「白根多助」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
→参考文献: 調整 |
編集の要約なし |
||
2行目: | 2行目: | ||
==経歴== |
==経歴== |
||
[[周防国]][[吉敷郡]][[吉敷村]]佐畑︵現[[山口県]][[山口市]]︶で、長州藩士・太田直猷の七男として生まれ、白根兼清の養子となる。藩では[[美祢郡|美禰郡]]宰として出仕し、さらに[[大坂]][[藩邸]]で勤務した。[[文久]]3年︵[[1863年]]︶[[3月 (旧暦)|3月]]、[[中山忠光]]らの長州移送に尽力した。文久4年︵[[1864年]]︶正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事︵代官︶、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した<ref name="me"/><ref>﹃幕末維新大人名事典﹄上巻、668頁。</ref>。
|
[[周防国]][[吉敷郡]][[吉敷村]]佐畑︵現[[山口県]][[山口市]]︶で、長州藩士・[[太田直猷]]の七男として生まれ、[[白根兼清]]の養子となる。藩では[[美祢郡|美禰郡]]宰として出仕し、さらに[[大坂]][[藩邸]]で勤務した。[[文久]]3年︵[[1863年]]︶[[3月 (旧暦)|3月]]、[[中山忠光]]らの長州移送に尽力した。文久4年︵[[1864年]]︶正月、帰藩後に所帯方役に就任し会計を担当。以後、会計庶務方、美禰部署管事︵代官︶、山口藩会計大属などを歴任し、藩財政の維持に尽力した<ref name="me"/><ref>﹃幕末維新大人名事典﹄上巻、668頁。</ref>。
|
||
[[明治政府]]に出仕し、明治4年︵[[1871年]]︶[[11月 (旧暦)|11月]]、埼玉県権[[参事]]に就任。同参事を経て、[[1873年]]12月、同[[県令|権令]]となり、[[1875年]]12月、同県令に昇進した。地方税制の軽減に務め、時には政府と対立することもあった。その他、教育、産業の育成に尽力し、当時から名県令と謳われた。在任中に病により死去<ref name="me"/><ref>﹃新編日本の歴代知事﹄306頁。</ref>。
|
[[明治政府]]に出仕し、明治4年︵[[1871年]]︶[[11月 (旧暦)|11月]]、埼玉県権[[参事]]に就任。同参事を経て、[[1873年]]12月、同[[県令|権令]]となり、[[1875年]]12月、同県令に昇進した。地方税制の軽減に務め、時には政府と対立することもあった。その他、教育、産業の育成に尽力し、当時から名県令と謳われた。在任中に病により死去<ref name="me"/><ref>﹃新編日本の歴代知事﹄306頁。</ref>。
|
||
16行目: | 16行目: | ||
*日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 |
*日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。 |
||
*[[安岡昭男]]編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。 |
*[[安岡昭男]]編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。 |
||
*上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。 |
*[[上田正昭]]他『日本人名大辞典』講談社、2001年。 |
||
{{-}} |
{{-}} |
||
{{埼玉県知事|官選第2代:1873-1882|権令・県令}} |
{{埼玉県知事|官選第2代:1873-1882|権令・県令}} |
2016年1月8日 (金) 15:56時点における版
白根 多助︵しらね たすけ、1819年6月27日︵文政2年5月6日︶- 1882年︵明治15年︶3月15日[1]︶は、幕末の長州藩士、明治期の内務官僚。埼玉県令。旧姓・太田、諱・翼、通称・多助、変名・大田翼、号・梅園[1]。