エリトリア
- エリトリア国
- ሃገረ ኤርትራ(ティグリニャ語)
دولة إرتريا(アラビア語)
State of Eritrea(英語) -
(国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:ኤርትራ ኤርትራ ኤርትራ
エリトリア、エリトリア、エリトリア -
公用語 ティグリニャ語(ティグリニャ民族が人口の48%)を含む、その他8つの民族言語が用いられてるため、共通語としてアラビア語と英語 首都 アスマラ 最大の都市 アスマラ 独立
- 日付
- 承認エチオピアより
1991年5月29日
1993年5月24日通貨 ナクファ(ERN) 時間帯 UTC(+3) (DST:なし) ISO 3166-1 ER / ERI ccTLD .er 国際電話番号 291
概要[編集]
1960年から1991年までの30年間エチオピアからの独立戦争を経て、エリトリア解放戦線から一部左派が1970年に分派結成したエリトリア人民解放戦線︵EPLF、1994年以降は民主正義人民戦線に改組︶を率いたイサイアス・アフェウェルキが大統領に就任し、マルクス主義・共産主義的政策に基づく政治を行っている[4]。 亡命ライターによると2001年に政府要人の半数が逮捕されたが、その被逮捕者は2017年時点でも行方不明である[5]。2021年時点でもマルクス主義の影響を受けた、共産主義・社会主義国の一つである[4]。 大学︵唯一の大学であった国立アスマラ大学は閉鎖後に軍傘下教育機関らへ改組され、軍管轄のカレッジらは設立された︶・野党、独立した報道機関が存在しない一党独裁国家であり、一般国民は18歳になると政府支配下の農民か兵士を含む低賃金または無賃労働の奴隷的公務員となることが55歳︵2019年時点での平均寿命は66.32歳[6]︶まで義務付けられている。これを嫌い、国外に出ようとする人も絶えない。人口の約80パーセントが生産性の低い農業と牧畜に従事しているが、耕地はエリトリアの面積の2パーセントに過ぎず、食料の約70パーセントを輸入や人道援助に頼っている[3][7]。 ただし、2019年時点で外国人観光客にとっては、移動の自由を制限されて監視下にも置かれる北朝鮮よりは自由で、逆に他のアフリカ諸国より治安は良く、ホテルでならば電波も︵動画視聴が不可能なレベルの非常に低速度であるが︶一応繋がる[8]。2018年には、国境を巡る対立が20年も続いていた隣国エチオピアとの間で航空便の行き来を含む外交関係︵国交︶再開の合意に至った[8][9]。 2023年時点でアフリカの中では2番目に若い独立国であり[10]、東アフリカと北アフリカ諸国の一つに位置づけられる。西にスーダン、南にエチオピア、南東部にジブチと国境を接する。北は紅海に面し、1,350キロメートル以上にも及ぶ長い海岸線を持ち、領海内にはダフラク諸島など約350の小島が点在する[11]。対岸側にはサウジアラビアとイエメンがある。 元々はエチオピア帝国の領土だった海岸部をイタリア王国が植民地政策によって1890年に分離させた[3]地域であり、エリトリア独立戦争を経て1991年5月29日に独立を宣言。1993年4月に実施された国際連合監視下の住民投票に基づき、同年5月24日に独立を達成した。1998年5月から両国はエチオピア・エリトリア国境紛争を戦ったが[3]、2018年7月8日に関係正常化の合意文書に調印した[12]。2020年から2021年には、エチオピア北部ティグレ州で起きたティグレ人民解放戦線︵TPLF︶の反政府蜂起に際して、エチオピア政府側で派兵した[13]。 内政面では独立以降、中華人民共和国に留学して毛沢東思想や軍事知識を学んだイサイアス・アフェウェルキ大統領が実質的に率いる民主正義人民戦線の一党独裁制が続いている。﹁アフリカのシンガポール﹂というスローガンを掲げて、同国を手本にした国作りを進めている[14]が、国連や国際NGOなどから深刻な人権侵害・圧政が報告されており﹁アフリカの北朝鮮﹂[15][5]と批判・揶揄されることが多い[16][17]。国境なき記者団による世界報道自由度ランキングではほぼ毎回北朝鮮と最下位を争い[7][17]、フリーダム・ハウスの報道の自由度調査においてもワースト上位に位置する[18]。周辺諸国との紛争や兵役、抑圧的な政治体制により大量の国民が国外に脱出して国際的な難民問題になっている[19][20]。国名[編集]
正式名称は、ሃገረ ኤርትራ (Hagere Ertra)、通称、ኤርትራ (Ertra)[21]。アラビア語では دولة إرتريا。通称 إريتريا (Iritriyá)[11]。 古代ギリシャ語の﹁赤﹂を意味するエリュトゥロス (ἐρυθρός) から派生したエリュトゥラー (Ἐρυθρά) は、紀元前4世紀のヘレニズム時代の作品に紅海の赤の意味で使われている記録があり、1世紀に紅海からインド洋にかけての南海貿易について記された航海案内書﹃エリュトゥラー海案内記﹄にも登場する。エリトリアの名前はイタリアが19世紀に植民地として支配するにあたり、ラテン語で﹁紅海﹂を意味する Mare Erythraeum にちなんでつけられたといわれる[22]。 公式の英語表記は State of Eritrea︵ステイト・オヴ・エリトレイア、エリトリーア︶[3]。通称 Eritrea ([ˌɛrɪˈtreɪə][23]、[ˌɛrɪˈtriːə][24])。 日本語の表記は、エリトリア国、通称、エリトリア[3]。歴史[編集]
先史時代[編集]
古代[編集]
プント国[編集]
オナ文化[編集]
紀元前4世紀。プント文化に続くオナ文化はアフリカの角地域において牧畜や農業といったコミュニティによって形成された都市文化である。アスマラの近郊のセムベル遺跡からはアメンホテプ2世の時代のエジプトの都市テーベと貿易していた貨物が発掘された。ガシュ・グループ[編集]
エリトリア内陸部に位置するガシュ・バルカ地方にあるアゴルダトのバルカ川渓谷沿いに、ナイル川の上流山脈系統の遊牧民文化が栄えた、同時期にスーダンのヌビアで栄えたケルマ文化と共通する特徴を持っている。ケルマ文化に属する民族はアフロ・アジア語族に属し、ベルベル語派、クシ語派に分類される言語を用いていたと言語学的な証拠から推定している。ダムト王国 (D'mt)[編集]
アクスム王国[編集]
中世[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
オスマン帝国[編集]
1557年、オスマン帝国領ハバシュ・エヤレトとなった︵オスマン帝国のハバシュ征服︶。以後、エジプト領やエチオピア領の一部となった。イタリア王国[編集]
イギリス軍政下[編集]
エチオピア・エリトリア連邦[編集]
第二次世界大戦後、国際連合はエリトリアの帰属に関する問題を審議した。そして、エリトリアはエチオピアとの連邦制にするという案が46対10で可決され、1952年9月15日、エチオピア・エリトリア連邦を形成した[27]。エチオピア軍政下[編集]
エチオピアは、予防拘禁法を発布し、10年間、新聞の編集者を逮捕したり、独立系の出版社を閉鎖、ナショナリストなどを国外へ追放し、労働組合や政党を禁止した。また、エリトリアの国旗をエチオピアの国旗で置き換え、公の場や学校でのエリトリアの現地言語が使用を禁じさせられ、関税のエリトリアの取り分を差し押さえた。全ての産業も、アスマラからアディスアベバに移転させられた[27]。そして、1962年、エチオピア議会はエリトリアの併合を決議[3]し、11月14日、エチオピア軍は、エリトリア議会を強制的に解散し、エチオピアは正式にエリトリアを14番目の州として併合した[27]。エリトリア独立戦争[編集]
独立[編集]
1991年5月29日、初代大統領のイサイアス・アフェウェルキが独立宣言を行った。この時の合意によりTPLFを中心としたエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) によるエチオピア新体制︵メレス・ゼナウィ政権︶の確立に伴い、1993年5月24日に独立承認された。5月28日には国際連合へ加盟申請、承認された[27]。エチオピアとの対立と和平[編集]
1998年から2000年にかけてエチオピア・エリトリア国境紛争が発生。エチオピアとの関係が再び悪化した。2010年代後半、エチオピアの首相にアビィ・アハメドが就任すると、和解の機運が高まり、2018年7月9日に首都アスマラにおいて、エチオピアのアビィ首相とエリトリアのイサイアス大統領が首脳会談を行い、2018年9月5日にはエリトリアの首都アスマラで、エリトリアとソマリア、エチオピアの3カ国による﹁包括協力協定﹂に署名。さらに同年9月16日、サウジアラビアの仲介によりエチオピアとの間で﹁ジッダ平和協定﹂に署名した[28]。 2020年から2021年にかけては、ティグレ州紛争でエチオピア政府を支持して参戦した。両国政府は当初、派兵の事実を否定していたが国際社会の圧力を受けて2021年に認め、﹁TPLFがエリトリアの首都アスマラを砲撃したため﹂と説明した。4月3日にエチオピア外務省はエリトリア軍が撤兵を開始したと発表した[13]。政治・立法・司法の一致[編集]
元首[編集]
国家元首は大統領。独立以来、初代大統領でPFDJ書記長のイサイアス・アフェウェルキが一貫して就任している。憲法規定によれば、大統領は5年の任期を持ち、国民議会により選出されることとなっているが、憲法が未施行のため、選挙は無期延期となっている[17]。行政[編集]
首相職は設置されていない。内閣は大統領が任命する閣僚で構成されるが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はその執行機関に過ぎない。よってその権力は極めて小さく、大統領の補佐機関であるといえる。
立法[編集]
議会は一院制の国民議会。104議席で、PFDJ中央委員会の委員40名と、任命制の議員64名で構成される。だが列国議会同盟 (IPU) によれば、エリトリアの国民議会はPFDJ中央委員会の委員75名、旧制憲議会議員60名、在外エリトリア人代表15名で構成される150議席の議会とされている。いずれにせよ、国民による選挙は行なわれておらず、PFDJの政策を追認する役割しか持たない。また、憲法が未施行であるため暫定的な権能しか有しておらず、任期も定められていない。
政党[編集]
政党設立には国家による許可が必要であり、PFDJが唯一、政党としての活動を認められている。だが反政府勢力としてエリトリア解放戦線 (ELF) やエリトリア国民同盟 (ENA) などが存在している。
司法[編集]
最高司法機関は高等裁判所で、その下に地方裁判所などが存在。行政裁判などを担う特別法廷も設置されている。
国際関係[編集]
対エチオピア関係[編集]
対ジブチ関係[編集]
国境を巡って隣国ジブチと対立しており、1990年には二度の軍事衝突が起きている。停戦が成立したが、国境線を巡る緊張は続いた。2008年6月10日から13日、ジブチ・エリトリア国境紛争で再び両軍の間で戦闘が起きた。ジブチ政府はエリトリアが再び国境線に軍を増強しているとして非難し、国際社会の介入を求めた。
対イエメン関係[編集]
天然ガス田をめぐってハニーシュ群島紛争(1993年 - 1998年)が勃発した。
対アラブ首長国連邦関係[編集]
2015年にアラブ首長国連邦(UAE)は初の海外基地[37] としてアッサブに軍事拠点を設置する契約をエリトリアと締結[38]、これによりアッサブではUAEの保有するフランス製のミラージュ2000戦闘機や中国製の翼竜Ⅱ無人攻撃機[39] などが展開された。前述のエチオピアとの歴史的和解にはUAEの関与もあったとされ[40]、2018年7月24日にイサイアス大統領はエチオピアのアビィ首相とともにUAE最高勲章のザイード勲章を授与されている[41]。
対アメリカ合衆国関係[編集]
アメリカはエリトリア独立時に国家承認を行わず1993年に国交を樹立したが、両国関係は良好ではなく、アル・シャバブなどの支持・一党独裁下でのメディアを規制・野党勢力の弾圧・正式な憲法が施行されていないことなどから両者の関係は緊張状態である。また、2021年11月12日、エチオピアの北部の地域での紛争を巡って、エチオピアに派兵しているエリトリアの軍やエリトリアの与党などに制裁を科すと発表した。アントニー・ブリンケン国務長官は声明で「エチオピアにおけるエリトリアの混乱を招く存在が紛争を長期化させている」とし、エリトリア軍の兵士による「深刻な人権侵害」についても批判し、エチオピアから即時に撤退するよう求めた[42]。
対日本関係[編集]
国家安全保障[編集]
兵力(2009年)[編集]
地理[編集]
-
マッサワ沿岸
-
ダフラク諸島
-
アスマラ近郊
-
ケレン市内
-
アゴルダト市内
-
バルカ地方の住居
気候[編集]
- 北東海岸
マッサワ(セメナウィ・ケイバハリ地方)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 29 (84) |
29 (84) |
31 (88) |
33 (91) |
36 (97) |
40 (104) |
40 (104) |
40 (104) |
38 (100) |
35 (95) |
33 (91) |
30 (86) |
34.5 (94.1) |
日平均気温 °C (°F) | 24.5 (76.1) |
25 (77) |
27 (81) |
29 (84) |
31 (88) |
33 (91) |
35 (95) |
34 (93) |
33 (91) |
30 (86) |
28 (82) |
25.5 (77.9) |
29.7 (85.5) |
平均最低気温 °C (°F) | 20 (68) |
21 (70) |
22 (72) |
24 (75) |
25 (77) |
27 (81) |
29 (84) |
28 (82) |
27 (81) |
25 (77) |
22 (72) |
21 (70) |
22.4 (72.3) |
雨量 mm (inch) | 33 (1.3) |
25 (0.98) |
8 (0.31) |
8 (0.31) |
4 (0.16) |
0 (0) |
9 (0.35) |
11 (0.43) |
4 (0.16) |
16 (0.63) |
33 (1.3) |
33 (1.3) |
184 (7.24) |
% 湿度 | 79 | 79 | 78 | 75 | 69 | 58 | 57 | 61 | 65 | 70 | 74 | 79 | 70.3 |
出典:[49] |
- 東海岸
アッサブ(デブバウィ・ケイバハリ地方)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 32 (89) |
32 (90) |
34 (94) |
37 (99) |
37 (99) |
37 (98) |
40 (104) |
39 (103) |
38 (100) |
37 (99) |
35 (95) |
33 (91) |
35.9 (96.8) |
平均最低気温 °C (°F) | 20 (68) |
19 (67) |
21 (69) |
24 (75) |
26 (78) |
28 (82) |
31 (87) |
30 (86) |
28 (82) |
26 (78) |
22 (72) |
21 (69) |
24.7 (76.1) |
降水量 mm (inch) | 5 (0.2) |
3 (0.1) |
3 (0.1) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
15 (0.6) |
8 (0.3) |
5 (0.2) |
0 (0) |
0 (0) |
20 (0.8) |
59 (2.3) |
出典:Weatherbase [50] |
- 中央高原
アスマラ(マアカル地方)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 22 (72) |
24 (75) |
25 (77) |
25 (77) |
25 (77) |
25 (77) |
22 (72) |
22 (72) |
23 (73) |
22 (72) |
22 (72) |
22 (72) |
23 (73) |
日平均気温 °C (°F) | 14 (57) |
15 (59) |
16 (61) |
17 (63) |
18 (64) |
18 (64) |
16 (61) |
16 (61) |
16 (61) |
15 (59) |
14 (57) |
13 (55) |
16 (61) |
平均最低気温 °C (°F) | 4 (39) |
5 (41) |
8 (46) |
9 (48) |
10 (50) |
11 (52) |
11 (52) |
11 (52) |
9 (48) |
8 (46) |
7 (45) |
5 (41) |
8 (46) |
降水量 mm (inch) | 4 (0.16) |
2 (0.08) |
15 (0.59) |
33 (1.3) |
41 (1.61) |
39 (1.54) |
175 (6.89) |
156 (6.14) |
16 (0.63) |
15 (0.59) |
20 (0.79) |
3 (0.12) |
518.6 (20.417) |
出典:NOAA[51] |
- 西部高原
アゴルダト(ガシュ・バルカ地方)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 32 (89) |
33 (92) |
36 (96) |
39 (103) |
40 (104) |
37 (99) |
33 (91) |
32 (89) |
35 (95) |
37 (99) |
36 (96) |
33 (92) |
35.3 (95.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 14 (58) |
14 (57) |
14 (58) |
18 (65) |
22 (72) |
22 (72) |
21 (69) |
21 (70) |
21 (69) |
21 (70) |
19 (67) |
16 (61) |
18.6 (65.7) |
降水量 mm (inch) | 0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
10 (0.39) |
30 (1.18) |
100 (3.94) |
140 (5.51) |
40 (1.57) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
320 (12.59) |
出典:Weatherbase [52] |
地方行政区分[編集]
エリトリアは以下の6地方で構成され、それぞれがさらに複数の地区に分けられている。
主要都市[編集]
経済[編集]
人口の80%が第一次産業の農業に従事しているが[53]、GDPの1割しか占めていない。産業別のGDPでは運輸業が3割以上を占め、工業・その他サービス部門を含めると8割以上に達している。エチオピアとの国境紛争は、難民・避難民の大量発生、紛争地域のインフラ破壊など、エリトリア経済に深刻な影響を与えた。
独立の動きが始まった町の名「ナクファ」が現在の通貨の単位となっている。1ナクファ紙幣にはビリン人、5ナクファ紙幣にはアファール人というように、主要民族の人々がそれぞれ印刷されており、コインには国内に生息するガゼルなどの野生動物が刻印されている。アメリカ合衆国ドルとの交換レートは固定相場制を取っており、1米国ドル=15ナクファと定められているが、非常に高いインフレ率のため実際にはこのレートで交換されることはない。
交通[編集]
国民[編集]
民族[編集]
言語[編集]
婚姻[編集]
婚姻してもほとんどの女性は改姓しない︵夫婦別姓︶[56]。宗教[編集]
教育[編集]
医療[編集]
治安[編集]
2021年03月02日時点で外務省は、﹁国内における凶悪犯罪や外国人を狙った犯罪等は多くありませんが、首都アスマラ市やマッサワ市等の都市部では、夜間の外出を控える等、犯罪や事故に巻き込まれないように十分注意してください。また、エチオピア、ジブチ及びスーダンとの国境周辺地域は政情が不安定ですので、別途発出している危険情報等を踏まえて対応するよう心掛けてください。﹂としている[61]。この節の加筆が望まれています。 |
人権[編集]
難民問題[編集]
周辺諸国との国境紛争問題や、徴兵制度への不満により[69][70]、同国からは2014年半ばまでに約35万7000人余りが国外へ脱出し、現在も毎月5000人近くの国民が脱出している。国民は国境に近付いただけで厳しく処罰され、外国から帰国すれば拘束され、拷問を受ける場合もある[67]。一時は越境を図った者はその場で射殺され、一部の証言者は国際連合の調査[71] に﹁標的にされたことがある﹂と話した。 難民がヨーロッパ︵特に旧宗主国のイタリア︶に向かうために、地中海を渡ろうとして遭難死する事故が毎年多発している[72]。欧州連合︵EU︶加盟国、特に上陸地点となるイタリアやギリシャでは、同国を含むアフリカからの難民が受け入れの限度を越え、危機的な問題となっている。マスコミ[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
文化[編集]
食文化[編集]
コーヒー・セレモニー[編集]
コーヒー・セレモニーとはエリトリアやエチオピアの伝統的な習慣であり、コーヒーを飲むことを儀式化した作法の一つである。日本の茶道と同様、コーヒーを飲むという行為に精神的な要素や教養などが含まれる文化的な習慣であり、他者に対する感謝ともてなしの精神を表すものである。女性が執り行うものであり、結婚前の女性が身につけるべき作法の一つとされている。冠婚葬祭の際や、大切な客を迎える際などに行われる。使われるポットやカップなどの茶器は女性が実母からや嫁ぎ先で代々受け継がれてきたものであることもある。客の前でコーヒーの生豆を煎るところから始め、3杯飲むことが正式であることから、1時間半から2時間以上かかる場合もある。その間は香を焚き、客はパンやポップコーン(ファンディシャ)などを食べながら待つ。
文学[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
音楽[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
美術[編集]
著名な人物には、ビジュアルアーティストとして活動しているマイケル・アドナイや米国へ移住し精力的に活動を続けている芸術家のイェギザウ・マイケル、ドイツのデュッセルドルフに在住する芸術家であるアロン・メジオンがいる。
この節の加筆が望まれています。 |
映画[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
世界遺産[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日[73] | 元日 | Amet ሓዲሽ ዓመት | |
1月7日[73] | エリトリア正教会のクリスマス | Lidet ልደት | |
1月19日[73] | 神現祭 | Timket ጥምቀት | |
移動祭日 | 預言者生誕祭 | ||
2月10日[73] | フェンキルの日 | Fenkil ፈንቅል | フェンキル作戦の成功を記念して制定された |
3月8日 | 女性の日 | Maelti Anesti መዓልቲ ኣነስቲ | 国際女性の日と一致する[74] |
移動祭日 | エリトリア正教会の聖金曜日 | Arbi Siklet ዓርቢ ስቅለት | |
移動祭日 | エリトリア正教会の復活大祭 | Fasika ፋሲካ | |
5月1日 | メーデー | ||
5月24日 | 独立記念日 | Maelti Natsinet መዓልቲ ናጽነት | 1991年のエチオピアからの独立を記念したものである |
6月20日 | 殉教者の日 | Maelti Siwuat መዓልቲ ስውኣት | |
移動祭日 | イド・アル=フィトル | スンニ派イスラム教の祝祭 | |
9月1日 | 革命の日 | Bahti Meskerem ባሕቲ መስከረም | 独立戦争が開始されたことを記念したもの |
移動祭日 | イード・アル=アドハー | スンニ派イスラム教の祝祭 | |
12月25日[73] | クリスマス | Lidet ልደት | 非正教会のキリスト教宗派によって確立されたもの |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
自転車競技[編集]
イタリア植民地時代に自転車競技が導入され、エリトリアの国技と言われるほどロードレースは人気である。持久系スポーツを得意とするエリトリア人の体格と起伏に富んだ地形が自転車競技の練習に合っており、ヨーロッパの大会で活躍する選手は国民的英雄として喝采される。アスマラ市内では試合国際大会の﹁ツール・ド・エリトリア﹂や国際交流イベントが行われる[75][76]。ツールドフランスで活躍したダニエル・テクレハイマノが国際的に知られている。オリンピック[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
著名な出身者[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 二宮書店(編) 編「エリトリア」『データブック オブ・ザ・ワールド 2010年版』二宮書店、2010年1月15日。ISBN 978-4-8176-0340-1。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 駐日エリトリア大使館 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - エリトリア (日本語)
- その他