「馬援」の版間の差分
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'''馬 援'''(ば えん、[[紀元前14年]] - [[49年]])は、[[中国]][[新]]末期から[[後漢]]初期の[[武将]]。伏波将軍の号でも知られる。[[字]]は文淵。その娘([[明徳馬皇后|馬皇后]])は後漢第2代[[明帝 (漢)|明帝]]の[[皇后]]となった。また子孫に後漢末期・[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将の[[馬騰]]・[[馬超]]父子がいる。 |
'''馬 援'''︵ば えん、[[紀元前14年]] - [[49年]]︶は、[[中国]][[新]]末期から[[後漢]]初期の[[武将]]。伏波将軍の号でも知られる。[[字 (人名)|字]]は文淵。その娘︵[[明徳馬皇后|馬皇后]]︶は後漢の第2代[[明帝 (漢)|明帝]]の[[皇后]]となった。また子孫に後漢末期・[[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将の[[馬騰]]・[[馬超]]父子がいる。彼の名言﹁男児要当死於辺野、以馬革裹屍還葬耳︵男子たるもの当然辺境の原野に死、馬の皮で遺体を包まれ葬られるべきである)﹂は広く伝わっている
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== 略歴 == |
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前漢が滅びて[[王莽]]による[[新]]が成立すると郡の督郵となり、囚人の護送業務をしていたが、その囚人を哀れに思って逃がしてしまい、自らも北に逃亡してそこで念願の[[牧畜]]をはじめた。馬援の先祖が以前そこで役人をしていたこともあり、馬援はその地の頭となった。牧畜の傍ら[[農業]]も始め、馬援を慕う人間が次々と訪れ、その地の実力者となった。そのころ人々に「男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮(さかん)でなくてはならない」「富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない」と語り、儲けた金品を親族友人に与え自分は粗末な衣服を着て仕事に熱中した。そのためますます人が集まるようになった。 |
前漢が滅びて[[王莽]]による[[新]]が成立すると郡の督郵となり、囚人の護送業務をしていたが、その囚人を哀れに思って逃がしてしまい、自らも北に逃亡してそこで念願の[[牧畜]]をはじめた。馬援の先祖が以前そこで役人をしていたこともあり、馬援はその地の頭となった。牧畜の傍ら[[農業]]も始め、馬援を慕う人間が次々と訪れ、その地の実力者となった。そのころ人々に「男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮(さかん)でなくてはならない」「富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない」と語り、儲けた金品を親族友人に与え自分は粗末な衣服を着て仕事に熱中した。そのためますます人が集まるようになった。 |
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新末期に新城大尹<ref>[[漢中郡|漢中]]太守の新制での呼称。王莽が改名した。</ref>とされ、新滅亡後は[[隴西郡|隴西]]に割拠した[[隗囂]]の配下になった。隗囂は[[河北]]に勢力を持つ[[劉秀]]︵光武帝︶、[[蜀郡|蜀]]に割拠して[[皇帝]]を名乗っていた[[公孫述]]の二者を窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使いさせた。馬援は暖かく迎えてくれると |
新末期に新城大尹<ref>[[漢中郡|漢中]]太守の新制での呼称。王莽が改名した。</ref>とされ、新滅亡後は[[隴西郡|隴西]]に割拠した[[隗囂]]の配下になった。隗囂は[[河北]]に勢力を持つ[[劉秀]]︵光武帝︶、[[蜀郡|蜀]]に割拠して[[皇帝]]を名乗っていた[[公孫述]]の二者を窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使いさせた。馬援は暖かく迎えてくれると期待した公孫述が、皇帝の権威と儀礼で高圧的だったのに幻滅し、隗囂に対し公孫述は﹁'''井の底の蛙'''﹂であると伝え、光武帝に味方するべきだと訴えた。
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[[28年]]([[建武 (漢)|建武]]4年)、馬援は今度は光武帝への使者となった。光武帝は礼儀に拘らず「君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる」と笑って馬援を迎える。馬援はそんなことはありませんと詫び「公孫述は旧知の我に対して戟を並べて、その後に我を進ませる。臣、遠くから来る。陛下、何ぞ刺客に非ずと知り、礼儀作法の簡易なることかくの如きや」と言えば、光武帝は「君は刺客でなく説客なるのみ」と笑う。これによって馬援は就くなら器の大きな光武帝と決め、光武帝の使者[[来歙]]と共に隴西に戻って隗囂を説得する。隗囂は長 |
[[28年]]([[建武 (漢)|建武]]4年)、馬援は今度は光武帝への使者となった。光武帝は礼儀に拘らず「君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる」と笑って馬援を迎える。馬援はそんなことはありませんと詫び「公孫述は旧知の我に対して戟を並べて、その後に我を進ませる。臣、遠くから来る。陛下、何ぞ刺客に非ずと知り、礼儀作法の簡易なることかくの如きや」と言えば、光武帝は「君は刺客でなく説客なるのみ」と笑う。これによって馬援は就くなら器の大きな光武帝と決め、光武帝の使者[[来歙]]と共に隴西に戻って隗囂を説得する。隗囂は長男の[[隗恂]]を人質となし、再度、馬援は来歙・隗恂と共に[[洛陽]]に行き、光武帝に臣として降った。 |
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== 文学作品 == |
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*[[宮城谷昌光]]『馬上の星 小説・馬援伝』[[中央公論新社]]、2022年 |
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== 関連項目 == |
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[[Category:後漢光武帝期の人物]] |
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2024年3月28日 (木) 12:22時点における最新版
馬援 | |
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馬援像 | |
プロフィール | |
出生: | 紀元前14年 |
死去: | 49年 |
出身地: | 右扶風茂陵県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 馬援 |
簡体字: | 马援 |
拼音: | Mǎ Yuán |
英語名: | Ma Yuan |
略歴[編集]
右扶風茂陵県︵現在の陝西省咸陽市興平市の北東︶の人。その遠祖は戦国時代の趙の将軍の趙奢であり、趙奢は馬服君と名乗ったので、これが氏になったと言う[1]。 曾祖父の馬通とその兄の馬何羅は武帝期の巫蠱の禍平定に功績があったが、馬何羅はこの乱の原因である江充と仲が良く、そのことで後難があるのではと恐れて、遂に反乱を起こして殺され、一族は前漢が滅ぶまで禁錮︵仕官が出来ないこと︶とされた。 馬援が12歳のときに父が亡くなり、長兄の馬況が馬援を教育することになった。馬援は斉詩を学ぶことがあったが、当時主流であった一字一句に拘る訓詁学を嫌い、北方での牧畜を望んだ。馬況は馬援が大志を抱いていることを知っており、将来必ず大人物になると思ってそれを許した。しかし、馬況は間もなく亡くなり、馬援は馬況の嫁の面倒をみることになり、北方へ行くことができなくなった。 前漢が滅びて王莽による新が成立すると郡の督郵となり、囚人の護送業務をしていたが、その囚人を哀れに思って逃がしてしまい、自らも北に逃亡してそこで念願の牧畜をはじめた。馬援の先祖が以前そこで役人をしていたこともあり、馬援はその地の頭となった。牧畜の傍ら農業も始め、馬援を慕う人間が次々と訪れ、その地の実力者となった。そのころ人々に﹁男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮︵さかん︶でなくてはならない﹂﹁富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない﹂と語り、儲けた金品を親族友人に与え自分は粗末な衣服を着て仕事に熱中した。そのためますます人が集まるようになった。 新末期に新城大尹[2]とされ、新滅亡後は隴西に割拠した隗囂の配下になった。隗囂は河北に勢力を持つ劉秀︵光武帝︶、蜀に割拠して皇帝を名乗っていた公孫述の二者を窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使いさせた。馬援は暖かく迎えてくれると期待した公孫述が、皇帝の権威と儀礼で高圧的だったのに幻滅し、隗囂に対し公孫述は﹁井の底の蛙﹂であると伝え、光武帝に味方するべきだと訴えた。 28年︵建武4年︶、馬援は今度は光武帝への使者となった。光武帝は礼儀に拘らず﹁君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる﹂と笑って馬援を迎える。馬援はそんなことはありませんと詫び﹁公孫述は旧知の我に対して戟を並べて、その後に我を進ませる。臣、遠くから来る。陛下、何ぞ刺客に非ずと知り、礼儀作法の簡易なることかくの如きや﹂と言えば、光武帝は﹁君は刺客でなく説客なるのみ﹂と笑う。これによって馬援は就くなら器の大きな光武帝と決め、光武帝の使者来歙と共に隴西に戻って隗囂を説得する。隗囂は長男の隗恂を人質となし、再度、馬援は来歙・隗恂と共に洛陽に行き、光武帝に臣として降った。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Ma-Yuan.jpg/250px-Ma-Yuan.jpg)
家族[編集]
曾祖父[編集]
- 馬通(馬何羅の弟)
祖父[編集]
- 馬賓
父[編集]
- 馬仲
兄[編集]
- 馬況
- 馬余
- 馬員[3]
男子[編集]
女子[編集]
- 馬姜
- 明徳馬皇后