アッツ島沖海戦
アッツ島沖海戦 | |
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退避中、反撃する重巡ソルトレイクシティ(USS Salt Lake City) | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1943年3月27日(現地時間では26日) | |
場所:アメリカ合衆国・アッツ島沖 | |
結果:引き分け | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
細萱戊子郎中将 森友一少将 |
チャールズ・マクモリス少将 |
戦力 | |
重巡洋艦2 軽巡洋艦2 駆逐艦5[注 1] 輸送船3[注 2] |
重巡洋艦1 軽巡洋艦1 駆逐艦4 |
損害 | |
重巡洋艦1小破 戦死14、負傷26 |
重巡洋艦1小破 駆逐艦2小破 戦死7 |
アッツ島沖海戦︵アッツとうおきかいせん︶は、第二次世界大戦︵大東亜戦争︶中にアメリカ合衆国のコマンドルスキー諸島近海で起きた日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦[1]。連合国軍側の呼称はコマンドルスキー諸島海戦︵Battle of the Komandorski Islands︶[2]。
西アリーシャン列島の地図︵1.アッツ島 7.キスカ島 14.アム チトカ島︶
遊弋︵ は、重巡ソルトレイクシティ、旗艦/軽巡リッチモンド、ラルフ・S・リッグス大佐指揮下駆逐艦4隻︵ベイリー、コグラン、デイル、モナガン︶であった。
斉射︵ ︶し、アメリカ艦隊は﹁斉射を追いかける﹂形で回避行動をはじめた[61]。
日本艦隊では、第一水雷戦隊の戦闘準備が遅れていた[75]。戦闘準備をしていなかったため、司令部は大慌てだったという[71]。また燃料節約のためボイラーを1缶のみに落としていたため速力を上げられず、32ノット発揮可能になったのは午前4時頃であったという[76]。このため重巡2隻︵那智、摩耶︶が戦闘の主軸を担った。那智水雷長によれば、予想外の敵艦隊出現により慌てた結果、ヒューマンエラーが発生して砲塔の電源を切ってしまい[77]、主砲方位盤が使用不能になる[78]。そこで各砲塔での個別照準・個別射撃になったという[78]。だが砲塔の電源も止まっているため、しばらく射撃不能となった[79]。那智艦長の回想によれば、本斉射を行う際に前部発電機から後部発電機に切り替えるスイッチを誤って切ったためだったという[80]。
日本艦隊は午前3時42分に砲撃を開始すると、那智は2-4分後に酸素魚雷8本を発射した[81]。摩耶は4時7分に魚雷を発射したが命中しなかった。那智も集中砲火を浴び、雷からは那智艦橋から黒煙が上がる光景が見られた[82]。ソルトレイクシティの第3・第4斉射が命中したとみられる[74]。那智水雷長は駆逐艦の砲弾だと回想する[83]。那智死傷者の大半は、飛行甲板への命中弾によるものだった[84]。また艦橋後部への命中弾で主砲射撃指揮装置が故障︵那智艦長や那智水雷長の回想とは異なる︶[78][80]、砲側照準となる[81]。摩耶でも射撃指揮の混乱から数分間射撃を中止した[81]。遠距離砲戦に終始する那智・摩耶に対し、三番艦多摩は米艦隊に接近する針路をとって主隊から分離、合同したのは6時30分であった[81]。
日本艦隊と砲撃戦をつづける米艦隊も、戦闘の中止を検討していた。トーマス・C・キンケイド提督はマクモリス少将に対し、5時間以内の航空支援と﹁退却戦を考慮する要あり﹂の通信を送る[85]。米艦隊は西へ向かったのち、戦闘を切り上げるべく南へ転針する[85]。好機とみた細萱司令長官は5時2分に全軍突撃を下令、ところが米艦隊の砲撃が一水戦旗艦阿武隈に集中し、同水雷戦隊は速度を落としてしまった[81]。
形勢不利となった米艦隊は、これ以上の西方への逃走は日本軍勢力圏に近づいてしまうと判断し、南方へ転針する[81]。細萱司令長官は再び突撃命令を下令した[81]。だが日本艦隊は最短接近針路をとらず、米艦隊の後を追い掛けるような航路を選択したため、距離は一向に縮まらなかった[82]。
午前6時、第一水雷戦隊は艦隊に接近、魚雷の一斉射を試みたが各艦の準備が間に合わず、個別に魚雷を発射した[86]。その後、阿武隈は6時37分に砲撃を開始し、雷・初霜は6時40分に砲撃を開始した[87]。その後も追撃戦が展開されたが、アメリカ艦隊の駆逐艦に煙幕や雷撃で追撃を妨害された。さらに米艦隊は最後の弾着による水柱に向けて急転舵︵てんだ︶を行う射弾回避運動を実施して、ほとんど命中弾を受 けなかった[72]。しかし、ソルトレイクシティに日本側重巡の主砲弾が命中した[85]。ヒューマンエラーも重なってソルトレイクシティの機械は一時停止し、海上に停止する[72]。
もしこの時に那智・摩耶を含めた全日本艦隊が突撃していれば、米艦隊は全滅していたと思われる[81]。
マクモリス少将は駆逐艦デイルに煙幕展開を命じ、また残りの3隻に魚雷攻撃を命じた[72]。米駆逐艦3隻は煙幕の中から飛び出して突撃しソルトレイクシティを掩護、これに那智は気をとられ、米重巡にとどめを刺せなかった[81]。
アメリカ艦隊の左舷側を航行する第一水雷戦隊は那智・摩耶に後続すべく90度右に変針し、アメリカ艦隊の右舷側に出ようとした[88]。一方、アメリカ艦隊は左に90度変針して東方へ退避をはかった。6時50分、マクモリス少将はソルトレイクシティ乗員のリッチモンドへの移乗を下令、ところが奇跡的に機械が動き出しソルトレイクシティは脱出に成功した[81]。日本艦隊は、アメリカ側駆逐艦が射程に入るまえに反転したとも伝えられる[89]。7時頃、細萱中将は旗艦那智の損害及び空襲、そして艦隊の砲弾不足・燃料不足を警戒し[90]、ソルトレイクシティの撃沈まであと一歩のところで撤退を決定。アッツ島への輸送も中止された[91]。ソルトレイクシティは正午までに修理を完了し、アマクナック島ダッチハーバーに向かった[89]。
概要[編集]
アッツ島沖海戦、連合軍側呼称コマンドルスキー諸島海戦は[3]、1943年︵昭和18年︶3月26日︵現地時間︶3月27日︵日本時間︶にアリューシャン列島近海で行なわれた海戦[4]。 1943年︵昭和18年︶1月下旬から2月にかけて、アリューシャン方面のアメリカ海軍は艦隊を派遣し、アッツ島やキスカ島へ向かう日本軍の輸送船を攻撃していた[5]。日本軍は護送船団方式に切り替え、輸送船団の護衛を日本海軍の第五艦隊︵北方部隊︶が担当する[6]。 3月上旬におこなわれた第一次輸送作戦は成功したが[注 3]、第二次輸送船団は3月27日︵日本時間︶にアメリカ軍水上部隊と遭遇[注 4]、護衛の第五艦隊と米艦隊の昼間水上戦闘となった[1]︵本海戦︶[11][12]。 日本艦隊の稚拙な指揮により[13]、米艦隊は退避に成功した[14][15]。また第五艦隊は海戦後に幌筵島へ帰投したため[16]、アッツ島への輸送作戦も失敗に終わった[8][17]。これ以降、アリューシャン方面における日本軍の輸送作戦はきわめて困難になる[18][19]。本海戦の結果は、アッツ島玉砕の遠因となった[20]。 日付変更線をまたいで行われた海戦なので資料によって日付と時刻にズレがある。日本側の記録がUTC+9を使用しているのに対してアメリカ側はUTC-10を使用しており、19時間の時差がある。背景[編集]
経過[編集]
1942年︵昭和17年︶6月上旬、日本軍はミッドウェー島の占領をめざすミッドウェー作戦の一環としてアリューシャン作戦を発動、アッツ島とキスカ島を占領した[21]。日本軍は輸送作戦を繰り返し行い、両島の守備を強化していった[22]。一方のアメリカ軍は、空襲と、潜水艦の投入によって日本軍に対抗した[2][23]。 一例として、7月5日の海戦では[24]、駆逐艦霰がキスカ島沖でアメリカ潜水艦グロウラーの雷撃で沈没、同潜水艦により駆逐艦不知火と霞が大破した[25][26]︵同日、近海で駆逐艦子日が潜水艦トライトンにより沈没︶[27][28]。 同年10月17日にはキスカ島沖にて駆逐艦初春と朧が空襲を受け朧が沈没、初春が大破した[29][28]。また輸送船も多数撃沈された。 同年10月下旬、日本軍はアッツ島を再占領して防備強化を開始したが[30][31]、飛行場の設営と防備強化はなかなか進まなかった[32][33]。 アメリカ合衆国では、ワシントン州やオレゴン州の議会議員が﹁日本軍はアラスカに上陸してシアトルに上陸するかもしれない﹂と警告していた[34]。アメリカ軍は議会を黙らせるためにも、またソ連参戦時には中継基地とするために、アッツ島とキスカ島を奪回せざるを得なくなった[34]。その第一歩としてアダック島に航空基地を建設したが、この島はたびたび霧に包まれた[34]。そこでキスカ島南東に位置するアムチトカ島に進駐、飛行場を建設した[35]。日本軍はアムチトカ島の米軍について知ったのは、1943年︵昭和18年︶1月24日の事であった[36]。アムチトカ島の飛行場は、キスカ島やアッツ島に対する空襲の拠点として機能した[37]。 また、2月にはチャールズ・マクモリス少将が指揮する連合軍艦隊が進出し、日本軍の輸送船を攻撃しはじめる[38]。2月19日、米艦隊はアッツ島を砲撃し、翌日にはアッツ島輸送に従事中の輸送船﹁あかがね丸﹂を重巡洋艦インディアナポリスが撃沈した[39]︵あかがね丸事件︶[5][40]。日本軍の輸送作戦[編集]
1943年︵昭和18年︶2月5日、日本軍は北部軍を改編する形で北方軍︵司令官樋口季一郎陸軍中将︶を新編し︵大陸命第747号︶、北海守備隊を第五艦隊司令長官の指揮下からのぞいて北方軍の隷下においた[41]︵大陸命第748号︶[42][43]。 ﹁北太平洋方面︵千島方面防衛ヲ含ム︶ニ関スル陸海軍中央協定﹂において陸海軍の分担が定められ、同年2月末を目途としてアッツ島とキスカ島に航空基地を建設することを目指した[44]。また﹁︵一︶幌筵(又ハ船団集合地)以東ノ輸送ハ主トシテ海軍之カ実施ヲ担任シ陸軍ハ所要ノ船舶等ヲ以テ之ニ協力スルモノトス 兵員及緊急ヲ要スルモノ竝ニ鳴神島ニ至ルモノハ敵情ニ応シ海軍艦艇ニ依リ輸送ス/︵二︶陸軍輸送船ニハ護衛(間接護衛ヲ含ム)ヲ附スルヲ原則トス﹂という項目があった[45][46]。2月13日、大本営は北海守備隊の編成を改定する[47]。キスカ島に第一地区隊︵隊長佐藤政夫陸軍大佐、歩兵三個大隊︶、アッツ島に第二地区隊︵隊長山崎保代陸軍大佐、歩兵二個大隊︶を配置することとした[48]。西部アリューシャンの防衛は日本陸海軍が共同で担当することになったが、この二重構造はその後の戦局に悪影響を与えたとみられる[49]。 また海軍の任務が増えたにもかかわらず、北東方面の戦力は特に強化されなかった[50]。 2月15日、北方軍司令官・第五艦隊司令長官・大湊警備府司令長官の間で協定がむすばれ、キスカ島とアッツ島に対する輸送作戦﹁ア号作戦﹂を実施することになった[33][51]。これに対し、連合軍はアムチトカ島の飛行場を拠点に空襲を強化し、さらに水上艦艇部隊が進出して日本軍の補給線を脅かした[1]。2月19日、連合軍艦隊はアッツ島を砲撃し[52]、翌20日には同島近海で海防艦八丈が護衛していた陸軍輸送船﹁あかがね丸﹂を撃沈した[17]︵前述︶[53]。 このため、この方面を担当する日本海軍の北方部隊︵第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将、五艦隊参謀長大和田昇大佐︶は、輸送船の護衛と米艦隊の撃滅に従事することになった[54]。アッツ島へは輸送船で輸送をおこない、アッツ島からキスカ島へは潜水艦で輸送する[17]。 3月初旬、第二十一﹁イ﹂船団[8][17]︵特設水上機母艦君川丸、輸送船粟田丸、崎戸丸︶は重巡洋艦2隻︵那智、摩耶︶・軽巡洋艦3隻︵多摩、木曾、阿武隈︶・駆逐艦︵若葉、初霜、雷、電、薄雲︶と海防艦2隻︵国後、八丈︶の護衛と協力の下で幌筵を出動し、輸送船団と北方部隊は3月10日アッツ島に到着した[9][55]、第一次輸送作戦は成功した[56]。3月13日、輸送船団は幌筵に帰投した[57]。 続いて3月22日から3月23日にかけて[58]、第二十一﹁ロ﹂船団[8]︵輸送船浅香丸、崎戸丸、三興丸︶が重巡2隻︵那智︿第五艦隊旗艦﹀、摩耶︶と第一水雷戦隊︵司令官森友一少将︶等に護衛されて幌筵島を出航した[59][60][注 5]。第二次輸送船団は、新任のアッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐︵第二地区隊長︶以下陸兵550名と砲兵や高射砲大隊・糧食・飛行場資材・野戦病院の一部など[17]、キスカ島行の北海守備隊司令部・碇泊場支部・野戦病院の一部などであった[6]。 無線傍受により日本軍輸送船団の出発を知ったアメリカ軍は、マクモリス少将が率いる巡洋艦部隊を派遣した[61]。重巡洋艦ソルトレイクシティなどで編成されたアメリカ艦隊は、本海戦の数日前からアッツ島沖を戦闘[編集]
日本艦隊は天候悪化のためアッツ島突入を1日遅らせ27日と決定した[17]。また日本艦隊主力は、合同できなかった第二護衛部隊︵駆逐艦薄雲、輸送船三興丸︶との合流をめざし、27日午前2時に一旦反転した[64]。当時の日本艦隊は主隊︵第五艦隊司令長官‥第二十一戦隊︿那智、摩耶[65]、多摩﹀、第二十一駆逐隊︿若葉、初霜﹀︶、護衛部隊︵第一水雷戦隊司令官‥軽巡︿阿武隈﹀、第六駆逐隊︿雷、電﹀︶、﹁ロ﹂船団︵浅香丸、崎戸丸、アッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐同乗︶という区分である[66]。 3月27日未明、アッツ島とカムチャッカ半島の中間海域で日本艦隊︵重巡2、軽巡2、駆逐艦4、輸送船2︶と、アメリカ艦隊︵重巡1、軽巡1、駆逐艦4︶は、互いを警戒していて偶然遭遇した[62]。日本側記録によれば北緯53度25分 東経168度40分 / 北緯53.417度 東経168.667度地点であった[注 6]。 連合国軍艦隊が日本軍輸送船団を撃滅しようと進撃し、これを日本軍護衛艦隊が阻止・邀撃しようという点で、スラバヤ沖海戦と似た状況であった[62]。北方へ向かう日本艦隊は先頭から那智︵旗艦‥細萱中将︶- 摩耶 - 多摩 - 若葉 - 初霜 - 阿武隈︵一水戦旗艦‥森少将︶ - 雷 - 浅香丸 - 崎戸丸 - 電からなる単縦陣で、その後方からベイリー - コグラン - リッチモンド - ソルトレイクシティ - デイル - モナガンという米艦隊の単縦陣が追尾するという状況であった[68][69]。 午前2時頃、日本艦隊最後尾にいた駆逐艦電が敵艦隊発見を第一水雷戦隊司令部︵阿武隈︶に報告したところ、一水戦司令部は第二護衛船団︵三興丸、薄雲︶と判断して第五艦隊司令部に報告しなかったとされる[70]。阿武隈水雷長も、後方から接近する艦影を当初は別働隊︵三興丸、薄雲︶と考えており、敵艦隊と判明して司令部は大慌てになったと回想している[71]。3時5分︵日の出一時間前、現地時間及びアメリカ側の記録では26日8時ごろ、以下UTC+9で記述︶、リッチモンドのレーダーは日本艦隊を捕捉、マクモリス少将は輸送船を狙って艦隊を突進させるが、相手が重巡2隻を含むことには気が付いていなかった[72]。 3時10分、浅香丸はマスト発見を報告、続いて阿武隈も米艦隊の存在を全軍に通報した[64]。 3時20分、阿武隈は﹁米重巡オマハ型1・駆逐艦2﹂、続いて﹁ペンサコラ型軽巡1・駆逐艦2﹂を報告、細萱司令長官は日本艦隊は護衛してきた輸送船2隻を北西方向へ退避させ、那智以下は面舵反転、右旋回しながら南下してアメリカ艦隊に接近した[64]。これは米艦隊の退路︵アリューシャン方面︶を断つと同時に、風上側︵当時北東の風︶を占位して有利に攻撃をおこなう意図があった[73]。 3時40分、互いが徐々に距離を詰め、ほぼ同時刻に射撃を始め、砲撃戦を主体に戦闘が展開された。アメリカ艦隊のマクモリス少将は迎撃する日本艦隊を無視して輸送船の撃滅を狙う[74]。細萱中将はこれを阻止するため突撃を下命するが、双方とも高速発揮が可能な巡洋艦部隊であり、互いに決定的なダメージを与えられなかった[74]。日本側重巡の2度目の結果[編集]
アッツ島沖海戦は、航空機や潜水艦の介入なしに行われた、太平洋戦争中の数少ない海上戦闘となった[91]。戦力は日本艦隊側が優勢だったが、アメリカ艦隊に接近できず遠距離砲撃のみとなり、双方とも決定的な損害を与えることができなかった[92][15]。
那智は20cm砲弾832発[注 7]、摩耶は主砲904発・高角砲9発・魚雷8本・艦上機1機を主砲爆風で破損投棄[94]、若葉は距離1万6000mで魚雷6本[40]、初霜は距離1万8000mで魚雷5本[40]、ソルトレイクシティは832発、日本艦隊は魚雷43本、米艦隊は魚雷5本をそれぞれ発射、特に魚雷は1本も命中しなかった[91]。小破した那智は横須賀に戻って修理と電探兵装︵電波探信儀、電波探知機︶の整備をおこなった[95]。
戦略的にみると、米艦隊は﹁日本軍のアッツ島への増援を阻止する﹂という目標を達成した[91]。逆に日本側は、アリューシャン作戦の強行を主張していたはずであった細萱中将の誤った判断︵敵空襲部隊の到着は海戦終了の遥か数時間後︶、決断力不足︵自艦のわずかな損害等を気にし今そこにあった勝利をみすみす逃してしまった︶が災いとなってしまい、同時に主目的であったアッツ島陸軍守備部隊への増援・武器弾薬・物資等の補給が絶たれた[17]。4月上旬[注 8]、第五艦隊は駆逐艦電と薄雲による輸送作戦を計画したが[99][100]、悪天候等を理由に中止された[101][102]。
山崎保代部隊長のアッツ島上陸は当初計画から大きく遅れ[103][104]、伊号31潜水艦によって4月18日着となった[105][106]。またアッツ島・キスカ島への補給は、当分の間、潜水艦や[107]、霧を利用した小規模輸送に限定する事にした[108][109]。北方軍司令官の報告によれば、キスカ島の弾薬は0.6会戦分で糧食は八月末まで、アッツ島は弾薬一会戦分で糧食は四月末まで︵北海守備隊参謀の報告によれば食い延ばして五月中旬まで︶という状況であった[110]。
本海戦の結果は、後のアッツ島の戦いに少なからず影響したとみられる[111]。米艦隊撃滅を期待していた大本営では、第五艦隊の﹁われ敵を東方に逸す。追撃をやめ幌筵に帰投す﹂の電報をうけ落胆した[16]。実際には、米軍から見ても、日本軍側が勝手に変針して遁走したように見えるものであったという[112]。
侍従武官城英一郎大佐は昭和天皇に対する軍令部総長の奏上を聴いて、以下のように記録している[4]。
一六〇〇、軍令部総長︹奏上︺。今朝〇三三〇、熱田島西方160′附近にて、輸送掩護中の5F︵﹁那智﹂﹁摩耶﹂﹁多摩﹂d×4 特巡、T×3︶は、ホノルル型重巡×1、オマハ型×1、d×4と遭遇、四時間に亘り交戦せしも、敵は煙幕にて避退。相当の損害を与へしも、遂に之を逸せり。惜しかりし、再びかかる好機には恵まれざるべし。 — 昭和18年3月27日土曜日、城英一郎著/野村実編﹃城英一郎日記﹄256頁
また本海戦は、スラバヤ沖海戦、サマール島沖海戦と並び、﹁戦前﹃米軍の三倍﹄とまで言われていた日本海軍の遠距離砲撃の命中精度が実は米軍並み、下手をすればそれ以下﹂だった例として挙げられることがあり、一部で論議を呼んだ。
「スラバヤ沖海戦#評価」も参照
黛治夫[注 9]は砲術科の立場からアッツ島沖海戦を振り返り、第五艦隊の将校に問題があったと海軍反省会で指摘している。黛によれば、戦闘後の研究会で二神延三︵海兵51、海戦時の摩耶砲術長︶が、徹甲弾と通常弾を区別せずに発射していたと証言していた[113]。違う性質の弾頭を同時に発射するため、散布界が安定しなくなるという。また第五艦隊司令部が米軍機の空襲を恐れすぎて米艦隊に接近しなかったこと。さらに、日本海軍は平素の射撃訓練において主砲方位盤が破損・故障したことを想定した砲側照準訓練︵各砲塔の照準器を用いる︶を軽視しており、従って本海戦において那智の方位盤が損傷︵もしくは故障︶[78]すると何も出来なくなったという、訓練上の欠陥も指摘している[114]。摩耶は接近するアメリカ巡洋艦と遠ざかるアメリカ巡洋艦を取り違えた[115]。さらに高角砲のためのデータを主砲砲術長に送り、残弾があったにもかかわらず全弾撃ち尽くしたと勘違いするという失態を犯した[116]。
同じく阿武隈以下一水戦艦艇も敵艦隊の予想進路を間違え、逆に発射運動のため敵から遠ざかるという失敗を犯した[117]。駆逐艦電の戦闘詳報は戦闘に参加した他の第五艦隊各艦の消極的姿勢を強く非難している[118]。
海戦後の4月1日、細萱中将は第五艦隊司令長官︵北方部隊指揮官︶を解任され[119]、後任として河瀬四郎中将が着任した[120][注 10]。
また第一水雷戦隊司令官森友一少将は6月初旬に脳溢血で倒れ[123]、後任として木村昌福少将が6月8日附で第一水雷戦隊司令官に任命された[124][125]。
同年の1943年︵昭和18年︶2月に日本軍のガタルカナル島撤退が行われ[126]、ソロモン諸島の戦いは1つの山場を越え、次にニュージョージア島の周辺で日本軍とアメリカ軍の攻防が予想される状況であった[8][127]。そのため、アメリカ領を初めて占領されたアメリカ軍にとっては意義のあるアリューシャン方面の戦いの前哨戦にあたる海戦であったが、日米の双方ともに重要視されなかった。政略的にみると、アメリカ領土の一部を占領されている事に対する国民感情、ソ連が対日参戦した場合に飛行機の中継基地にしたいとの思惑から、米軍はアッツ島・キスカ島の攻略作戦を発動する[128]。5月12日以降の戦闘により[129]、山崎部隊長率いるアッツ島の日本軍守備隊は5月29日に玉砕した[130][131]︵アッツ島の戦い︶[132][133]。
キスカ島に対してはケ号作戦︵キスカ島撤退作戦︶が実施され、日本軍は7月末にキスカ島から撤退した[130][134]。アメリカ軍はコテージ作戦を発動し、約3万4000名のアメリカ軍とカナダ軍将兵がキスカ島に上陸した[131]。連合軍は、日本軍撤退により無人になっていたキスカ島を奪回した[135]。その後、太平洋戦争終結まで同方面で大きな戦闘が起きることはなかった[136]。
外山三郎︵海軍少佐、駆逐艦漣航海長[137][注 11]、時津風航海長[139]等、戦後は防衛大学校教授︶はアッツ島沖海戦の細萱中将と、キスカ島撤退作戦の木村少将を対比して﹁軍隊は即指揮官なりということを改めて痛感させられる。すなわち弱将のもとでは勝利は覚束なく、一度勇将が現われれば、霧が晴れるごとく戦場の問題の多くは、難なく解決されるのである﹂と結んでいる[140]。
参加艦艇[編集]
- 日本海軍
- 指揮官:細萱戊子郎中将(第五艦隊司令長官)
- アメリカ海軍
- 指揮官:チャールズ・マクモリス少将
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 吹雪型駆逐艦︵雷、電、薄雲︶、初春型駆逐艦︵若葉、初霜︶。
(二)^ 浅香丸、崎戸丸、三興丸。
(三)^ 輸送船3隻[7]︵君川丸、粟田丸、崎戸丸︶と北方部隊主力︵那智、摩耶、多摩、木曾、阿武隈、若葉、初霜、雷、電、薄雲︶で幌筵島を出発[8]、3月10日アッツ島に到着した[9]。
(四)^ 輸送船3隻︵浅香丸、崎戸丸、三興丸︶、北方部隊全力︵那智、摩耶、多摩、阿武隈、若葉、初霜、雷、電、薄雲︶で3月22日から23日にかけて幌筵を出発した[10]。
(五)^ 3月22日夕刻に第二護衛部隊︵薄雲、三興丸︶が出撃、3月23日昼から夕刻にかけて北方部隊本隊が出撃した[10]。
(六)^ (昭和18年3月27日、経過概要)[67]︹ 5Fノ大部ヲ以テ浅香丸、崎戸丸、三興丸ヲ護衛シ熱田島ニ応急輸送ヲ実施中〇三〇八53°25′N 168°40′Eニテ敵﹁ペサンコラ﹂型C×1、﹁オマハ﹂型C×1、﹁ソーマス﹂型嚮導d×2 d×2ト遭遇 艦隊ハ直ニTbヲNWニ避退セシメ那智 摩耶 多摩 1Sdノ序列ニテ120°方向ニ展開退路ヲ遮断反抗対勢ニテ〇三四二戰斗開始14000mマデ近泊猛撃風上側ヨリ之ヲ西方ニ圧迫急追 〇七〇五追撃ヲ止メ敵ヲ東方ニ逸ス|北方 5F|戰果 ﹁ペサンコラ﹂型中破以上(20cm×5以上命中後部火災、前部砲塔部使用不能)﹁オマハ﹂型小破(一時火災) d×1中破(20cm×1以上命中傾斜單独戰場避退逃避) d×1小破(AA命中)/被害 那智 被爆七ヶ所損傷軽微戰斗航海差支ナシ 戰死一四名 重軽傷二一名 ︺
(七)^ ﹃図説海軍水雷戦隊(1996)﹄178頁では、那智︵砲弾709発、魚雷16本︶、摩耶︵砲弾904発、魚雷8本︶、日本艦隊合計43本発射と記述する[93]。
(八)^ (昭和18年4月3日、経過概要)[96]︹ d×2(雷/6dg 薄雲/9dg)ヲ以テ熱田島ニ輸送|5F/1Sd 北方|約60t 糧食ハ陸海軍併セ鳴神島ハ六月末マデ熱田島ハ四月末マデアル予定 ︺、p.13(昭和18年4月8日)︹ 8|1730|d×2ハ熱田島ヘ糧食輸送ノ爲幌筵出港(雷/6dg 薄雲/9dg)|北方| ︺、p.16(昭和18年4月10日)︹ d×2/6dg(雷/6dg 薄雲/9dg)ハ熱田島ニ輸送セシモ視界不良ニテ進入出来ズ|1Sd/5F 北方|十一日〇八〇〇敵(飛行機)ニ発見セラレ揚陸断念 ︺(註、一部の二次資料では﹁雷﹂と記載するが同艦は3月30日に幌筵で﹁若葉﹂と衝突事故を起こし、4月上旬より横須賀で修理中[97][98]、﹁電﹂の誤記)
(九)^ 太平洋戦争時、砲術科の黛治夫大佐は水上機母艦秋津洲艦長、重巡利根艦長等を歴任した。
(十)^ ただし4月1日付で実施された細萱と河瀬の人事は[121]、海戦前の3月17日に内定済みであった[122]。
(11)^ 外山は小西要人第7駆逐隊司令︵ビスマルク海海戦やキスカ島撤退作戦時、小西は第9駆逐隊司令︶[138]の指揮下でミッドウェー島砲撃等に参加した。
出典[編集]
(一)^ abc戦史叢書66 1973, pp. 414–417アッツ沖海戦
(二)^ abモリソン 2003, p. 218.
(三)^ 戦史叢書102 1980, p. 170a昭和18年(1943年)3月27日/アッツ島沖海戦(アッツ島第2次輸送船団部隊︿第5艦隊掩護、輸送船3隻﹀、アメリカのアッツ島西方海面で米艦隊と遭遇し、第5艦隊4時間にわたり米艦隊を追撃したが決定的戦果なく輸送断念、米側は﹁コマンドルスキー諸島海戦﹂と呼称)。
(四)^ ab城英一郎日記 256頁︹ (昭和18年)三月二七日(土)曇 ︺
(五)^ ab戦史叢書39 1970, pp. 193–195あかがね丸事件
(六)^ ab戦史叢書39 1970, pp. 195–197集団輸送方式の採用
(七)^ #経過概要S18.03(上) p.12(昭和18年3月7日)︹ 5F主力ハ幌筵出撃 君川丸 粟田丸 崎戸丸ヲ護衛シ熱田島方面ニ進出予定|北方| ︺
(八)^ abcde戦史叢書29 1969, p. 405.
(九)^ ab戦史叢書29 1969, p. 442.
(十)^ ab戦史叢書29 1969, p. 475.
(11)^ 大本営海軍部 1982, pp. 129–132﹁アッツ島沖海戦、惜しくも米艦隊を逸す﹂
(12)^ 図解海軍水雷戦隊 1996, p. 178aアッツ島沖海戦
(13)^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, p. 79.
(14)^ 艦長たち続編 1984, pp. 188–192﹁慌てて敵艦隊を逃がす﹂
(15)^ ab戦場の将器 1997, p. 147.
(16)^ ab大本営海軍部 1982, p. 130.
(17)^ abcdefg戦史叢書66 1973, p. 415.
(18)^ 戦史叢書29 1969, pp. 407–408.
(19)^ 戦史叢書102 1980, p. 170c昭和18年(1943年)3月30日/第5艦隊、アッツ島沖海戦後の北東方面の輸送は船団輸送を霧の季節(7月ころ)まで断念し、その間は潜水艦輸送・応急的艦艇輸送・漁船の集団輸送を併用する方針に変更。
(20)^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 84a-86[解説]二の(二)アッツ島沖海戦失敗の影響
(21)^ 戦史叢書102 1980, p. 125昭和17年(1942年)6月8日/北海支隊はアッツ島、海軍陸戦隊はキスカ島を占領。
(22)^ 戦史叢書29 1969, pp. 278–279﹁長期確保に対する防衛計画と防備実施の状況﹂
(23)^ 戦史叢書29 1969, p. 275.
(24)^ 戦史叢書102 1980, p. 129昭和17年(1942年)7月5日/水上機母艦千代田、運送船アルゼンチナ丸(陸戦隊・特殊潜航艇・水上戦闘機等搭載)キスカ入港、第18駆逐隊キスカ港外で雷撃を受ける。
(25)^ 戦史叢書29 1969, pp. 272–273.
(26)^ 歴群57、艦載兵装の変遷 2007, p. 142.
(27)^ 戦史叢書29 1969, p. 274.
(28)^ ab海軍駆逐隊 2015, pp. 310–311.
(29)^ 戦史叢書29 1969, pp. 337–338.
(30)^ 戦史叢書29 1969, pp. 363–367﹁アッツ島の再占領と北海守備隊の編成発令﹂
(31)^ 戦史叢書102 1980, p. 147昭和17年(1942年)10月30日/北千島要塞歩兵隊アッツ島に上陸(第2次上陸11月12日、増強部隊上陸11月25日)。
(32)^ 戦史叢書66 1973, pp. 137–139西部アリューシャン方面の防衛問題
(33)^ ab戦史叢書66 1973, p. 149現地陸海軍協定と﹁ア﹂号輸送
(34)^ abc太平洋の試練、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 346.
(35)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, pp. 154a-160アッツとキスカの奪回
(36)^ 戦史叢書66 1973, p. 138.
(37)^ 大本営海軍部 1982, pp. 126–128﹁アリューシャンに暗雲﹂
(38)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 154b.
(39)^ 戦史叢書29 1969, p. 404.
(40)^ abc歴群57、艦載兵装の変遷 2007, p. 147.
(41)^ 戦史叢書39 1970, p. 187北海守備隊の隷属転移
(42)^ 戦史叢書66 1973, pp. 139–144北東方面統帥機構の改編と防備の強化
(43)^ 戦史叢書102 1980, p. 163昭和18年(1943年)2月5日
(44)^ 戦史叢書39 1970, pp. 182–187防衛態勢の整備と陸海軍中央協定の発令
(45)^ 戦史叢書66 1973, pp. 141–143.
(46)^ 戦史叢書66 1973, pp. 146–147陸海軍中央協定の問題点
(47)^ 戦史叢書102 1980, p. 164a昭和18年(1943年)2月13日/大本営、北海守備隊を編成改正し兵力を増強。
(48)^ 戦史叢書66 1973, pp. 144–145北方軍の性格と北海守備隊の増強
(49)^ 戦史叢書66 1973, pp. 145–146北海守備隊の隷属問題
(50)^ 戦史叢書39 1970, p. 188陸海軍中央協定に関する問題
(51)^ 戦史叢書102 1980, p. 164b昭和18年(1943年)2月15日/北方軍・第5艦隊・大湊警備隊間にアッツ・キスカの飛行場設定及び軍需品輸送等に関する現地陸海軍協定締結。
(52)^ 戦史叢書102 1980, p. 165a昭和18年(1943年)2月19日/米水上艦艇、アッツ島砲撃。
(53)^ 戦史叢書102 1980, p. 165b昭和18年(1943年)2月20日/陸軍輸送船あかがね丸、アッツ島入港直前に米艦隊に撃沈される(2月28日、海軍の北方部隊はアッツ島輸送を集団輸送方式に改む)。
(54)^ 重巡摩耶 2002, p. 171.
(55)^ 日本海軍の栄光 1983, pp. 18–19.
(56)^ 戦史叢書102 1980, p. 167昭和18年(1943年)3月10日/アッツ島輸送船団(3隻、水上戦闘機6機・水偵3機・人員342名・軍需品約700屯搭載)、北方部隊主力の掩護下にアッツ島揚陸に成功(~13日幌筵帰着)。
(57)^ 城英一郎日記 252頁︹(昭和18年)三月一四日(日)(中略)○5F︹の︺熱田島輸送船は、幌筵帰着 ︺・︹(昭和18年)三月一五日(月)(中略)○キスカ方面、敵空襲、5Fはアッツに相当物件を揚陸せり。︺、#経過概要S18.03(上) p.19(昭和18年3月13日)︹ 5F(21S 摩耶 1Sd 薄雲 君川丸 粟田丸)ハ幌筵ニ帰投|北方|主要輸送物件 fsr×3 fsc×9 電波探信儀(飛行場)設営材料、糧食燃料計700t 第二次輸送ハ三月二二日ノ予定 ︺
(58)^ #経過概要S18.03(下) p.7(昭和18年3月23日)︹ 23|1629|熱田島ヘノ輸送掩護ノ為5F長官ハC×4 d×5 aC×1(浅香丸)ヲ率ヒ幌筵出撃|北方 5F|摩耶、21S(那智、多摩)、薄雲、1Sd(阿武隈 6dg(雷電)、21dg(若葉、初霜) ︺
(59)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 180.
(60)^ 戦史叢書102 1980, p. 169昭和18年(1943年)3月22日/アッツ島第2次輸送船団(北方部隊主力護衛、輸送船3)、幌筵出港(27日アッツ海戦生起のため途中から帰還)。
(61)^ ab太平洋の試練、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 347.
(62)^ abcモリソン 2003, p. 219.
(63)^ #経過概要S18.03(下) p.5(昭和18年3月22日)︹ 22|0840|fSrハ北海湾ノ135°140′ニ﹁オマハ﹂型C×1 d×1針路240°航行中ヲ発見(四五二fg)|北方 51Bg| ︺
(64)^ abc図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 80b-81.
(65)^ 大本営海軍部 1982, p. 131重巡妙高と記述するが、摩耶の誤認。
(66)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 179﹁アッツ島沖海戦まで﹂
(67)^ #経過概要S18.03(下) p.16(昭和18年3月27日)
(68)^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 80a-81第二図 アッツ島沖海戦合戦図
(69)^ 雷海戦記 2014, p. 299﹁アッツ島沖海戦行動図(0507ごろの態勢)﹂
(70)^ 雷海戦記 2014, p. 297.
(71)^ ab艦長たち続編 1984, p. 190.
(72)^ abcdニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 155.
(73)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 181.
(74)^ abcモリソン 2003, pp. 220–221.
(75)^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 82a-83[解説]二の(一)戦闘記録]
(76)^ 雷海戦記 2014, p. 301.
(77)^ 大本営海軍部 1982, p. 132.
(78)^ abcd佐藤、艦長たち 1993, p. 411.
(79)^ 海軍下士官兵 1971, pp. 161–162.
(80)^ ab海軍下士官兵 1971, pp. 162–163.
(81)^ abcdefghij図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 82b-83.
(82)^ ab雷海戦記 2014, p. 302.
(83)^ 佐藤、艦長たち 1993, p. 412.
(84)^ 海軍下士官兵 1971, p. 162.
(85)^ abcモリソン 2003, p. 222.
(86)^ 歴群57、艦載兵装の変遷 2007, p. 148.
(87)^ 雷海戦記 2014, p. 303.
(88)^ #奇蹟の海から(単行本)228頁
(89)^ ab太平洋の試練、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 348.
(90)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 156.
(91)^ abcdモリソン 2003, p. 223.
(92)^ 図説太平洋海戦史第3巻 1995, pp. 84b-85.
(93)^ 図解海軍水雷戦隊 1996, p. 178b.
(94)^ 重巡摩耶 2002, p. 178.
(95)^ 歴群57、艦載兵装の変遷 2007, p. 94一八年四月の﹁那智﹂
(96)^ #経過概要S18.04(上) p.5(昭和18年4月3日)
(97)^ 戦史叢書29 1969, p. 444.
(98)^ 雷海戦記 2014, pp. 305–308.
(99)^ 戦史叢書39 1970, p. 197b.
(100)^ 戦史叢書29 1969, p. 445.
(101)^ 戦史叢書66 1973, p. 416.
(102)^ 戦史叢書102 1980, p. 170b昭和18年(1943年)3月30日/海軍北方部隊指揮官、﹁雷・薄雲﹂の両駆逐艦にアッツ強行輸送を下令(4月2日出撃したが荒天のため不成功、4月8日再行したが敵機の触接をうけ帰投)。
(103)^ 戦史叢書29 1969, p. 453.
(104)^ 戦史叢書102 1980, p. 173昭和18年(1943年)4月18日/北海守備第2地区隊長山崎保代大佐、アッツ島到着。
(105)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 182﹁(三)アッツ島沖海戦失敗の影響﹂
(106)^ 戦史叢書98 1979, p. 237.
(107)^ 戦史叢書98 1979, pp. 235–238米軍アッツ島来攻前の潜水部隊の概況
(108)^ 戦史叢書39 1970, pp. 197a-204現地軍の作戦研究
(109)^ 戦史叢書102 1980, p. 170d昭和18年(1943年)3月30日
(110)^ 戦史叢書66 1973, pp. 417–418西部アリューシャンの状況と藤井参謀の報告
(111)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 177.
(112)^ “アッツ島の玉砕 附:辰口信夫日記”. 大村紀征. 2023年8月17日閲覧。
(113)^ 海軍反省会3 2012, p. 329.
(114)^ 海軍反省会3 2012, pp. 308–309.
(115)^ 重巡摩耶 2002, pp. 173–174.
(116)^ 海軍艦隊勤務 2001, p. 188.
(117)^ 戦史叢書29 1969, p. 512.
(118)^ #S17.12電詳報其弐(5) pp.16-17︹ 七.所見 ︵イ︶近迫攻撃ニ缺クルモノアリ ︵ロ︶射撃ニ関シ更ニ研究ノ余地大ナリ斯カル戰斗ヲ以テセバ晝間同等程度ノ兵力ニテハ敵ニ打撃ヲ與フルコト不可能ナリ ︵ハ︶水雷戦隊ノ遠距離少数射線発射又研究ノ余地大ナリ ︵ニ︶積極的戦法ニ缺クルモノ大ナリ ︺
(119)^ 戦史叢書39 1970, p. 196.
(120)^ 戦史叢書102 1980, p. 171昭和18年(1943年)4月1日/第5艦隊司令長官交代(細萱戊子郎中将→河瀬四郎中将)。
(121)^ 城英一郎日記 258頁︹ (昭和18年)四月一日(木)曇、稍寒し(略)午後、小林︹仁︺中将(長官)/4F、井上︹保雄︺中将︹大湊警備府︺(大警長官)親補式。他に、鮫島︹具重︺8F、河瀬︹四郎︺5F長官、高木︹武雄︺高雄警備府長官親補せらる。︹久邇宮︺朝融王殿下、一九聯空司令官。(以下略)︺
(122)^ 城英一郎日記 253頁︹ (昭和18年)三月一七日(水)晴 一五〇〇~一五四五、海相内奏。鮫島︹具重︺8F、小林︹仁︺4F、細萱︹戊子郎︺、三川︹軍一︺出仕、井上︹保雄︺大警、河瀬︹四郎︺5F(以下略) ︺
(123)^ 日本海軍の栄光 1983, pp. 64–67.
(124)^ 戦場の将器 1997, pp. 150–151.
(125)^ 日本海軍の栄光 1983, pp. 68–72.
(126)^ 大本営海軍部 1982, pp. 112–116﹁ガダルカナル撤退作戦﹂
(127)^ 大本営海軍部 1982, pp. 118–119﹁昭和十八年二月の情勢﹂
(128)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 157.
(129)^ 戦史叢書98 1979, pp. 238–239米軍のアッツ島来攻
(130)^ ab大本営海軍部 1982, pp. 133–136.
(131)^ ab太平洋の試練、ガ島からサイパン(上) 2016, p. 350.
(132)^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 120–121.
(133)^ 戦史叢書102 1980, p. 179昭和18年(1943年)5月29日/アッツ島守備隊(陸軍大佐山崎保代以下約2500名)玉砕。
(134)^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 121–124﹁敵の失策をついて避退成功﹂
(135)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 159.
(136)^ ニミッツの太平洋海戦史 1962, p. 160.
(137)^ ﹁昭和17年5月22日(発令5月22日付)海軍辞令公報(部内限)第864号 p.30﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072085500
(138)^ ﹁昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072089700
(139)^ ﹁昭和17年6月25日(発令6月24日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.22﹂ アジア歴史資料センター Ref.C13072085900
(140)^ 太平洋海戦史4 1985, p. 188.
(141)^ 海軍下士官兵 1971, p. 159.