「立憲国民党」の版間の差分
編集の要約なし |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
(14人の利用者による、間の21版が非表示) | |||
2行目: | 2行目: | ||
|国名 = {{JPN}} |
|国名 = {{JPN}} |
||
|党名 = 立憲国民党 |
|党名 = 立憲国民党 |
||
|公用語名 = |
|公用語名 = {{kyujitai|'''立憲󠄁國民黨'''}} |
||
|色相 = #FF0000 |
|||
|成立年月日 = [[1910年]](明治43年)3月14日 |
|||
|成立年月日 = [[1910年]][[3月13日]]<ref>[[宇野俊一]]ほか編 ﹃日本全史︵ジャパン・クロニック︶﹄ [[講談社]]、1991年、1002頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref>
|
|||
|前身政党 = [[憲政本党]] |
|||
|前身政党 = [[憲政本党]]<ref name="nipponica">阿部恒久. [https://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A-148944#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年9月20日閲覧。</ref><br/>[[又新会]]<ref name="nipponica"/><br/>無名会<ref name="nipponica"/><br/>[[戊申倶楽部]]{{small|(一部)}}<ref name="nipponica"/> |
|||
|解散年月日 = [[1922年]](大正11年)9月1日 |
|||
|解散年月日 = [[1922年]][[9月1日]]<ref>[[宇野俊一]]ほか編 ﹃日本全史︵ジャパン・クロニック︶﹄ [[講談社]]、1991年、1030頁。ISBN 4-06-203994-X。</ref>
|
|||
|解散理由 = [[第14回衆議院議員総選挙]]の敗北 |
|||
|解散理由 = 党勢の不振<ref name="nipponica"/> |
|||
|後継政党 = [[革新倶楽部]] |
|後継政党 = [[革新倶楽部]]<ref name="nipponica"/> |
||
|郵便番号 = |
|郵便番号 = |
||
|本部所在地 = |
|本部所在地 = |
||
|政治的思想・立場 = [[税制]]整理<ref name="nipponica"/><br />[[革新|政治革新]]<ref name="kakushin">[https://kotobank.jp/word/%E9%9D%A9%E6%96%B0%E4%BF%B1%E6%A5%BD%E9%83%A8-1153697 世界大百科事典 第2版 - かくしんクラブ【革新俱楽部】] [[コトバンク]]. 2018年5月7日閲覧。</ref><br/>[[立憲主義]]<ref name="shimbun"/><br />[[民党]]主義<ref name="sekai">[https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%9A-499869#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88 こくみんとう【国民党】 - 世界大百科事典 第2版]. [[コトバンク]]. 2019年2月28日閲覧。</ref> |
|||
|政治的思想・立場 = |
|||
|機関紙 = |
|機関紙 = |
||
|シンボル = |
|シンボル = |
||
16行目: | 17行目: | ||
|その他 = |
|その他 = |
||
}} |
}} |
||
'''立憲国民党'''(りっけんこくみんとう)は、[[日本]]の[[明治]]末期・[[大正]]時代の[[政党]]。 |
'''立憲国民党'''(りっけんこくみんとう、{{旧字体|'''立憲󠄁國民黨'''}}<ref name="shimbun"/>)は、[[日本]]の[[明治]]末期・[[大正]]時代の[[政党]]。 |
||
== |
== 概要 == |
||
大日本帝国の国政において、二大政党の一翼を担った[[立憲改進党]]の系譜に属する。明治後期から一党優位状態にあった[[立憲政友会]]と対峙したが、[[立憲同志会]]が結党すると野党第一党の座を譲ることになり、党勢は縮小、解党に至ることになる。
|
|||
⚫ | [[立憲政友会]]が藩閥政府 |
||
== 党史 == |
|||
⚫ | |||
⚫ |
明治後期の日本の帝国議会は、[[立憲政友会]]︵総裁‥[[西園寺公望]]︶が安定して衆議院第一党を保持し、藩閥政府︵首班‥[[桂太郎]]︶の議会運営に協力、長期にわたって権力を寡占していた︵[[桂園時代]]︶。これに対して、非政友会系党派の間での合同運動がおこり、[[1910年]]︵明治43年︶3月14日、野党第一党の[[憲政本党]]を中心に[[又新会]]と[[戊申倶楽部]]の3派︵創立直後の第27回[[帝国議会]]開会時の代議士は93名<ref>玉井清﹁第一六回総選挙における政党合同の影響について-革新倶楽部系候補者の動向を中心に-﹂2012年3月︵﹃法学研究 85-3﹄慶應義塾大学法学研究会 ︶</ref>︶が合同して立憲国民党が結党された<ref name="shimbun">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920445/132 ﹁立憲国民党の宣言書及綱領﹂明治43年3月7日東京日日]︵新聞集成明治編年史編纂会編﹃新聞集成明治編年史 第14卷﹄ 林泉社、1936年、pp.219-220︶</ref>。
|
||
[[革新|政治革新]]<ref name="kakushin"/>と[[立憲主義]]<ref name="shimbun"/>を標榜し、[[責任内閣制]]の樹立や、[[大日本帝国海軍|海軍]]の拡張、官僚主義の打破、[[地方自治]]の拡張、税制整理、農商工業の奨励と発達を主張していた<ref name="nipponica"/><ref name="sekai"/>。
|
|||
⚫ |
|
||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | 結党の経緯から、議会活動では一貫して野党の立場をとり、ともに桂園連立であった[[第2次桂内閣]]や[[第2次西園寺内閣]]では[[南北朝正閏問題]]や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 |
||
それ以後は犬養が党首となり、普通選挙法実現を掲げるなどして[[護憲運動]]を指導し民党として活躍した。しかし、立憲政友会や[[立憲同志会]]︵後に[[憲政会]]︶の攻勢を受けるようになり党勢は衰退する。特に大石らかつての改革派が憲政会を結成した時に、国民党が共同で[[内閣不信任案]]の提出を呼びかけながら土壇場で政友会ともども憲政会を叩いた上で[[第13回衆議院議員総選挙]]に持ち込んだ手法は、結果的には国民党の議席回復につながったといえ、物議を醸した。[[1918年]]︵大正7年︶6月20日に分裂以後に唯一の常務委員であった犬養を総理︵党首︶とし、[[幹事長]]に[[鈴木梅四郎]]、[[政務調査会長]]に[[大口喜六]]、総務︵1名︶に[[関直彦]]を任命した。
|
|||
⚫ |
[[1913年]]︵大正2年︶、[[大正政変]]が発生。政友会と袂を別った桂首相は、自前の政権与党の結党を目論む。国民党は、野党に転じた政友会と連携し、[[第3次桂内閣]]を攻撃する︵[[護憲運動|第一次護憲運動]]︶。しかし、桂首相の新党運動に対して片岡直温が呼応、犬養が片岡を[[除名]]処分にしたところ、これをきっかけに大石・島田・河野ら改革派がこれに反発して脱党し、桂新党︵後の[[立憲同志会]]︶に参加するものが多数出て勢力は半減︵分裂直後の第31回[[帝国議会]]開会時の代議士は41名︶、第三党に転落した<ref>なお、島田は後に憲政会が[[尾崎行雄]]を除名したのに抗議して憲政会を離党、その後犬養とともに革新倶楽部結成を呼びかけて事実上の復党を果たす。</ref>。
|
||
⚫ | [[1920年]](大正9年)[[第14回衆議院議員総選挙]]では29名当選と振るわず、[[1922年]](大正11年)9月1日 |
||
それ以後は、非政友会勢力の中軸の座を同志会に奪われ、党勢は低迷する。1914年、藩閥を含めた﹁非政友会勢力の結集﹂として、[[大隈重信]]が首相に就任、政界復帰するが、[[第2次大隈内閣]]は、かつて党首を務めた憲政本党の後継の国民党ではなく、憲政本党から多くの議員が流れた同志会を与党とするなど、同志会が事実上の﹁後継政党﹂とみなされるようになる。1916年10月、同志会が大隈内閣の与党を構成した他の小会派と合同して[[憲政会]]を発会すると、党勢はますます劣後した。
|
|||
続く[[寺内内閣]]は、藩閥直系の少数与党でスタートし、[[臨時外交調査会]]での諮問という形で各党の協力を仰ぐ形をとる。国民党も、主要政党の一に数えられ、政友会とともにこれに参加する(第二党の憲政会は参加せず)。1917年、国民党が共同で[[内閣不信任決議|内閣不信任案]]の提出を呼びかけながら土壇場で政友会ともども憲政会を叩いた上で[[第13回衆議院議員総選挙]]に持ち込んだ手法は、結果的には国民党の議席回復につながったといえ、物議を醸した。とはいえ、憲政会に対する数的不利は覆しがたかった。 |
|||
[[1918年]](大正7年)6月20日に分裂以後に唯一の常務委員であった犬養を総理(党首)とし、[[幹事長]]に[[鈴木梅四郎]]、政務調査会長に[[大口喜六]]、総務(1名)に[[関直彦]]を任命した。 |
|||
⚫ | [[1920年]](大正9年)、政友会首班の[[原内閣]]のもとで行われた[[第14回衆議院議員総選挙]]では29名当選と振るわず、[[1922年]](大正11年)9月1日、解党した。 |
||
; 後史 |
|||
犬養は同年11月8日、[[革新倶楽部]]を結成する︵結党時は46名︶。その後は第三会派として活動し、[[第二次護憲運動]]では政友会、憲政会とともに[[護憲三派]]を結成、第15回衆議院議員総選挙後成立した[[加藤高明内閣]]では与党入りを果たすが、同内閣期間中に党内対立により解党。[[立憲改進党]]以来の二大政党の雄の直系は消滅する︵ただし、上述のように同志会→憲政会が改進党の事実上の直系とみられることが多い︶。犬養はかつてのライバルであった政友会に入党し、同党総裁、首相に上り詰めることになる。
|
|||
==脚注== |
==脚注== |
||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
||
{{戦前日本の政党}} |
{{戦前日本の政党}} |
||
{{Normdaten}} |
|||
{{デフォルトソート:りつけんこくみんとう}} |
{{デフォルトソート:りつけんこくみんとう}} |
||
[[Category:明治時代の政党・会派]] |
[[Category:明治時代の政党・会派]] |
||
[[Category:大正時代の政党・会派]] |
[[Category:大正時代の政党・会派]] |
||
[[Category:対外硬派]] |
[[Category:対外硬派]] |
||
[[Category:1910年設立の政党・政治団体]] |
|||
[[Category:1922年廃止の政党・政治団体]] |
|||
[[Category:犬養毅]] |
|||
[[Category:河野広中]] |
|||
[[Category:町田忠治]] |
|||
[[Category:片岡直温]] |
2023年12月17日 (日) 11:24時点における最新版
立憲国民党 立憲󠄁國民黨 | |
---|---|
成立年月日 | 1910年3月13日[1] |
前身政党 |
憲政本党[2] 又新会[2] 無名会[2] 戊申倶楽部(一部)[2] |
解散年月日 | 1922年9月1日[3] |
解散理由 | 党勢の不振[2] |
後継政党 | 革新倶楽部[2] |
政治的思想・立場 |
税制整理[2] 政治革新[4] 立憲主義[5] 民党主義[6] |