コンテンツにスキップ

「浅草松竹演芸場」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
GAGPLUSONE (会話) による ID:84882766 の版を取り消し: m:WikiLoop DoubleCheckバージョン4.1.2を使用したテスト/破壊行為として識別されました。http://doublecheck.wikiloop.org/revision/jawiki/84882766でご覧になるか、意見をお寄せください
タグ: 取り消し
GAGPLUSONE (会話 | 投稿記録)
 
(3人の利用者による、間の6版が非表示)
41行目: 41行目:

** 西[[]]

** 西[[]]

**池袋松竹演芸場 色物主体。戦災で焼失。

**池袋松竹演芸場 色物主体。戦災で焼失。

**五反田松竹演芸場 楽曲主体。戦災で焼失。


** 

**[[新宿松竹館]] 色物主体。1945年4月より軽演劇主体。1946年3月映画館に復帰。松竹の手を離れ、新宿大映・[[新宿ロマン劇場]]を経て[[1989年]][[1月]]に閉館。現在[[コメ兵]]新宿の場所。

**[[新宿松竹館]] 色物主体。1945年4月より軽演劇主体。1946年3月映画館に復帰。松竹の手を離れ[[武蔵野興業|武蔵野映画劇場]]の手に移り新宿ハリウッド・新宿大映・[[新宿ロマン劇場]]を経て[[1989年]][[1月]]に閉館。現在キュープラザ新宿三丁目の場所。



*戦後、上記各館が廃座または映画館に復帰する中で、浅草松竹演芸場だけは軽演劇を中心とした興行を継続。

*戦後、上記各館が廃座または映画館に復帰する中で、浅草松竹演芸場だけは軽演劇を中心とした興行を継続。

59行目: 59行目:

==テレビ中継==

==テレビ中継==

*デン助劇場(NETテレビ=現在の[[テレビ朝日]]) 土曜の午後に放送。デン助劇団(後述)による軽演劇の中継録画。

*デン助劇場(NETテレビ=現在の[[テレビ朝日]]) 土曜の午後に放送。デン助劇団(後述)による軽演劇の中継録画。

*[[コント55号のなんでそうなるの?]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) 金曜19時30分から。[[コント55号]]によるショートコント集の中継録画。なお、1975年と1976年の大晦日21時からの2時間枠で、特別番組として「[[コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?|輝け!特別生放送!!コント55号の…なんてことするの!?紅白歌合戦をブッ飛ばせ!!]]」を生中継した。

*[[コント55号のなんでそうなるの?]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) 金曜19時30分から。[[コント55号]]によるショートコント集の中継録画。なお、1975年と1976年の大晦日21時からの2時間枠で、特別番組として「[[コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?|輝け!特別生放送!!コント55号の…なんてことするの!?紅白歌合戦をブッ飛ばせ!!]]」を生中継した。

*[[サンデーお笑い生中継]]([[MBSテレビ|毎日放送]]・[[TBSテレビ|TBS]]系) 1978~79年に放送の、日曜正午からの[[生放送|生番組]]。[[うめだ花月|うめだ花月劇場]]との2元中継による寄席番組で、東京方の司会を[[タモリ]]、大阪方の司会を[[横山やすし]]と[[斎藤努]](毎日放送アナ)が務めた。なお、この番組はタモリと[[ビートたけし]]が初共演した番組、とも言われている。

*[[サンデーお笑い生中継]]([[毎日放送]]・[[TBSテレビ|TBS]]系) 1978 - 79年に放送の、日曜正午からの[[生放送|生番組]]。[[うめだ花月|うめだ花月劇場]]との2元中継による寄席番組で、東京方の司会を[[タモリ]]、大阪方の司会を[[横山やすし]]と[[斎藤努]](毎日放送アナ)が務めた。なお、この番組はタモリと[[ビートたけし]]が初共演した番組、とも言われている。



==主な出演者==

==主な出演者==

*[[大宮敏光]] 浅草に実在した経師の木村伝助をモデルとした「デン助」を主人公とした「[[デン助劇団]]」による軽演劇を主宰。テレビで毎週劇場中継が行われ、松竹演芸場の、浅草の「顔」として活躍した。

*[[大宮敏光]] 浅草に実在した経師の木村伝助をモデルとした「デン助」を主人公とした「[[デン助劇団]]」による軽演劇を主宰。テレビで毎週劇場中継が行われ、松竹演芸場の、浅草の「顔」として活躍した。

*[[浅香光代]] 1950年代にブームとなった女剣劇の第一人者。大江美智子(戦前)、不二洋子(戦中~戦後)に続くトップスター。若さと色気を武器とし、股旅物を得意とする年は熟女タレントの一人として[[野村沙知代]]と係争し、話題となった。

*[[浅香光代]] 1950年代にブームとなった女剣劇の第一人者。大江美智子(戦前)、不二洋子(戦中~戦後)に続くトップスター。若さと色気を武器とし、股旅物を得意とした年は熟女タレントの一人として[[野村沙知代]]と係争し、話題となった。

*[[宮城まり子]] 歌手。松竹演芸場の舞台では父・宮城秀雄と共に出演し人気を博していた。現在はねむの木学園主宰。

*[[宮城まり子]] 歌手。松竹演芸場の舞台では父・宮城秀雄と共に出演し人気を博していた。その後ねむの木学園主宰した

*[[五月みどり]] 歌手。宮城秀雄に見いだされてデビュー。前座期に松竹演芸場に出演。程なく人気歌手になる。その後は熟女タレントとしても活躍。息子はプロゴルファーの西川哲。

*[[五月みどり]] 歌手。宮城秀雄に見いだされてデビュー。前座期に松竹演芸場に出演。程なく人気歌手になる。その後は熟女タレントとしても活躍。息子はプロゴルファーの西川哲。


*[[]] [[]][[]][[宿]]

*[[内海桂子・好江]] 夫婦漫才をしていた芸者出身の桂子と、両親を漫才師に持つ好江の漫才コンビ。結成当初、30前後の桂子に対し、まだ14~5歳の好江といった年齢差があった事から、常識(桂子)に対する非常識(好江)がネタの基本となった。

*[[内海桂子・好江]] 夫婦漫才をしていた芸者出身の桂子と、両親を漫才師に持つ好江の漫才コンビ。結成当初、30前後の桂子に対し、まだ14~5歳の好江といった年齢差があった事から、常識(桂子)に対する非常識(好江)がネタの基本となった。

*コロムビアトップ・ライト [[コロムビア・トップ]]と[[コロムビア・ライト]]の漫才コンビ。東京漫才の一派・[[青空一門]]の総帥。なお、「司会漫才」として全国を巡業していた事や、東京漫才界分裂騒動の際に日比谷・東宝演芸場を本拠とする一派の代表となった事等から、松竹演芸場に出演していなかった時期がある([[コロムビア・トップ・ライト]]の項を参照)。

*コロムビアトップ・ライト [[コロムビア・トップ]]と[[コロムビア・ライト]]の漫才コンビ。東京漫才の一派・[[青空一門]]の総帥([[コロムビア・トップ・ライト]]の項を参照)。

*[[Wけんじ]] [[東けんじ]]と[[宮城けんじ]]の漫才コンビ。

*Wけんじ [[東けんじ]]と[[宮城けんじ]]の漫才コンビ([[Wけんじ]]の項を参照)


*[[]] W[[ ()|]][[]]

*[[]] W[[ ()|]][[]]

*[[一龍斎貞鳳]] 講談師。テレビ司会者。[[日本放送協会|NHKテレビ]]「お笑い三人組」で活躍。今泉良夫の名義でテレビタレントや執筆活動も行い、一時期参議院議員を務めるなど、マルチタレントのはしりとなった。

*[[一龍斎貞鳳]] 講談師。テレビ司会者。[[日本放送協会|NHKテレビ]]「お笑い三人組」で活躍。今泉良夫の名義でテレビタレントや執筆活動も行い、一時期参議院議員を務めるなど、マルチタレントのはしりとなった。

*[[関敬六]] エノケン劇団出身。一時期浅草税務署に勤務していたが、芸事が忘れられず、浅草フランス座に入り、幕間コントで腕を磨いた。仲間であった[[谷幹一]]や[[渥美清]]とともにスリーポケッツを結成。渥美脱退後も三人は義兄弟の関係を通した。玉川良一と同じく声優としても活躍。「ムッシュムラムラ」の流行語を残す。松竹演芸場では数回にわたり「関敬六劇団」として軽演劇を主宰し、上演していた。

*[[関敬六]] エノケン劇団出身。一時期浅草税務署に勤務していたが、芸事が忘れられず、浅草フランス座に入り、幕間コントで腕を磨いた。仲間であった[[谷幹一]]や[[渥美清]]とともにスリーポケッツを結成。渥美脱退後も三人は義兄弟の関係を通した。玉川良一と同じく声優としても活躍。「ムッシュムラムラ」の流行語を残す。松竹演芸場では数回にわたり「関敬六劇団」として軽演劇を主宰し、上演していた。

77行目: 78行目:

*[[東京コミックショウ]] [[ショパン猪狩]]と[[鯉口潤一]]のコンビ。後に弟子2名が加わる。体を張った大がかりなコントで売るが、代表作はヘビ使いのコント。「レッドスネークカモーン」のフレーズで売った。後に鯉口は弟子を引き連れ分裂。以降猪狩は夫人と、のちに娘とコンビを組み、期間限定で活動を行っていた。

*[[東京コミックショウ]] [[ショパン猪狩]]と[[鯉口潤一]]のコンビ。後に弟子2名が加わる。体を張った大がかりなコントで売るが、代表作はヘビ使いのコント。「レッドスネークカモーン」のフレーズで売った。後に鯉口は弟子を引き連れ分裂。以降猪狩は夫人と、のちに娘とコンビを組み、期間限定で活動を行っていた。

*[[じん弘]]とスリーポインツ ピンポン球に棒を付けた「インチキピンポン」のコントで売った。

*[[じん弘]]とスリーポインツ ピンポン球に棒を付けた「インチキピンポン」のコントで売った。

*ギャグメッセンジャーズ 須一露をリーダーとしたトリオ。本格的な手作り小道具を売り物にした。コメディアン・[[須間一也]](元・[[パワーズ (お笑いコンビ)|パワーズ]])は須一露の長男。

*ギャグメッセンジャーズ 須一露をリーダーとしたトリオ。本格的な手作り小道具を売り物にした。コメディアン・[[須間一也]](元・[[パワーズ (お笑いコンビ)|パワーズ]])は須一露の長男。

*コント55号 [[萩本欽一]]と[[坂上二郎]]の爆笑コント。([[コント55号]]の項を参照)

*コント55号 [[萩本欽一]]と[[坂上二郎]]のコントコンビ。コンビ名は当時の支配人が命名した。([[コント55号]]の項を参照)

*[[ストレートコンビ]] [[橋達也]]と[[花かおる]]のコントコンビ。「ダメなのねー、ダメなのよー」「千葉の女乳搾り」の流行語を生む。TBS「[[8時だョ!全員集合]]」初期のレギュラーでもあった。解散後、橋は「橋達也と笑いの園」を結成。漫才ブームの中、コントで勝負した。晩年は劇団「浅草21世紀」の座長として、浅草発の笑いの復興を目指していた。

*[[ストレートコンビ]] [[橋達也]]と[[花かおる]]のコントコンビ。「ダメなのねー、ダメなのよー」「千葉の女乳搾り」の流行語を生む。TBS「[[8時だョ!全員集合]]」初期のレギュラーでもあった。解散後、橋は「橋達也と笑いの園」を結成。漫才ブームの中、コントで勝負した。晩年は劇団「浅草21世紀」の座長として、浅草発の笑いの復興を目指していた。


*[[殿]] 1975

*[[殿さまキングス]] 元々はコミックバンド。長田あつしがリーダー。「おんなの操」(1975年)で本格的演歌歌手に転身。解散後長田は「オヨネーズ」を結成して「麦畑」を発表。

*[[立川談志]] 落語家。松竹演芸場でも落語や漫談を演じ、一門会が催された事もあった。

*[[立川談志]] 落語家。松竹演芸場でも落語や漫談を演じ、一門会が催された事もあった。


*[[|]] 

*[[|]] 

*[[]] 調調

*[[]] 調調

*[[コント・ラッキー7|ラッキーセブン]] [[関武志]]と[[ポール牧]]のコンビ。社会派コントを得意とした。ポールがキザなやさ男を演じ、関が労務者の格好で登場。「本音と建前」「虚栄と清貧」といった人間の本質を主題としたネタが多かった。ポールの指パッチンのギャグでも売った。

*[[コント・ラッキー7|ラッキーセブン]] [[関武志]]と[[ポール牧]]のコンビ。社会派コントを得意とした。ポールがキザなやさ男を演じ、関が労務者の格好で登場。「本音と建前」「虚栄と清貧」といった人間の本質を主題としたネタが多かった。ポールの指パッチンのギャグでも売った。

*[[青空球児・好児]] 司会漫才・コロムビアトップ一門。球児はトップに入門後、浅草・東洋劇場に入りコントを修行。幾つかのトリオコントに参加・脱退を繰り返し、現在の好児とコンビを結成。[[ホリプロ]]に所属し、テレビを中心に活躍。「ゲロゲーロ」の流行語を生む。現在「浅草21紀」にも参加

*[[青空球児・好児]] 青空(コロムビアトップ一門。球児はトップに入門後、浅草・東洋劇場に入りコントを修行。幾つかのトリオコントに参加・脱退を繰り返し、現在の好児とコンビを結成。[[ホリプロ]]に所属し、テレビを中心に活躍。「ゲロゲーロ」の流行語を生む。球児漫才協会名誉会長、好児は[[田谷区]]議会議員


*[[]] [[]]2003[[]]

*[[]] [[]]2003[[]]

*[[昭和のいる・こいる]] [[獅子てんや・瀬戸わんや]]一門。こいる(リーゼント頭)の人を小馬鹿にしたような飄々とした早口のボケが売り。「昭和」の亭号を持ちながら、実に平成はおろか21世紀に入ってから漸く売れ出した遅咲きコンビ。

*[[昭和のいる・こいる]] [[獅子てんや・瀬戸わんや]]一門。こいる(リーゼント頭)の人を小馬鹿にしたような飄々とした早口のボケが売り。「昭和」の亭号を持ちながら、実に平成はおろか21世紀に入ってから漸く売れ出した遅咲きコンビ。

*[[松鶴家千とせ]] 漫談家。歌手。元漫才師。松鶴家千代若・千代菊一門の惣領。「イェー」「シャバデゥビヤ」「わっかるかなぁ~わっかんねぇだろうなぁ~」といった流行語で1974年突如一世を風靡。アフロヘアーにレイバンのサングラス、ドジョウヒゲがトレードマークだった


*[[]] 196919701971[[NHK]]3退1974

*[[]] [[]]

*[[]] [[]]

*[[春日三球・照代]] 夫婦漫才コンビ。地下鉄車両はどこから入れるのかを題材にした「地下鉄漫才」がヒット。三球はリーガル千太・万吉門下で、照代は上方少女漫才の出身。三球は初めクリトモ一休・三休として漫才を始めたが、相棒一休を[[三河島事故]]で亡くし、また照代にも病気で先立たれてしまう。その後は「地下鉄漫談」として一人舞台に立


*[[]] [[]]

*[[バラクーダ (コミックバンド)|バラクーダ]] 自称・中小企業楽団。「日本全国酒のみ音頭」を発表し、ヒット作となる。現在は新メンバーで活動再開。

*[[バラクーダ (コミックバンド)|バラクーダ]] 自称・中小企業楽団。「日本全国酒のみ音頭」を発表し、ヒット作となる。現在は新メンバーで活動再開。


*[[]] 

*[[]] 

*[[]] 

*[[]] 

*[[はたけんじ]] 物真似。形態模写と声帯模写の両方で活躍。若人あきらや片岡鶴太郎と「マネルズ」なるユニットを組んでいた事も。[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]の師匠。

*[[はたけんじ]] 物真似。形態模写と声帯模写の両方で活躍。若人あきらや片岡鶴太郎と「マネルズ」なるユニットを組んでいた事も。[[コロッケ (タレント)|コロッケ]]の師匠。

*[[星セント・ルイス]] 都会的センスとテンポの良さで70年代後半の東京漫才をリードした。「俺たちに明日はない、キャッシュカードに残は無い」「田園調布に家が建つ」のフレーズで売った。セントは獅子てんや・瀬戸わんやの、ルイスは晴乃ピーチク・パーチクの一門。2002年解散後、2004年セントが、2005年ルイスがそれぞれ鬼籍に。セントの弟子にB21スペシャルのリーダー・[[ヒロミ]]がいる(詳細は[[星セント・ルイス]]の項を参照のこと)。

*星セント・ルイス 都会的センスとテンポの良さで70年代後半の東京漫才をリードした。「俺たちに明日はない、キャッシュカードに残は無い」「田園調布に家が建つ」のフレーズで売った。セントは獅子てんや・瀬戸わんやの、ルイスは晴乃ピーチク・パーチクの一門。2002年解散後、2004年セントが、2005年ルイスがそれぞれ鬼籍に。セントの弟子にB21スペシャルのリーダー・[[ヒロミ]]がいる(詳細は[[星セント・ルイス]]の項を参照のこと)。

*[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]] 島田洋七と洋八の漫才コンビ。1980年前後の漫才ブームで瞬く間に頂点を極める。絶頂期は睡眠時間が皆無だった程売れていた。大阪の[[吉本興業]]出身で、島田洋之介・今喜多代一門。[[島田紳助]]は同門。コンビ解散後紆余曲折を経て復活。

*[[B&B (お笑いコンビ)|B&B]] [[島田洋七]][[島田洋八]]の漫才コンビ。1980年前後の漫才ブームで瞬く間に頂点を極める。絶頂期は睡眠時間が皆無だった程売れていた。大阪の[[吉本興業]]出身で、島田洋之介・今喜多代一門。[[島田紳助]]は同門。コンビ解散後紆余曲折を経て復活。

*[[ツービート]] [[ビートたけし]]([[映画監督]]・北野武)と[[ビートきよし]]の漫才コンビ。松鶴家千代若・千代菊一門。山形ネタ、老人いじめ、ブスいじめ、終電じゃんけん、大学差別等タブーに挑戦したブラックユーモア(自称「毒ガス」)で売り出す。「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」の流行語は、今日一般に常用されるまでに浸透。漫才ブームでの絶頂時からたけしときよしに格差が生じ、半解散状態のまま現在に至る。(詳細は[[ツービート]]の項を参照のこと)

*ツービート [[ビートたけし]]([[映画監督]]・北野武)と[[ビートきよし]]の漫才コンビ。松鶴家千代若・千代菊一門。山形ネタ、老人いじめ、ブスいじめ、終電じゃんけん、大学差別等タブーに挑戦したブラックユーモア(自称「毒ガス」)で売り出す。「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」の流行語は、後に一般に常用されるまでに浸透。漫才ブームでの絶頂時からたけしときよしに格差が生じ、半解散状態のまま現在に至る。(詳細は[[ツービート]]の項を参照のこと)

*[[ナポレオンズ]] ボナ植木とパルト小石のコンビ。[[奇術師]]であり漫才師ではないが、舞台では喋りまくる。[[ミスターマリック]]のライバルとしてテレビ出演したこともある。

*[[ナポレオンズ]] ボナ植木とパルト小石のコンビ。[[奇術師]]であり漫才師ではないが、舞台では小石が喋りまくり、それを寡黙な植木が受けて手品を進行す形を採った。[[ミスターマリック]]のライバルとしてテレビ出演したこともある。


*[[]] [[|]][[]][[]][[]][[]][[]]

*[[]] [[|]][[]][[]][[]][[]][[]]

*[[シティボーイズ]] 新劇出身。[[大竹まこと]]、[[斉木しげる]]、[[きたろう]]のトリオコント。都会派コントで頭角を現す。

*[[シティボーイズ]] 新劇出身。[[大竹まこと]]、[[斉木しげる]]、[[きたろう]]のトリオコント。都会派コントで頭角を現す。

111行目: 112行目:


== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

*[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/engei/KFullNormal20071208002.html 浅草・松竹演芸場名物支配人、遠藤さんを悼む] - [[スポーツニッポン|スポニチ演芸館]](2007年12月5日の記事)

*{{Wayback|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/column/engei/KFullNormal20071208002.html |title=浅草・松竹演芸場名物支配人、遠藤さんを悼む |date=20150629121417}} - [[スポーツニッポン|スポニチ演芸館]](2007年12月5日の記事)



{{DEFAULTSORT:あさくさしようちくえんけいしよう}}

{{デフォルトソート:あさくさしようちくえんけいしよう}}

[[Category:かつて存在した演芸場]]

[[Category:かつて存在した演芸場]]

[[Category:松竹の歴史]]

[[Category:松竹の歴史]]

[[Category:浅草の歴史]]

[[Category:浅草の歴史]]

[[Category:存しない京都建築物]]

[[Category:かつてた台劇場]]

[[Category:戦前の東京]]

[[Category:戦前の東京]]

[[Category:戦後の東京]]

[[Category:戦後の東京]]


2024年2月25日 (日) 12:15時点における最新版

浅草松竹演芸場

{{{size}}}
画像をアップロード

情報
正式名称 浅草松竹演芸場
旧名称 浅草松竹館
開館 1944年5月1日
閉館 1983年11月10日
収容人員 380人
用途 演芸の興行
旧用途 映画上映
運営 松竹株式会社
所在地 111
東京都台東区浅草1丁目25-15
テンプレートを表示


沿[]


194451 
3


 西

 

 

宿 1945419463宿宿宿19891宿



1960

1973

19831110ROX

[]


304050

TOC

205

[]


NET 

55? 19305519751976212!!!55!?!!

TBS 1978 - 792

[]


 

 1950

 

 西

 宿

 30145

 

W W

 W

 NHK

 退

 

 

 2使

 

 

55 55

 TBS8!21

殿 1975

 

 

 調調

 

 退

 2003

 鹿21

 196919701971NHK3退1974

 

 

 

 

 

 

 70調200220042005B21

B&B 1980

 !

 

 

 

[]




303使

[]


 2001820

  20211

[]


 - 2015629 - 2007125