獅子てんや・瀬戸わんや
表示
獅子てんや(右)・瀬戸わんや(左)(1955年) | |
メンバー |
獅子てんや(本名:佐々木久雄) 生年月日:1924年6月25日 没年月日:2014年頃 瀬戸わんや(本名:妹尾重夫) 生年月日:1926年3月10日 没年月日:1993年2月10日(66歳没) |
結成年 | 1952年 |
解散年 | 1993年(わんやの死去による) |
活動時期 | 1952年 - 1992年(実質的には1987年) |
師匠 | 内海突破 |
出会い | 内海突破の門下生同士 |
旧コンビ名 | 獅子 |
芸種 | 漫才 |
過去の代表番組 | 家族そろって歌合戦 |
受賞歴 | |
サンケイ漫才コンクール優勝(1956年) 第1回NHK漫才コンクール優勝(1957年) 日本放送作家協会大衆芸能賞(1967年) 他 |
獅子てんや・瀬戸わんや︵しし てんや・せと わんや︶、略称‥てんやわんやは、戦後長きにわたり活躍した漫才コンビ。大柄のてんやが、小柄で額の禿げ上がったわんやをいびり、わんやがムキになって怒るスタイルで人気を博した。前職は警察官と市職員であり、二人とも地方公務員だった。
佐々 木 久雄︵
1937年に高等小学校を中退し、東京市芝区三田︵現・港区三田︶の電機製品工場に就職。徴用で豊島区池袋の軍需工場に移り、1943年、19歳で海軍に応召。追浜・霞ケ浦の予科練で敗戦を迎える。間もなく警視庁に採用され、原宿警察署・丸の内警察署の巡査を経て、1950年の国家警察予備隊︵自衛隊の前身︶の発足とともに分隊長に昇進。しかし、柔道訓練中の怪我で療養中にラジオから流れる漫才に心奪われた。退院後、柳家金語楼や榎本健一に弟子入り志願をするが、断られ、当時人気絶頂の内海突破に警察手帳を示して1週間通い続け、根負けした師匠から弟子入りを許されたというが真偽は不明である[2]。わんやの活動休止後、1990年、菩提寺で授戒、﹁徳菴宗光居士﹂と法名を得た。相方わんやの死後は芸能界から退き、妻の勧めで在家仏教協会に入会、講演活動を行った。漫才研究家の神保喜利彦が弟子の昭和のいるに取材した所、2014年頃に亡くなったとのことである[2]。
瀬戸 わんや︵せと わんや、1926年︿大正15年﹀3月10日 - 1993年︿平成5年﹀2月10日︶
大阪府大阪市南区︵現・中央区︶生まれ、本名‥妹尾 重夫︵ しげお︶。ツッコミ役。
1940年の高等小学校卒業後、大阪市港湾局で給仕をしつつ関西工業学校の夜学に通う。1943年に応召で繰上げ卒業。戦後、大阪市港湾局に土木技師として復職したが、1952年に漫才師を志し上京。職場の先輩にあたる内海突破に入門し、年上の弟弟子てんやとコンビを組む。1987年に糖尿病の悪化で事実上の引退。1993年脳梗塞で死去、66歳没。