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頼豪は死後、怨霊となって[[鉄鼠]]に化して延暦寺の経典を食い破った。この話は『[[平家物語]]』『[[太平記]]』に載せられた伝説である。 |
頼豪は死後、怨霊となって[[鉄鼠]]に化して延暦寺の経典を食い破った。この話は『[[平家物語]]』『[[太平記]]』に載せられた伝説である。 |
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敦文親王は4歳で頼豪の祟りによって |
敦文親王は4歳で頼豪の祟りによって薨去したとされる。ただし実際は、親王は頼豪より前の[[1077年]]に薨去した。 |
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2019年12月30日 (月) 06:53時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Yoshitoshi_The_Priest_Raigo_of_Mii_Temple.jpg/200px-Yoshitoshi_The_Priest_Raigo_of_Mii_Temple.jpg)
頼豪︵らいごう、長保4年︵1002年︶ - 応徳元年︵1084年︶︶は、平安時代中期の天台宗の僧。父は伊賀守藤原有家。
経歴
園城寺︵三井寺︶の心誉に師事し、円行から法を受け、実相院に住した。 修法の効験で知られ、1074年︵承保元年︶白河天皇の皇子誕生を祈願し、敦文親王が誕生したことから、園城寺の戒壇創設を天皇に請うたが、園城寺と対立していた延暦寺の反対により実現しなかった。その後怨念を抱いて断食して命を絶った。伝説
詳細は「鉄鼠」を参照
頼豪は死後、怨霊となって鉄鼠に化して延暦寺の経典を食い破った。この話は﹃平家物語﹄﹃太平記﹄に載せられた伝説である。
敦文親王は4歳で頼豪の祟りによって薨去したとされる。ただし実際は、親王は頼豪より前の1077年に薨去した。
創作
参考文献
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- 山本ひろ子 『異神〈上〉中世日本の秘教的世界』 ちくま学芸文庫 2003年 ISBN 978-4480087683