「足利春王丸」の版間の差分
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なお、結城城籠城の際には成氏もおり、春王丸・安王丸兄弟同様に殺害されようとしていたところ[[嘉吉の乱]]で義教が殺害されて命拾いしたとする説が有名だが、確かに『[[看聞日記]]』嘉吉元年5月19日条に持氏の息子3名が捕らえられたと書かれているが、少なくとも『喜連川判鑑』及び『古河公方系図』では成氏は[[信濃国]]に落ち延びて[[大井持光|大井氏]]に匿われていたとし、下野国に落去していた春王丸らとは別行動であったとしている。このため、3人目の息子は成氏以外の別の息子([[百瀬今朝雄]]は[[尊敒]]、[[佐藤博信]]は[[定尊]]とする<ref>百瀬説は『神奈川県史通史編 Ⅰ』、佐藤説は「永享の乱後における関東足利氏の動向」による。</ref>)であったと推定されている。 |
なお、結城城籠城の際には成氏もおり、春王丸・安王丸兄弟同様に殺害されようとしていたところ[[嘉吉の乱]]で義教が殺害されて命拾いしたとする説が有名だが、確かに『[[看聞日記]]』嘉吉元年5月19日条に持氏の息子3名が捕らえられたと書かれているが、少なくとも『喜連川判鑑』及び『古河公方系図』では成氏は[[信濃国]]に落ち延びて[[大井持光|大井氏]]に匿われていたとし、下野国に落去していた春王丸らとは別行動であったとしている。このため、3人目の息子は成氏以外の別の息子([[百瀬今朝雄]]は[[尊敒]]、[[佐藤博信]]は[[定尊]]とする<ref>百瀬説は『神奈川県史通史編 Ⅰ』、佐藤説は「永享の乱後における関東足利氏の動向」による。</ref>)であったと推定されている。 |
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辞世の |
辞世の歌は「夏草や 青野が原に 咲くはなの 身の行衛こそ 聞かまほしけれ」 |
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安王丸は「身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」 |
安王丸は「身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」 |
2016年2月18日 (木) 08:29時点における版
足利春王丸 | |
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時代 | 室町時代 |
生誕 | 正長2年/永享元年(1429年)? |
死没 | 嘉吉元年5月16日(1441年6月5日) |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 足利氏 |
父母 | 父:足利持氏、母:簗田河内守(簗田満助?)娘 |
兄弟 | 義久、春王丸、安王丸[1]、成氏 |
略歴
生母は簗田河内守︵簗田満助?︶の娘と﹃古河公方系図﹄にある。なお、持氏の子息の中では唯一史料に生母が明示されている人物である。義久、安王丸、成氏らとは同腹か異腹かは不明。脚注
参考文献・史料
- 渡辺世祐『関東中心 足利時代之研究』(1971年、新人物往来社)
- 『喜連川判鑑』(写本続群書類従所収、原本は二階堂氏本)
- 『古河公方系図』(続群書類従所収)
- 『関東合戦記』(続群書類従所収)
- 『北条記』(続群書類従所収)
- 『寛政重修諸家譜』2巻
外部リンク
- 春王・安王の墓 岐阜県公式サイト