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渡辺政香︵わたなべ まさか、安永5年7月16日︵1776年︶ - 天保11年9月28日︵1840年︶︶は、江戸時代の国学者・神職。﹃参河誌﹄﹃鴨の騒立﹄の編纂者として知られている。
略歴
渡辺政香は1776年に三河国幡豆郡寺津村︵現在の愛知県西尾市︶の寺津八幡宮で代々神職を務める家に生まれた。父は渡辺助三郎、母、りや。1790年︵寛政2年︶に浜島錦城︵文貞・文亭︶に入門し和漢の史籍を学ぶ。この時に﹃参河誌﹄の編集を決意する。この後、伊勢の漢詩人の山口凹巷に師事した。1799年︵寛政11年︶に渡辺家14代目として家督を相続し、1807年︵文化4年︶に京都の神祇伯白川家に入門した。1823年︵文政6年︶には伊勢の国学者、足代弘訓に和歌を学んでいる。同じ三河の羽田野敬雄︵羽田八幡宮文庫︵現・愛知県豊橋市︶の創設者︶とも交遊した。1836年︵天保7年︶ に﹃参河誌﹄を完成する。また、同年9月に三河国加茂郡で起こった一揆を﹃鴨の騒立﹄に、同月の寺津村の一揆では、その調停すると共に﹃寺津村旧記﹄に記録した。1840年︵天保11年︶に64歳で亡くなった。後年、寺津八幡社に顕彰碑が建てられている。
号・字・通称
渡辺政香は国学のほか漢詩や和歌などを学び、多くの学者や文人墨客と交流があった。そのため多くの号︵ごう︶を用いていた。保宝葉園・磯泊散人・臥蝶園・仙雲亭寿山・同心軒などである。このうちの磯泊散人と臥蝶園については、政香の生まれた土地よりその由来が推察できる。﹁磯泊︵しはと︶﹂とは和名類聚抄にある幡豆郡八郷うちの一つで﹁しはつ﹂とも読み、転じて幡豆の語源ともいわれる地名であり、それに号に添えて用いる語の﹁散人﹂︵本来は﹁俗世間の雑事から離れて気ままに暮らす人﹂などの意味︶を合わせたものと思われる。また﹁臥蝶﹂は寺津八幡社と縁の深い大河内氏の家紋︵かつて大河内氏が城主であった寺津城︵1561年頃に廃城︶は臥蝶城と呼ばれていた︶で、それに蝶の飛びかう場所と掛けて﹁園﹂︵果樹・花・野菜などを植えた区画された所︶を合わせたものであろう。
字︵あざな︶は三善といい、通称は順輔・普磋吉・助太夫と名乗っていた。
主な著作
●﹃参河誌﹄︵全43巻︶
●﹃鴨の騒立﹄
●﹃天保甲斐国騒立﹄
●﹃寺津村旧記﹄
●﹃参河めぐりの記﹄
関連
寺津八幡社
渡辺政香が神職を務めた寺津八幡社は西尾市寺津町西市場にある神社で、建久年間︵1190年〜1199年︶に大河内氏の初代、顕綱︵あきつな︶によって創建されたとされる。1632年︵寛永9年︶の社殿改築時に東照宮を合祀した。祭神は誉田別尊、徳川家康で旧社格は県社。大河内氏︵大河内松平家︶との関わりは深く、境内に﹁大河内氏発祥地﹂や末裔である大河内正敏︵物理学者︶による﹁八幡宮﹂の碑が建つ。
大河内︵おおこうち︶氏は源頼政の孫の顕綱が三河国額田郡大河内郷︵現・岡崎市内と思われる︶に移り住み、土地の名を称したのが始まりであるとされる。従って本来この地は発祥地ではないが、初代によって神社が創建されたという由来や、10代信政の時に寺津城を築くなど、長い間寺津を領地とした関係で﹁大河内氏発祥地﹂の碑が建てられたものと思われる。
寺津八幡書庫
﹃参河誌﹄を編纂するにあたり、三河のみならず、江戸や京、大坂などから書写したり蒐集した膨大な史料や、自らの著作を納めるために1823年︵文政6年︶に造った。
収蔵されていた本は、現在﹁寺津八幡書庫旧蔵本﹂として西尾市岩瀬文庫に納められている。
関連項目