山川登美子
山川登美子︵やまかわ とみこ、1879年︵明治12年︶7月19日 - 1909年︵明治42年︶4月15日︶は、滋賀県遠敷郡竹原村︵現福井県小浜市︶出身の歌人。本名・とみ。弟は小説家の山川亮。
略歴[編集]
1879年︵明治12年︶7月19日、滋賀県遠敷郡竹原村︵現福井県小浜市︶に山川貞蔵、ゑいの4女として生まれる[1]。生家は小浜藩の上級藩士の旧家筋であった[1]。1895年︵明治28年︶、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年︵明治30年︶同校を卒業[1]。同年12月、﹃新声﹄に短歌を初めて投稿し入選する[1]。 1900年︵明治33年︶4月、母校の研究生となり英語を専修。同年6月、与謝野鉄幹が創った東京新詩社﹃明星﹄の社友となり[1]、8月には鉄幹と与謝野晶子︵旧姓・鳳︶に出会う[1]。1901年︵明治34年︶4月、鉄幹を慕っていたが、親の勧めた縁組により一族の山川駐七郎と結婚するも[1]、翌年死別[1]。1903年︵明治36年︶1月、婚家を離縁し、生家に復籍[2]。 1904年︵明治37年︶、日本女子大学英文科予備科に入学[1]︵1907年︵明治40年︶3月まで在学︶。1905年︵明治38年︶、与謝野晶子・増田雅子︵茅野雅子︶と共著﹃恋衣﹄を刊行する[1]。同年11月、急性腎臓炎のために入院し、それが原因で呼吸器疾患を患う[1]。1909年︵明治42年︶4月15日、呼吸器疾患が原因で[1]、生家で死去[3]。満29歳[1]。墓所は小浜市発心寺。戒名は登照院妙美大姉[4]。歌風[編集]
歌風は﹃新古今和歌集﹄の影響を強く受けているとされるが、自身の恋情などを歌の根底に置く特徴がある[1]。また、自分の感情を直接表現するのではなく、自分の心を目に見える物に置き換えた後、その置き換えた物に思いを託し、象徴化して歌う特徴がある[1]。備考[編集]
●与謝野鉄幹から﹁白百合﹂と称される[1]。なお、林瀧野は﹁白芙蓉﹂、与謝野晶子は﹁白萩﹂、増田雅子は﹁白梅﹂、玉野花子は﹁白菫﹂という愛称であった[1]。 ●死去を知った石川啄木は、ローマ字日記に﹁薄幸なる女詩人山川登美子女史は遂に死んだのか?!﹂と書き記した[5]。 ●出身校である梅花女学校︵現‥梅花女子大学︶主催で﹁梅花・山川登美子短歌賞﹂が設けられている。 ●生前は合同歌集﹃恋衣﹄に参加したのみで個人歌集はなかったが、2011年に今野寿美により﹃山川登美子歌集﹄︵岩波文庫︶がまとめられた。著書[編集]
●﹃山川登美子全集 上巻 (本文篇)﹄坂本政親編 光彩社 1972 ●﹃山川登美子全集 下巻 (研究・資料篇)﹄坂本政親編 光彩社 1973 ●﹃山川登美子全集﹄坂本政親編 文泉堂出版 1994 ●﹃山川登美子歌集﹄今野寿美編 岩波文庫、2011関連書籍[編集]
●田辺聖子﹃千すじの黒髪 我が愛の與謝野晶子﹄文藝春秋 1972 のち文春文庫 1975 主題は与謝野晶子だが、﹁登美子は晶子と同等か、もしくは一級上に据えても然るべき歌人と、私は愛さずにいられない﹂(単行本302頁)と書くように、登美子への言及も多い(全体で約60頁)。- 津村節子『白百合の崖 山川登美子・歌と恋』新潮社 1983 のち文庫、講談社文芸文庫
- 竹西寛子『山川登美子 「明星」の歌人』講談社 1985
- 白崎昭一郎『山川登美子と明治歌壇』吉川弘文館 1996
- 直木孝次郎『山川登美子と与謝野晶子』塙書房 1996
- 今野寿美『わがふところにさくら来てちる 山川登美子と「明星」』五柳書院 1998
- 『図録山川登美子』「若狭を謳う」実行委員会 福井県立若狭図書学習センター 2000
- 『山川登美子私論 清部千鶴子小論集』短歌新聞社 2002
- 『山川登美子の世界 夭折の歌人』安田純生監修 山川登美子倶楽部「しろゆりの会」編 青磁社 2007
- 木村勲『鉄幹と文壇照魔鏡事件 山川登美子及び「明星」異史』国書刊行会 2016
参考文献[編集]
- 永井一顕「山川登美子 明星で頭角 晶子らと歌集」読売新聞日曜版(13版) 2010年10月10日