪化のため保釈出所する ●1941年︵昭和16年︶12月26日 - 第一審で懲役3年の判決を受け、直ちに控訴する ●1942年︵昭和17年︶12月16日 - 第二審で懲役2年6か月の判決を受ける ●1943年︵昭和18年︶- 第二審判決を上告したが、腸結核悪化のため刑執行延期の手続きをとり、郷里山形村に疎開静養 ●1945年︵昭和20年︶- 年末に、戦後再建された共産党に入党 ●1946年︵昭和21年︶1月 - 民主主義科学者協会結成に参加するも上京せず、松本市分銅町に居住[2] ●1947年︵昭和22年︶9月7日 - 病没、享年43脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『唯物辯證法講話』 白揚社 1933年11月11日
- 解説(新日本文庫『日本唯物論史』、河野公平執筆)