もののあはれ
もののあわれ︵物の哀れ︶は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である。苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念であるとされている[1]。日本文化においての美意識、価値観に影響を与えた思想である[要出典]。
﹁もののあはれ﹂の発見[編集]
﹁もののあはれ﹂は、江戸時代後期の国学者本居宣長が、著作﹃紫文要領﹄や﹃源氏物語玉の小櫛﹄などにおいて提唱し[注 1]、その頂点が﹃源氏物語﹄であると規定した[4]。江戸時代には、幕府の保護、奨励した儒教思想に少なからず影響を受けた﹁勧善懲悪﹂の概念が浸透し、過去の平安時代の文学に対しても、その儒教的概念や政治理念を前提にして評価され、語られた時期があったが、この本居宣長の﹁もののあはれ﹂の発見はそういった介入を否定し、文学作品の芸術的自律性という新しい視点を生み出した[5]。 宣長は、それまで一般的な他の文学作品同様に﹃源氏物語﹄が時代時代の思想風土、政治風土に影響されて、その作品の内在的な美的要素からではなく、外在的な価値観や目的意識から読まれてきたことを排し、歌・物語をその内在的な価値で見ようとし[5]、﹁文芸の自律性﹂という契沖以来の新しい文芸観に基づいて、﹃源氏物語﹄における﹁もののあはれ﹂を論じた[5]。 宣長は﹃源氏物語﹄の本質を、﹁もののあはれをしる﹂という一語に集約し、個々の字句・表現を厳密に注釈しつつ、物語全体の美的価値を一つの概念に凝縮させ、﹁もののあはれをしる﹂ことは同時に人の心をしることであると説き、人間の心への深い洞察力を求めた[5]。それは広い意味で、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、﹁もののあはれをしる﹂心そのものに、宣長は美を見出した[5]。解釈の一例[編集]
ドイツ初期ロマン派の基本的心的態度を、﹁無限なるものへのあこがれ﹂と特徴づけ、ニーチェやキルケゴール研究者として知られる和辻哲郎は、宣長の説いた﹁もののあはれ﹂論に触れて、﹁もののあはれをしる﹂という無常観的な哀愁の中には、﹁永遠の根源的な思慕﹂あるいは﹁絶対者への依属の感情﹂が本質的に含まれているとも解釈している[4][5]。無常との関係[編集]
自然を愛し諸国放浪した歌人西行︵1118~1190年︶は、﹃旅宿月︵旅路で野宿して見る月︶﹄と題する歌において、﹁都にて 月をあはれと おもひしは 数よりほかの すさびなりけり﹂︿都にいた折に、月を“あはれ”と思っていたのは物の数ではない すさび︵遊び,暇つぶし︶であった﹀と詠んだ。これは西行が、自身が都に住んでいた時に、月を見て、﹁あはれ﹂と思ったのは、すさび=暇つぶしでしかなかったと詠じ、旅路での情景への感動を詠んだ歌である[6]。また、﹁飽かずのみ 都にて見し 影よりも 旅こそ月は あはれなりけれ﹂︿飽きることなくいつも都で仰いでいた月よりも、 旅の空でながめる月影こそは、あわれ深く思われる﹀という歌もある[6]。 月に﹁あはれ﹂を見た西行は、幽玄の境地を拓き、東洋的な﹁虚空﹂、無を表現していた[7]。西行と歌の贈答をし、歌物語をしていた明恵は、西行が物語った言として次のように述べている。 西行法師常に来りて言はく、我が歌を読むは遥かに尋常に異なり。花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満てり。また読み出すところの言句は皆これ真言にあらずや。花を読むとも実に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月とも思はず。ただこの如くして、縁に随ひ、興に随ひ、読みおくところなり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。しかれども、虚空は本明らかなるものにあらず。また、色どれるにもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。 — ﹁明恵伝﹂[8]脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 清水文雄﹁日本人の心﹂﹃続 河の音﹄、王朝文学の会、1984年10月1日、32-34頁、CRID 1050001337569864960。
(二)^ 源了圓﹃徳川思想小史﹄pp.190-196
(三)^ 田尻祐一郎﹃江戸の思想史﹄pp.138-141
(四)^ ab和辻哲郎﹃日本精神史研究﹄︵岩波書店、1926年。改版1971年︶
(五)^ abcdef中井千之﹁﹁もののあはれをしる﹂と浪漫的憧憬﹂﹃上智大学ドイツ文学論集﹄第26号、上智大学ドイツ文学会、1989年12月、9-20頁、CRID 1050282814132045696、ISSN 02881926。
(六)^ ab西行﹃山家集﹄
(七)^ 川端康成﹃美しい日本の私―その序説﹄︵講談社現代新書、1969年3月16日︶
(八)^ 喜海﹃明恵伝﹄