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みすゞの作品の一つ﹁こだまでしょうか﹂︵原題﹁こだまでせうか﹂︶を取り上げた[[ACジャパン]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]︵歌手・[[UA (歌手)|UA]]による朗読︶が、[[東北地方太平洋沖地震]]に伴うCM差し替えにより多く露出したことにより﹁金子みすゞ全集﹂の売り上げが伸び、地震の影響で重版が困難なことから﹃金子みすゞ童謡集﹁こだまでしょうか﹂﹄として急遽[[電子書籍]]化されるなどの広まりが見られる。また、﹁こだまでしょうか﹂独特の語調をパロディにした作品がインターネット上で広まるなどの話題を呼んでいる<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110404/its11040415050000-n1.htm |title=こだまでしょうか、いいえ… |newspaper=[[MSN産経ニュース]] |date=2011-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110407101550/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110404/its11040415050000-n1.htm |archivedate=2011-04-07 |accessdate=2013-05-22}}</ref>。この影響もあって、金子みすゞ記念館の入場者数が急増、[[2015年]]11月17日には150万人を突破した<ref>{{Cite news |url=https://nanavi.jp/news/2210/ |title=金子みすゞ記念館の入館者数が150万人を突破! |publisher=山口県長門市観光サイト ななび |date=2015-11-17 |accessdate=2022-04-05}}</ref>。
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みすゞの作品の一つ﹁こだまでしょうか﹂︵原題﹁こだまでせうか﹂︶を取り上げた[[ACジャパン]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]︵歌手・[[UA (歌手)|UA]]による朗読︶が、[[東北地方太平洋沖地震]]に伴うCM差し替えにより多く露出したことにより﹁金子みすゞ全集﹂の売り上げが伸び、地震の影響で重版が困難なことから﹃金子みすゞ童謡集﹁こだまでしょうか﹂﹄として急遽[[電子書籍]]化されるなどの広まりが見られる。また、﹁こだまでしょうか﹂独特の語調をパロディにした作品がインターネット上で広まるなどの話題を呼んでいる<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110404/its11040415050000-n1.htm |title=こだまでしょうか、いいえ… |newspaper=[[MSN産経ニュース]] |date=2011-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110407101550/http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110404/its11040415050000-n1.htm |archivedate=2011-04-07 |accessdate=2013-05-22}}</ref>。この影響もあって、金子みすゞ記念館の入場者数が急増、[[2015年]]11月17日には150万人を突破した<ref>{{Cite news |url=https://nanavi.jp/news/2210/ |title=金子みすゞ記念館の入館者数が150万人を突破! |publisher=山口県長門市観光サイト ななび |date=2015-11-17 |accessdate=2022-04-05}}</ref>。
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また、[[フレーベル館]]の公式[[YouTube]]チャンネルでは「金子みすゞこどもうたプロジェクト」と銘打ち、第一弾として「[[桃]]」「子供の時計」それぞれの詩にメロディをつけ、現代的なポップスに仕上げた楽曲のショートバージョンが公開され<ref>{{ |
また、[[フレーベル館]]の公式[[YouTube]]チャンネルでは「金子みすゞこどもうたプロジェクト」と銘打ち、第一弾として「[[桃]]」「子供の時計」それぞれの詩にメロディをつけ、現代的なポップスに仕上げた楽曲のショートバージョンが公開され<ref>{{wayback|url=https://www.froebel-kan.co.jp/top_info/info13474.html |title=【YouTube】金子みすゞ子どもうたプロジェクト『子供の時計』『桃』のショートver.を公開中! |date=20210512045728}}</ref>、[[フレーベル館]]提供の[[テレビ東京]]系列、朝の幼児番組[[きんだーてれび]]内にてエンディングテーマとして放送された。 |
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== 著作権と商標について == |
== 著作権と商標について == |
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金子みすゞの作品そのものの[[著作権]]は作者であるみすゞの死後30年を過ぎており消滅している︵﹁[[著作権の保護期間]]﹂参照。旧著作権法︵明治32年法律第39号︶では、著作権の保護期間は著作者の死後30年までと規定されていたため1960年︵昭和35年︶には保護期間が切れている︶。しかし、﹁[http://www.rokusaisha.com/wp/wp-content/uploads/2017/09/03-jura2.jpg 金子みすゞ著作保存会]﹂︵保存会設立の主旨については﹃[[文藝]]別冊 総特集 金子みすゞ 没後70年﹄︿[[河出書房]]、2000年﹀所収の、みすゞの実娘へのインタビュー記事﹁母のこと、そして詩人みすゞのこと﹂︿聞き手‥矢崎節夫﹀に詳しい︶は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。その理由としてJULA出版局は、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった﹃金子みすゞ全集﹄︵JULA出版局︶による[[著作権の保護期間#二次的著作物の著作権との関係|二次的著作権の存続]]を挙げている。このこともあり、みすゞ作品は[[青空文庫]]にも収録されていない{{efn2|[https://www.aozora.gr.jp/siryo1.html#ka 青空文庫公式サイト]では、﹁作者の死後、関係者の努力によって発掘された経緯を踏まえ、現時点では、入力を控えている﹂としている。}}。 [[著作権法]]では、[[二次的著作物]]を﹁著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう﹂と定義しており、これに該当するとの解釈である。 ( ﹃金子みすゞ全集﹄ の編集者は[[与田凖一|与田準一]]、[[まど・みちお|まどみちお]]、[[清水たみ子]]、[[武鹿悦子]]、[[矢崎節夫]]) 同会の金子みすゞの詩・写真の使用許可においては以下の条件が定められている。︵実弟[[上山雅輔]]︵本名‥上山正祐︶が保有していた写真は同会が保存・管理︶
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金子みすゞの作品そのものの[[著作権]]は作者であるみすゞの死後30年を過ぎており消滅している︵﹁[[著作権の保護期間]]﹂参照。旧著作権法︵明治32年法律第39号︶では、著作権の保護期間は著作者の死後30年までと規定されていたため1960年︵昭和35年︶には保護期間が切れている︶。しかし、﹁[http://www.rokusaisha.com/wp/wp-content/uploads/2017/09/03-jura2.jpg 金子みすゞ著作保存会]﹂︵保存会設立の主旨については﹃[[文藝]]別冊 総特集 金子みすゞ 没後70年﹄︿[[河出書房]]、2000年﹀所収の、みすゞの実娘へのインタビュー記事﹁母のこと、そして詩人みすゞのこと﹂︿聞き手‥矢崎節夫﹀に詳しい︶は、みすゞ作品を利用する際には同会の許可を得るよう求めている。その理由としてJULA出版局は、﹁大漁﹂ (初出:﹃童話﹄1924年(大正13年)年4月号) をはじめとする90編 の作品を除き、著作の大半が生前未発表であったこと、ならびに未発表作品を一般に広めるきっかけとなった﹃金子みすゞ全集﹄︵JULA出版局︶による[[著作権の保護期間#二次的著作物の著作権との関係|二次的著作権の存続]]を挙げている。このこともあり、みすゞ作品は[[青空文庫]]にも収録されていない{{efn2|[https://www.aozora.gr.jp/siryo1.html#ka 青空文庫公式サイト]では、﹁作者の死後、関係者の努力によって発掘された経緯を踏まえ、現時点では、入力を控えている﹂としている。}}。 [[著作権法]]では、[[二次的著作物]]を﹁著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう﹂と定義しており、これに該当するとの解釈である。 ( ﹃金子みすゞ全集﹄ の編集者は[[与田凖一|与田準一]]、[[まど・みちお|まどみちお]]、[[清水たみ子]]、[[武鹿悦子]]、[[矢崎節夫]]) 同会の金子みすゞの詩・写真の使用許可においては以下の条件が定められている。︵実弟[[上山雅輔]]︵本名‥上山正祐︶が保有していた写真は同会が保存・管理︶
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・ 商品等の販売物、宣伝物にお使いの場合には、金子みすゞのイメージを損なわないようなものに限り、多少の作品使用料をいただいて使用を許可しております。 |
・ 商品等の販売物、宣伝物にお使いの場合には、金子みすゞのイメージを損なわないようなものに限り、多少の作品使用料をいただいて使用を許可しております。 |
2024年4月16日 (火) 17:43時点における最新版
![]() 下関市黒川写真館にて撮影(20歳) | |
誕生 |
金子 テル(かねこ テル) 1903年4月11日 山口県大津郡仙崎村 (現:長門市仙崎) |
死没 | 1930年3月10日(26歳没) |
墓地 | (山口県長門市) |
職業 | 詩人 |
国籍 |
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最終学歴 | 郡立深川高等女学校 |
ジャンル | 童謡 |
代表作 |
『私と小鳥と鈴と』 『大漁』 |
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生涯[編集]
山口県大津郡仙崎村︵現‥長門市仙崎︶の生まれ。郡立深川高等女学校︵現‥山口県立大津緑洋高等学校︶卒業。父は、妻︵みすゞの母︶の妹の嫁ぎ先である下関の書店﹁上山文英堂﹂の清国営口支店長だったが、1906年︵明治39年︶2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[注 1]を遂げる。文藝春秋社の編集者や喜劇王・古川ロッパの脚本家などとして活躍し、子役の名門であった劇団若草の創始者である上山雅輔︵本名‥上山正祐︶は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹︵みすゞにとっては叔母︶の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。 1923年(大正12年)、﹁金子みすゞ﹂というペンネームで童謡を書き始め、雑誌﹃童話﹄﹃婦人倶楽部﹄﹃婦人画報﹄﹃金の星﹄ に投稿した。この年、これら4誌全ての9月号にみすゞの投稿した5編の作品が一斉に掲載された。以降みすゞは次々と作品を投稿。雑誌﹃童話﹄を中心に90編 の作品を発表する。﹃童話﹄においては、推薦16編、入選24編、佳作2編の計42編が 掲載された。最後にみすゞが投稿し掲載された作品は﹃愛誦﹄1929年(昭和4年)5月号の﹁夕顔﹂である。1923年(大正12年)﹃婦人画報﹄9月号に掲載された﹁おとむらひ﹂は、翌年﹃現代抒情小曲選集﹄(西條八十編)におさめられた。1926年(大正15年)には、みすゞは﹁童謡詩人会﹂への入会をみとめられ、童謡詩人会編﹁日本童謡集﹂1926年版に﹁お魚﹂と﹁大漁﹂の詩が載った。童謡詩人会の会員は西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など。女性では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。 1926年︵大正15年︶に叔父︵義父︶の経営する上山文英堂の番頭格で、酒は飲めないが女癖のある芝居好きの宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからか、みすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。 1927年︵昭和2年︶西條八十編﹃日本童謡集︵上級用︶小学生全集第48巻﹄および1928年︵昭和3年︶光風館編輯所 著﹃作文新編 巻1﹄に﹁お魚﹂が収載される。1929年(昭和4年)東亜学芸協会 編﹃全日本詩集﹄には﹁繭とお墓﹂︵﹃愛誦﹄1927年(昭和2年)1月号が初出︶が載る。1929年(昭和4年)、みすゞは﹁美しい町﹂﹁空のかあさま﹂﹁さみしい王女﹂と 題した3冊の童謡集を二組制作し西條八十と正祐︵当時上山雅輔の名前で文藝春秋社の編集者をしていた︶にそれぞれ託した。︵現存するものは同年秋に正祐に送られたもので1925年と1926年の博文館のポケットダイアリーの書店用見本に書かれている。1冊目の﹁美しい町﹂と2冊目の﹁空のかあさま﹂は清書。3冊目の﹁さみしい王女﹂の詩には校正した跡がある︶ 1927年に夫からうつされた淋病を発病。1928年には夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。こうしたことなどから1930年︵昭和5年︶2月に正式な離婚が決まった︵手続き上は成立していない︶。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。同年3月10日、みすゞは服毒自殺を遂げ[注 2]、享年28︵数え年︶、26年の短い生涯を閉じた。上山雅輔は回想録﹁年記﹂に﹁芥川龍之介の自殺が決定的な要因となった﹂と書いている。 遺書を3通残しており、そのうちの1通は元夫へ向けた﹁あなたがふうちゃんをどうしても連れていきたいというのなら,それは仕方ありません。でも,あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから,母ミチにあずけてほしいのです﹂という娘の養育を母ミチに託すよう求めるものだった[3]。法名は釈妙春信尼[4]。 金子みすゞの死後1930年︵昭和5年︶に創刊された西條八十が主宰する﹃蠟人形﹄︵5月創刊号︶には、みすゞの﹁象﹂と﹁四つ辻﹂の二作が載せられた。また、翌年の1931年︵昭和6年︶、西條八十は﹃蝋人形﹄9月号にみすゞの﹁繭と墓﹂を再掲載し﹁下ノ關の一夜 ── 亡き金子みすゞの追憶﹂と題した追悼文を残している。西條八十は、さらに1935年︵昭和10年︶にも﹃少女倶楽部﹄8月号と9月号に みすゞが送った童謡集のうちより﹁たもと﹂﹁女王さま﹂をそれぞれ掲載。また、9月号の方には﹁繭と墓﹂を彼女と下関で出逢った思い出の随筆をまじえて再度掲載した。戦後も1949年(昭和24年)、﹃蠟人形﹄5・6月号に西條八十選で﹁人形の木﹂が、1953年︵昭和28年︶の﹃少女クラブ﹄6月号には﹁木﹂と﹁先生﹂が掲載された。 その他戦前には1936年︵昭和11年︶東京両高等師範学校教官 合著﹃小学二年の家庭教師 改訂版﹄に﹁おさかな﹂が載った。1938年︵昭和13年︶福富武人, 長谷執持 編﹃詩華集 山口県詩選 ﹄には﹁杉の木﹂と﹁土﹂が掲載された。 1942年︵昭和17年︶石島賢二 著﹃工場の娘と共に生きる 或る労務者の手記﹄には﹁女王様﹂と﹁繭と御墓﹂が掲載された。作品[編集]
代表作には﹁私と小鳥と鈴と﹂や﹁大漁﹂ (初出:﹃童話﹄1924年(大正13年)年4月号) などがある。 仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であった。鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養のために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し﹁鯨法会﹂という作品を書いている[要出典]。自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの詩集の原点ともいわれ[要出典]、﹁お魚﹂﹁大漁﹂などに繋がっている。 ﹁私と小鳥と鈴と﹂ 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが 飛べる小鳥は私のように、 地面を速くは走れない。 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴は私のように たくさんな唄は知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。忘却と再発見[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/Misuzu-museum.jpg/220px-Misuzu-museum.jpg)