エトルリア
エトルリア︵ラテン語: Etrusci︶は、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群。ギリシア語ではテュッレーニア (Τυρρηνία Tyrrhenia)。
各都市国家は宗教・言語などの面で共通点があり、統一国家を形成することはなかったものの、12都市連盟と呼ばれるゆるやかな連合を形成し、祭祀・軍事で協力することもあった。
古代ギリシアとは異なる独自の文化をもっていた。当時としては高い建築技術をもち、その技術は都市国家ローマの建設にも活かされた。王政ローマの7人の王の最後の3人はエトルリア系である[1]。
鉄を輸出し古代ギリシアの国家と貿易を行っていた。
紀元前5世紀からカンパニア地方の原住民の自立とサムニウム人の侵入、ポー川流域からはガリア人の侵入を受けて勢力圏を縮小すると[2]、更に紀元前396年に共和政ローマの攻撃によりウェイイが陥落、その後150年かけてエトルリアの諸都市はローマの支配下に入り、紀元前91年からの同盟市戦争によってローマ市民権を得た[3]。
沿革[編集]
「エトルリア人」も参照
ヘロドトスによれば、エトルリア人は小アジアのリュディアからこの地にやってきたという。一方、ハリカルナッソスのディオニュシオスは、エトルリア人はイタリア古来の民族だと述べている。現在の調査では正式には、エトルリア人が小アジアの出自であることに直結するような証拠はない。しかしながら、ある調査ではエーゲ海のレムノス島では紀元前6世紀までインド・ヨーロッパ語ではない民族が居住していた跡が見られ、その民族の言語がエトルリア人と似ていることが指摘されている。
また、エトルリア人は海を往来する民族でもあり、古代地中海世界の至るところでその存在が記録されている。一説には古代エジプト第20王朝の記録にある﹁海の民﹂はエトルリア人ではなかったかとも言われている。
エトルリア人についての伝存する最古の記述はヘーシオドスの著した﹃神統記﹄のなかにある。そこでは、エトルリア人は﹁ティレニア海の輝けるすべての民﹂として、イタリアにおける非ギリシア民を含む意味合いで言及されている。ヘーシオドスの著作は紀元前7世紀初め頃に記されたが、この時期︵紀元前690年 - 680年︶の最も古いエトルリアの碑文に、すでにアルファベットの使用が認められ、これはエトルリア商人が商業地であるクマ︵現在のナポリ近郊︶でギリシア人との交易から、少なくともこれより70年前に学んだものであることは確実である。
エトルリアは、紀元前10世紀頃から花開いたヴィッラノーヴァ文明に端を発する。可能性として、すでにこの半島の各地にそれぞれ異なる文化圏の形成があったと考えられ、これがかのヴィッラノーヴァ文明にほかならない。
詳細は「ローマ・エトルリア戦争」および「同盟市戦争」を参照
王政ローマ時代、ローマの幾人かの王はエトルリア人が務めており、彼らの文化的優位性が窺える[4]。紀元前4世紀、ローマの勢力が強くなると、ウェイイやフィデナエを巡る戦争を経てローマと同盟を結び、実質的には従属した。同盟市戦争の結果、紀元前88年頃にローマ市民権を得ている[5]。
エトルリアの名前は、近世イタリアのエトルリア王国や現代イタリアのトスカーナ州︵﹁エトルリア人の土地﹂の意︶、ティレニア海︵﹁エトルリア人の海﹂の意︶として残っている。