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石上露子

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石上 露子
(いそのかみつゆこ)
ペンネーム 石上 露子、ゆふちどり等
誕生 杉山 孝(すぎやま たか)
1882年6月11日
日本の旗 日本大阪府富田林市
死没 (1959-10-08) 1959年10月8日(77歳没)
職業 作家歌人
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 梅花女学校中退
ジャンル 詩歌短歌
主題 恋愛感情家族反戦
代表作小板橋』(1907年)
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  188215611 - 195934108   


188261119033621稿1907404012 12婿1908退219316稿 19593410878


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エピソード

  • 長谷川時雨美人伝で紹介されており[3]、美人であるとして広く人物と作品が知られるようになった。
    • 「かつて、雑誌『明星』には、すぐれた五人の詩人があった。晶子、とみ子花子雅子とこの露子とで、其うちの最も美しき女と唄われ、其歌の風情と、姿の趣とあはせて、白菊の花にたとへられてゐた」
  • 地元でも美人で評判であり、わらべ歌で「富田林の酒屋の娘、大和河内にない器量」と歌われた。
  • 自身の歌集の初発表は1959年10月30日のことであり、生前には一冊も発表されなかった。
  • 山崎豊子の『花紋』では、主人公の境遇と石上露子の生涯で重なる部分が非常に多く、同作の婦人公論での連載中からも主人公のモデルであるといわれていた。ただし著者は「そのままのモデルではなく、女神のごとき女流歌人の背後に悪魔の声と姿のイメージを創り上げた」と否定している。(中央公論社初版あとがき)

作品

  • 松村緑 『石上露子集』 中公文庫、1959年
    • 「明星」時代の作品
    • 「冬柏」時代の歌
    • 本人が記した自伝
  • 大谷渡 『石上露子全集』 東方出版、1998年
    • 他雑誌発表作品も加えた個人全集

評論

脚注

  1. ^  「みいくさに こよひ誰が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方見まもる」の歌は 明治37年「明星」7月号に発表。同9月号で、与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」を発表。(生家近くの公園にある歌碑には、南山の戦い(明治37年5月)で地元から多くの戦死者を出したことが契機と解説されている。)
  2. ^ 生田春月の「日本近代名詩集」(1919年)「石上露子 もと新詩社の同人たりし事の外知るところなきも『小板橋』一篇は絶唱なれば特に収む」
  3. ^ 「明治美人伝(第9回)石上露子」読売新聞1913年7月3日






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