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「石上露子」の版間の差分

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== 略歴 ==

== 略歴 ==

[[1882年]][[6月11日]]、[[大阪府]][[ 石川郡(大阪府)|石川郡]][[富田林村]](現在の[[富田林市]])で、裕福な大地主かつ[[造り酒屋]]である杉山家の長女として誕生。幼年期は旧家の長女として、琴や和歌、漢籍、日本画、上方舞などを学ぶ。[[1903年]](明治36年)、21歳の時、[[与謝野鉄幹]]が主宰する[[新詩社]]の社友となり、同社の雑誌「明星」に短歌を寄稿する。[[1907年]](明治40年)、「明星」明治40年12月号に代表作となる「小板橋」を発表。

[[1882年]][[6月11日]]、[[大阪府]][[石川郡 (大阪府)|石川郡]][[富田林村]](現在の[[富田林市]])で、裕福な大地主かつ[[造り酒屋]]である杉山家の長女として誕生。幼年期は旧家の長女として、琴や和歌、漢籍、日本画、上方舞などを学ぶ。[[1903年]](明治36年)、21歳の時、[[与謝野鉄幹]]が主宰する[[新詩社]]の社友となり、同社の雑誌「明星」に短歌を寄稿する。[[1907年]](明治40年)、「明星」明治40年12月号に代表作となる「小板橋」を発表。

同年12月に旧家どうしの婿養子縁組で結婚。文筆活動に夫の理解を得られることがなく、翌[[1908年]]には新詩社を退社させられ、本人の意思とは別に断筆に至るなど、不幸な結婚生活を送った。

同年12月に旧家どうしの婿養子縁組で結婚。文筆活動に夫の理解を得られることがなく、翌[[1908年]]には新詩社を退社させられ、本人の意思とは別に断筆に至るなど、不幸な結婚生活を送った。

2男児を設けるも、後年に夫の投機の失敗による杉山家の没落を経て夫と別居し、[[1931年]](昭和6年)から「明星」の後身「[[冬柏]](とうはく)」に短歌の寄稿を始める。

2男児を設けるも、後年に夫の投機の失敗による杉山家の没落を経て夫と別居し、[[1931年]](昭和6年)から「明星」の後身「[[冬柏]](とうはく)」に短歌の寄稿を始める。


[[1959]]34[[108]][[]]78[[]]

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== 評価 ==

== 評価 ==


2013年10月23日 (水) 17:07時点における版

石上 露子
(いそのかみつゆこ)
ペンネーム 石上 露子、ゆふちどり等
誕生 杉山孝
1882年6月11日
日本の旗 日本大阪府富田林市
死没 (1959-10-08) 1959年10月8日(77歳没)
職業 作家歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 梅花女学校中退
ジャンル 詩歌短歌
主題 恋愛感情
代表作小板橋』(1907年)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

  188215611 - 195934108   


188261119033621稿1907404012 12婿1908退219316稿 19593410878


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姿



19591030

姿


  1959
  • 「明星」時代の作品
  • 「冬柏」時代の歌
  • 本人が記した自伝

評論

脚注

  1. ^  「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方見まもる」の歌は 明治37年『明星』7月号に発表。同9月号で、与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表。
  2. ^ 生田春月の「日本近代名詩集」(1919年)「石上露子 もと新詩社の同人たりし事の外知るところなきも『小板橋』一篇は絶唱なれば特に収む」
  3. ^ 「明治美人伝(第9回)石上露子」読売新聞1913年7月3日